第48話 終幕の始まり
暗がりの中を走る少女がいた。
まだ幼い少女が一人で走り続けている。
何かに追われるように。
恐ろしいことから逃げ出そうと走るが、暗い夜の森は少女が走るのに都合の良い環境ではない。
まともな道もなく、灯りもなければ。
「きゃぁっ!?」
突き出していた木の根に足を取られて転ぶ。
痛いのだろう。
うずくまり、周囲を見回す首が小刻みに震えていた。
夜の森は恐ろしい。
そうでなくても、昼間に少女が森に入ることもない。
森には獰猛な魔物が住んでいるし、人攫いのようなならず者がいることもある。
普段は普通の人間でさえ、森の中で少女に出会ったら、獣になるかもしれない。
誰にも見つからない場所でなら、その欲望を満たすために凶暴な行為に及ぶことも。
足が笑っていて、腰が抜けていて、それでも少女は進もうとした。
自分の意志ではないのか、誰かに言われたことをそのまま遂行しようとでもいうように。
地面に手を着き、這いながらも進む。
這いつくばって、それでも前に進もうと。
「あ……」
声を上げた。
小さな声を上げて、見上げる。
そこに少女が何を見たのか。
「お、かあ……さん……?」
それは。
安堵の笑顔を浮かべて見上げる少女。
それを見下ろして、私は何を思うのか。
この暗がりではまともに顔も見えないはず。
そもそも母と呼びかけたのは、私の顔を見る前だった。
(ああ、この服)
理解する。
先ほど入手した服のことを考えて理解した。
この服を着ていた人間の女は、そういえば何かを案じるような言葉を口にしていた。
服を剥ぎ取り、下着まで脱がされた時には、命乞いの言葉を口にもしていたが。
人間に全てを奪われた。
生きる意味であり大切な存在を奪われた。
幸せを奪われ、尊厳を踏みにじられ続けてきた。
その思いを、その屈辱を、その悲しみを。全ての人間に届けよう。
ただ洞窟の奥でひっそりと暮らすだけで良かった私たちの幸せまで奪われた。
もうこの世界に何もない。
かつてはそこで絶望して、死んだ。
何も出来ずに死んだ。
今は違う。
大切な母さんから受け取った力がある。
母さんと私の復讐を成し遂げる力を、この為に残してくれたから。
身に着けている服は、少女の母体となった人間の物だったのか。
それは。
それは、それは。
それはそれは、実に……
(……なんと言うのかしら)
どう表現すればいいのか、適切な言葉が見つからない。
ただ、とにかく無性に気分が良い。
これこそが私の望み。
それこそが母さんの望み。
「……」
見上げて、薄暗い月明かりでも、何か違うとわかったのだろう。
だが、少女は何もしなかった。
身動きせず、息をすることも忘れた様子で、私を見つめている。
そういえば遥か昔に、尊厳を奪われていた頃に、行きずりの少年にそんな目で見られたことがあったか。
なぜ今思い出すのかわからないが、そんな目だった。
「あ……」
少女が声を漏らす。
そして、その口を釣り上げて、一度は凍り付いた顔にまるで笑顔のような表情を浮かべる。
(……)
何を考えてそんな顔をしたのだろうかと思えば、何のことはない。
自分が笑っていたからだ。
笑みを湛えて、少女を見下ろしていた。
ここから始まる。
これから始まる私の人生の終幕に向けて、まさか母と呼ばれるとは思わなかったので。
つい、笑みを零してしまった。
それを見た少女が、何を思ったのか笑顔を返しただけ。
「……」
応じよう。
その気持ちに応えよう。
笑顔のまま、手を翳す。
高く翳した手の中には、小さな黒い石が握り込まれている。
「私は――」
もういない。
母さんは、もういない。
私の母さんは、もういない。
お前の母さんは、もういない。
「母さんじゃ、ない」
※ ※ ※
――アヴィ、お前の幸せを願っている。いつでも、いつまでも……
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