55
谷津田達也はいきり立っていた。
今は岡嵜邸へ向かうヘリコプター、スズ412の中。
谷津田を含め、外事課の捜査員が七人、万が一の発症に備えて操縦士が二人、計九人が搭乗している。
渋滞で動きが取れない状況の中、ヘリコプターでの移動があっさりと決まった。
地道な調査活動が大半で、逮捕する機会のほとんどない課にあって、ヘリコプター投入による被疑者の確保。
先ほどから武者震いが止まらない。
<隣国か中東辺りと睨んどったが、まさか国内のことで、しかもわしらが動かなにゃあいけんようになるとはのお。
上は警視庁を出し抜いたと喜んどるようじゃが、そんなこたあどうでもええ。
岡嵜には、東京、いや世界をこんな事態にしたことを後悔させてやる。
しごうしてやりたいくらいじゃ。世の中、甘う見んなよ>
事態は既に国レベルで動いており、警察庁は岸総理大臣の命を受けた桐谷長官の指揮の元、特別捜査本部を設置し、事態を打開しようとしていた。
そんな中、国際バイオテロを前提に捜査を進めていた外事課にあって、谷津田は岡嵜零が被疑者と外事課から連絡があると、すぐに製薬会社に目を向けた。
都内の複数の製薬会社の外国人をこれまで当たっていたからだ。
その中のひとつ、トレジャーバイオの高須に電話すると、その口調からすぐに何か知っていると察知。
それでも個人情報保護法を盾に渋る高須に対し、岡嵜零がトレジャーバイオから物品を購入していたという偽の証言をでっち上げ、すぐに捜査令状を取った。
案の定、顧客リストの中に岡嵜零の名前と搬入先を発見。
ただ、渋滞で捜査車両での動きが取れなくなったため、ヘリコプターの投入を要請。
トレジャーバイオの営業車用の駐車場に呼び寄せ、搭乗したのだった。
谷津田はけたたましく響くローター音の中、右に座る室という捜査員を押しのけるように窓から下を覗いた。
道路は渋滞中の車のランプで光の線が幾重にも伸び、特に高速道は太い帯を作っている。
<施設の捜索は後回し、あとで鑑識が、って話だが、こりゃあいくら待っても辿り着けんで…>
トレジャーバイオから岡嵜邸までは直線距離で約三十キロメートル。
ヘリコプターならものの十分で着く距離だ。
ただ、着陸できる場所がなく、また、ローター音で被疑者に気付かれ逃げられてはならないため、少し迂回。
岡崎邸から一キロメートルほど離れたゴルフ場に着陸する予定だった。
「谷津田さん、知ってますか。
高校生棋士の藤田七段、ついに八段になるらしいですよ」
浮かせた腰を元に戻した谷津田に、室という部下がローター音に負けない声で話しかけてきた。
将棋好きで、たまに谷津田と指すこともあるが、一枚上手の谷津田には敵わず、連戦連敗だった。
「とぼけたことを言うな、日本の明日がわからんいう時に。
すぐ先の一手を見据えろ、馬鹿もんが」
「すみません…」
「これから、戦場に向かうくらいの気でおれや。
まあ、あれよ…わしらは将棋の歩みたいなもんかの?
にー、しー、ろー、はー、ほれ、ちょうど九人乗っとるじゃないか、歩の数と一緒じゃあ」
広島出身の谷津田は、親しい部下などには方言を隠さない。
仏頂面で口は悪いが、気さくで部下の面倒見も良かった。
「なるほど。岡嵜が逮捕できたら大手柄ですから、僕ら、と金くらいにはなりたいですね」
「何、上手いこと言いよるんなら。
一局終わったら、わしらまた歩に戻って、いつものように先頭に並ばせられるのが落ちじゃ」
「うわー、まさに捨て駒じゃないですか」
その会話の様子を、後ろの席に座った尾津と小泉という捜査員がにやついて見ていた。
尾津の方は、捜査関係の道具や書類を入れた大き目のショルダーバッグを持っている。
谷津田の部下で、矢佐間と八塚が事故現場で出くわした際にいた二人だ。
初めのうちは厳つく聞こえる広島弁も、慣れてくると意外におもしろく感じるらしい。
特に今年配属されたばかりで東京出身の尾津は、同僚の小泉と度々それをネタにしていた。
「ほんまは谷津田さん、仁義なき戦に出とるんじゃないか?」
「馬鹿言え、さすがに今じゃったら古老の皿辺りじゃろ」
と、どちらも広島を舞台としたヤクザ映画の名前を出し、下を向いて笑う。
いつも、そうやって広島弁を真似て揶揄するが、芝居がかったそのイントネーションはいい加減なものだ。
その二人を挟む形で座っていた岡と田中という捜査員も、つられ笑いをかみ殺していた。
「お前ら、何話しよるんなら。どいつもこいつも気がたるんどるのお」
「そうは言っても谷津田さん、これだけの人数で五十過ぎの女一人が相手ですから…」
「それがたるんどる言うんじゃ。女一人とはいえ、国際指名手配になってもおかしゅうない凶悪犯なんで。
岡嵜邸は結構広いんはわかっとるじゃけえ、逃げられんようにせいよ。
ほいで、有馬いう娘の行方は杳として知れんのんじゃ。
一緒におるかもしれんことを忘れるな」
「はい」
向いの四人は表情を引き締めて返事をした。
「ほいで、水川よい」
「あ、はい」
一拍置いた呼び掛けに、谷津田の左隣に座っている唯一人の女が返事をした。
尾津と同じようなショルダーバッグを持っている。
被疑者が女であるため、確保後に身体検査をする際の配慮で動員されていた。
「お前は後ろの方におれよ。ほいで、足でまといにならんように」
「はい…あの、それは私が女だからそうおっしゃっているのでしょうか?」
「そがあなこと言わすな」
「はあ?そがあなことって…」
普段、谷津田と余り接点のない水川は、谷津田なりの配慮と方言の意味、その両方がわからなかった。
<よいよ最近の若いもんは…言うたら、年寄りが言うこと思いよったが、わしもはあ歳よのう>
「もうすぐ岡嵜宅上空です。右下になります」
操縦士から声がかかった。
谷津田らは右の窓から下を覗くと、岡嵜邸があるであろう山の中に建物の明かりが見える。
「あそこで間違いなければ、明かりがついてますから、岡嵜母娘のどちらかがいる可能性が高いかと」
「見りゃあわかるわい。
やはり、ホシは研究施設に潜んどったか」
室に答えた谷津田は、また武者震いした。
ヘリコプターは、予定通りゴルフ場の駐車場に着陸した。
操縦士の一人は到着した旨を無線で本部に伝えると、その場にもう一人の操縦士と共に待機する。
降りた七人はスマートフォンのマップアプリを頼りに道を進んだ。
舗装してあるとはいえ、暗闇の山道を懐中電灯で照らし、小走りで岡嵜邸へ向かうのは身に堪える。
<くそ、走るんは久しぶりじゃのお、しんどいわい>
谷津田は自分の体に鞭を打ち、それでも歩を緩めず、部下の後をついて行く。
「おい、岡、どうした?」
そばを歩いていた田中が、岡の異変に気付き、声を掛けた。
「いや、ちょっと、しんどくて…まあ、大丈夫だ」
岡はそう言ったものの、明らかに顔色が悪い。
「岡、悪いがお前を置いていく」
後ろの谷津田が追いついて言った。
「いや、警部、それは…」
「こっから、失敗する訳にはいかんのじゃ。
最悪、お前が発症したら、射殺せにゃあいけんかもしれん。
そんなこたあ、さすな」
「――おっしゃりたいことは承知していますが、やはり、自分は…」
「自分自身がようわかっとるんじゃないんか」
谷津田は岡の眼をじっと見る。
「…わかりました…ここに残ります」
「すまんのう、岡…」
周りの捜査員は黙って二人の会話を聞いていた。
投稿動画を見て、自分たちが発症するかもしれないことはわかっていた。
外事課の何人かが発症したとの情報もあった。
公にはなっていないが、捜査中に発症者を射殺してもやむなしとの通達も。
それによって、耐え切れずに逃げ出した者もいたが、ここに残っているのは、覚悟を決めた者ばかりだ。
「田中、岡嵜を逮捕して引き返して来た時に、もし俺が発症していたら、お前が…頼む」
そう言って、岡は自分の銃を田中に渡した。
「何を…」
「頼む」
「…わかった…でも、ただ単に調子悪いだけかもしれないだろ。
もし、大丈夫そうだったら、追いかけて来いよ…」
田中はそれ以上の言葉と涙を飲んで耐えた。
二十分近くかけて坂道を登り終えると、やがて視界が広がった。
白く高い塀、その先には小洒落たヨーロッパ風両開きの門扉が見えるが、通用門はないようだ。
谷津田らはそこからは慎重にゆっくりと進み、門まで到着した。
奥の建物にはまだ明かりが見え、一安心する。
ただ、調べてはいたが、谷津田の想像の上を行く大きさだ。
「はぁはぁ、この大きさじゃ仕方ない…
田中と室、はぁ、お前らは逃げられないように外を見張っとけ。
あの門以外に裏門やら抜け道がないかも、よう見とけよ。
もし、岡がなんものうて合流できたら、一緒に見張れえ言うとってくれ。
ゆうことで、他のもんは着いてこい」
谷津田の一縷の望みを交えた言葉に、「はっ」とも「はいっ」ともつかぬ、威勢の良い返事が全員から返った。
門に着くと、谷津田は息を整え、インターホンのボタンを押した。
<素直に出てくるか…それとも…>
他の三人、尾津、小泉、水川も身構えるが、思いがけず、すぐにインターホンから反応があった。
「どなたですか?」
動画で聞いたのと同じ掠れた声に、それが岡嵜だと谷津田は確信する。
「警察だ。お前に逮捕状が出ている、開けろ。
自分が何をしたのかわかっているだろ?」
「開けたくはありませんが、大切な門扉を壊される訳にもいきませんからねぇ」
その声の直後、外灯がいくつか灯り、スウィング式の門扉が自動的に内側へ開き始めた。
「私は奥の建物に居ます。そちらへお越しいただけますか」
四人の捜査員は、懐中電灯をしまうと門を通り抜ける。
<意外にあっさりしとるが、わしらが来るんがわかっとったんか。
観念したか…それとも…
罠かもしれんから、気い付けんと…>
キイー、キイー…
谷津田がそう思うや否や、門扉が閉じ始める。
「おい、閉じ込められたらいけん。配線切って開けとけるか」
「やってみます」
尾津と小泉が引き返し、小泉が門扉を引っ張ってみると、人力でなんとか留まる強さだった。
その間に尾津がショルダーバッグに常備している小道具の中からニッパーを取り出し、門扉に繋がる配線を切った。
「よし、行くで」
四人は外灯の明かりを頼りに注意深く前に進むと、やがて視界が開けた。
そこは裏庭なのか、手入れの行き届いた芝生が広がり、やはり外灯で照らされている。
目が慣れてくると、その奥に小学校の体育館を一回り小さくしたような、かまぼこ型の建物が見えた。
その中央の入口のところに誰か立っている。
「あそこだ。用心しろ」
歩を緩める谷津田の右側から、捜査員たちは少し身をかがめ、ゆっくりと広がり、先に進む。
近付くに付入れ、それが女のようだとわかってきたが、どうも様子がおかしい。
「あれは…岡嵜…じゃあなさそうじゃの」
この寒さに、ぼろぼろの肌着一枚しか纏っておらず、長くぼさぼさに伸びた髪は黒いが、容姿は日本人とは思えなかった。
「拉致されたという外国人かもしれん、”発症者”として対処しろ」
谷津田の号令にすぐに残りの三人が胸の内側に手を突っ込む。
ドイツK&H製、SPUという銃だ。
装弾数は一三発。
「ぎゃうううう!」
三人が銃を取り出すのとほぼ同時に、女が奇声を上げて走り始めた。
「おい!やはり発症者だ!」
谷津田がそう叫ぶやいなや、女は捜査員たちに襲いかかった。
捜査員たちもすぐに発症者と気付き、その攻撃を躱す。
「何しょうるんや!発砲許可は下りとる、構わん、撃て!」
躊躇う捜査員を谷津田が鼓舞した。
バン!バンバンッ!
それぞれが一発ずつ、計三回の銃声が響き、女は倒れた。
谷津田もすぐに追いついて、銃を構えた。
「谷津田さん、あれを!」
広がった四人の一番外側にいる水川が声を上げた。
見ると、入口から次々と拉致された外国人が出てきている。
その数、十人以上。
どれも半裸か全裸、痩せこけて肋骨が浮き出ており、その眼は虚ろで鈍く光っていた。
女は髪を振り乱し、男は髪以外に髭も伸び放題だ。
「がああああ!」
「きいいい!」
それらが皆、捜査員を見るなり、奇声を上げて走り出す。
「撃て!撃て!」
捜査員たちは銃を構え、容赦なく何発も発砲する。
それでも、外国人たちは銃撃の間隙を抜けて詰め寄ってきた。
四人が弾を撃ち尽くそうかとした時、最後の髭面の男が水川の直前で突っ伏して倒れた…
と思わせた、その後ろに、もう一人、女がいた。
それは黒いレザースーツ姿の零だった。
零は外国人たちを盾に捜査員たちに近付いたのだ。
零は水川の胸の真ん中に、右手で掌底を食らわした。
それはロシア発祥、「システマム」と呼ばれる軍隊式格闘術。
それを零に教えたロシア人の男は大柄で屈強だったが、今は見る影もなく、発症者としてそばに倒れいていた。
システマムは、相手の身体の鍛えられない急所、弱点を攻撃することを基本とする。
例えば、眼球や股間といったオーソドックスな部位の他、鎖骨、肋骨、脛などの骨浮き出た部位、骨と骨の隙間。
そこに親指を入れたり、膝や肘、掌底など硬い部位で強く突く。
人体構造を医学的に理解している零にとっては、最適な格闘術だった。
水川が攻撃された部位は、どんなに筋肉を鍛えても覆われることのない胸骨と鳩尾、その中間を正面から。
それだけで、水川の胸骨は折れ、息ができなくなった。
一瞬にして右腕を背側に捻られ、銃を落とすと、さらに左脇腹に激痛が走る。
「くぅっ!」
見ると、スタンガンを押し当てられていた。
呼吸困難とその激痛に、水川は動けなくなる。
「銃を捨てましょうぅ。この女がどうなってもよろしいのですかぁ?」
零は掠れた声で言うと、スタンガンをぽいっと放る。
そして、すぐにポケットに手を突っ込み、注射器を取り出すと、水川の首に腕を回して今度は注射器を当てがった。
<じゃけえ、後ろにおれえ言うたのに…>
「お前が…岡嵜、か」
谷津田が苦虫を噛み潰したような顔で問いかけた。
「そうです、初めましてぇ」
「何が初めましてじゃ、場違いな挨拶をしてから」
「場違いなのはあなたたちの方。
この程度の人数とこんな軽装備で、力を解放した私に敵うとお思いですかぁ」
<力を解放?また訳のわからんことを…
しかし、こんなあ、歳は五十超えとるはずなのに、こがあなええ女じゃったんか…>
「かああああ…」
谷津田が思わず見とれるほどの零の後ろで、撃たれてもまだ生きていた、システマムの師範が呻き声を上げた。
両脚を撃たれるも、匍匐前進でずるずると近付いてきている。
尾津と小泉はその姿を見て、恐ろしそうに互いに顔を見合わせた。
「かわいそうに、あなた方もひどいことをしますねぇ。
この方、元は私の武術の先生だったのですけれど」
零はその男から距離を取るように、水川を押して、少しずつ谷津田たちの方に近付く。
<どっちがじゃ、かばちたれなよ>
谷津田はその思いを表情に変える。
「それより、早く銃を捨てていただいた方が身のためだと思いますよ」
零が水川の首を締め上げると、
「ううっ」
と水川が苦悶の表情を浮かべて呻いた。
「――水川、すまんな…
構わん、確保しろ!」
その言葉を待っていたように、捜査員二人が一斉に零に駆け出した。
「馬鹿なことを…」
零は注射器を水川の首に刺し、中の液体を注入する。
「うっ」
それに気付いた水川は青ざめるが、まだ上手く息ができず、何も言えぬまま崩れ落ちそうになる。
零はその水川を盾に、まず先に飛びかかってきた右側の小泉を躱す。
水川の腕を捻っていた右手を離し、体制を崩した小泉の脇腹に掌底を叩きこむ。
次に、左側から来た尾津を、くの字に体を曲った水川の背の上で回転し、反対に降りて躱す。
さらに水川を蹴り飛ばすと、尾津にぶつかり、二人は一緒に数メートルも吹っ飛ばされる。
それは、わずか十秒の出来事だった。
「馬鹿な…」
さすがの谷津田もその有様に怯んだ。
その間に零は、水川が落とした銃を拾うと、倒れてもがいている小泉を強引に立たせる。
そして、また水川にしたような体制をとる。
「もう一度言いますよ。銃を捨てましょうぅ」
と言って、今度は銃を小泉の首元に向けた。
「ぐっ」
一番下の――やはり鍛えたとしても筋肉で覆われることのない――肋骨を折られた小泉は、その痛みで苦悶の表情を浮かべる。
だが、谷津田は動かなかった。
いや、正確には動けなかった。
<こいつ、何者なんじゃ…女じゃけえと甘くみとった訳でもないのに>
しかし、その逡巡を零は良く思わなかった。
「そうですか。でしたら、これは二度も言うことを聞かなかった罰です」
零は銃口を、起き上がろうとしていた尾津に向ける。
バンバンッ!
顔を二回撃たれた尾津は膝を付き、ばたりと前に突っ伏した。
「尾津ー!!」
谷津田が叫んだ僅かの間に、零は次に銃口を、立たせた小泉のこめかみに据える。
すると、スライドオープン――弾が切れてスライドが後ろに引かれた状態――であること気付いた零は、その銃を放ると、小泉の胸元から新たに銃を奪った。
「倍返し、なんて、欲張ったことを言うつもりはありませんが、ちょうど弾が切れてしまいましたね」
<…こんなあ、銃の扱いにも長けとるんか…場馴れしとると言うか…底が知れん…
うん!?あれは…>
「くっ…わかった…」
谷津田は一瞬、視線を零の奥に移すと、構えていた銃をゆっくりと下に置き、両手を上げる。
しかし、その視線を零は逃さなかった。
視線の先を追って振り向こうとした途端、バンッという銃声と共に、左腿に衝撃を受けた。
見ると、太腿を撃たれ、そこから血が溢れていた。
「よくも…」
零は銃を下ろして傷を押さえ、視線を銃声がした方に向ける。
そこには男が立っていた。
外を見張っていた室だった。
門の一番近くを見張っていた室は、銃声を聞いてすぐに駆け付けた。
家の陰から様子を伺うと、状況をすぐに判断し、零に見つからないように厩舎側に回り込んでいた。
「確保ー!」
谷津田は自らの号令と共に走り出す。
<室、ようやった。挟み将棋じゃ>
室もそれに応じるように走り出す。
その二人の行動を見た小泉は、少しでも役に立とうと、痛みを堪えて暴れ始める。
「ふん、小賢しいですねぇ」
カチッ、カチッカチッ
零は小泉を撃とうと引き金を引くが、弾が出ない。
「弾を使い切ったんで、スライドを戻してわからなく…」
その言葉が終わらないうちに零は銃を捨て、小泉の頭頂と顎を両手で持つと、車のハンドルのように回転した。
恐るべき力で頭を捩じられた小泉は、ばたりとその場に倒れた。
「スライドオープンをわからなくしておくなんて、あなたも小賢しいですねぇ」
零は谷津田に背を向け、すぐそばまで迫った室と対峙する。
「撃つぞ!」
直前まで迫っていた室は、止まって銃を構えた。
が、零はそれでも足を撃たれたとは思えない速さで突進する。
バンッ!
零への致命傷を避けようと、少し逸らして室は発砲したが、それは悪手だった。
発砲と同時に、零は間合いを詰めると、少し跳ね上がった銃身と手首を持つ。
手首を支点にテコの要領で銃身を捻ると、あっさりと銃を奪った。
バンッ!
零は躊躇いなく引き金を引くと、室はその場に倒れた。
「室ー!」
すんでの所で部下を撃たれた谷津田に、零は銃を向ける。
このまま、玉砕覚悟で突進するか、とんぼ返りして、自分の銃を拾いに戻るか――
<銃を先に拾っておくべきじゃった。わしとしたことが…>
後者の選択にかけた谷津田の、その後悔は果たして的確なのかどうか、いずれにせよ、時すでに遅し。
バンバンッ!
谷津田はジグザグに走って、二発の銃撃を躱すことには成功した。
だが、それは長く続かない。
零がさらに放った二発の弾が、谷津田の右側の脚と腕の順で撃ち抜いた。
「があああ!くそー、何しゃあがる、うがあっ、くっ…」
谷津田は突っ伏してのたうつも、それでもまだ抗おうと、その動きに紛れて、届きかけた銃に左手を伸ばす。
だが、零はあっという間に谷津田に駆け寄り、銃を取り上げた。
<…気付けば、誰も動けるもんがおらんとは…万事休すか…いや…まだ…>
「…どうする気じゃ、わしも殺すんか」
谷津田が観念したように言った。
「いいえ、あなたにはやってもらうことがありますぅ、ふう」
零はひとつ息を吐くと、俯せの谷津田の背中を跨いでしゃがみ込んだ。
「ぐうっ」
谷津田は唸るが、思いの外、零の体重はそれほど伝わってこない。
<…こんな軽い女一人に…抜かったわい…
田中、頼むで…>
「その前に一つ質問があります。他にまだ、誰かいますか?」
零はそう言いながら、谷津田の身体を隈なく探る。
「――知らん」
たった今、思い浮かべたことを訊かれ、谷津田は内心ぎくりとしながらも、しらを切った。
「知らない?」
零はそう言いながら、谷津田のポケットから手錠を見つけ、後ろ手にかけた。
「ああ…」
「これでも?」
零は右横を向いた谷津田のこめかみに銃口を押し付ける。
「知らんもんは知らん。
おるかもしれんし、おらんかもしれん」
谷津田は銃に臆せず、少しでも零を動揺させようと試みる。
「…まあ、いいでしょう。
あなたにやってもらうことは、ここを引き返してもらうことです」
零は谷津田の右側に立ち上がると、撃った右腕を蹴り上げた。
「がああ!」
谷津田は強引に仰向けにされ、痛みで身をよじった。
「ここまで警察が来るのは、想定内と言えば想定内ですが、低い確率だと思っていました。
しかも、こんなに早くいらっしゃるとは、さすが、日本の警察は優秀ですねぇ」
零はそう言うも、谷津田を見下す。
「――ただ、あなた方が失敗されたからといって、次々に来られては困ります。
そこで、私の要求なのですが…」
「――日本政府はテロリストの要求は聞かん」
谷津田が零の言葉を遮った、その直後だった。
バンッ!
「痛ああ!」
銃声と共に叫び声を上げたのは、谷津田ではなく、左腿を撃たれた室だった。
防弾チョッキを着ていた室は一命を取り留め、反撃の機会を伺っていた。
だが、至近距離で発砲したにも関わらず、弾が突き抜けなかったことに零は気付いていた。
「室ー!」
谷津田は絶叫した。
「私が撃たれた腿と同じところに、お返ししたまでです」
「やめろ、岡嵜!これ以上、罪を重ねるな」
「あなたのせいでもあるのですよ。
私の言うことを聞かないから」
「――わかった。
たちまち…じゃない、取りあえず、要求を言ってみろ」
「私はお願いしたいのは、日本政府なんて大層なところへの要求ではありません。
谷津田さんでよろしいですか、あなたにお願いしたいんです」
「なんだ?」
「先ほど言いかけましたがね、これ以上ここに警察などが来ないように、一芝居打ってもらいたいのですぅ」
「一芝居?」
「何、簡単なことですよ。
あなたの部署に連絡して、私たち母娘を確保した、これから署に連行する、とでも伝えていただくだけで結構ですぅ」
「…そんなこと…」
「また撃ちましょうか?
水川さんとかいう女性も、まだ生きていらっしゃるようですし…」
「わ、わかった、わかったけえ、もう撃つな…
スーツの内ポケットに携帯がある」
谷津田は顎を引いて、携帯電話の位置を示した。
<こりゃあまずいのお…なんならヘリに戻ってから、無線で連絡し直すか…>
「ああ、ガラケーですかぁ。
これ、スピーカーフォンにはできますか?」
考えを巡らす谷津田に、零は取り出した携帯電話を向ける。
「スピーカーホン?」
谷津田は思ってもみなかったことを訊かれ、少し呆けた声を出した。
「周りに声が大きく聞こえる機能ですよ」
「なんじゃ、そりゃあ。
そんなこたあ知らん」
「知らん知らんと、困りましたね…
取りあえず、これは預かります」
零は携帯電話をパンツのポケットにしまう。
「ちっ、勝手にせえ」
「おっと、勝手に動かないでください」
一文句のあと、腹筋の力で起き上がろうとする谷津田を、零は制した。
「どなたかお持ちじゃないですかね?」
零は銃口を谷津田に向けたまま、倒れた室の元に行く。
「話は聞いていましたよね?」
「わかった…持っているから、もう撃つな、撃たないでくれ…」
室は痛みと恐怖で震えながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
「あなたは室さんというのですよね?」
「ああ」
「その時代遅れのガラケーでも、スピーカーフォンにできますか?」
「…ああ、できる…」
「そうする意味は、おわかりですよね?
「会話を聞いて、本当にかけているか、そして、相手が本物かどうかを確かめたいんだろ」
「その通りですぅ。
室さんは、こちらの使えない上司とは違いますねぇ。
では、おかけいただけますか。
ああ、もうひとつ…
おかしな真似をしたら、容赦はしない、ということも、おわかりかと思いますがぁ」
零の言葉に、室は息を飲んだ。
痛みに耐えながら、上半身を起こすと、周りを見渡す。
顔だけ上げて、様子を伺っている谷津田、まだに呻いている水川、動かない尾津と小泉…
自分と同じように駆け付けていいはずの、田中の姿は未だ見えない。
「わかった…」
室は観念して、スマートフォンを操作し始める。
<室…電話をかけるのはしょうがないが、時間を稼げ…
まだ田中がいる…もしかしたら、岡も…>
その谷津田の願いは叶わなかった。
この時点で全ての手駒は使い果たされ、既に詰んでいたのだから。
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