51

 八塚克哉は逃げていた。


女子大生二人を連れ、慎重かつ大胆に。



 署員の発症者への対応で混乱している警視庁に戻ることを諦め、とにかく隠れる場所を探す。


街ではいたるところで騒ぎが起きていている。


そういった場所は極力避け、道を選んで進むが、それは勘でしかない。


周りには八塚らと同じように、逃げ惑う人々が右往左往していた。


道路の渋滞はより一層ひどくなり、全く動かない。


車を運転中に発症した者が暴走させた事故、同乗者の発症により逃げ出し放置した者、その渋滞で動きが取れず運転を諦めた者、それらの車で溢れている。


時折、車の間を縫うように進むバイクがあるくらいだった。



 八塚たちを時たま襲って来る発症者もいるが、なるべく走って逃げ、それでも追いかけて来る者は足を狙ったりして動きを奪った。


とにかく、もう、八塚は人を殺したくない。


逃げることを最優先に、駆け回った。


<どこだ、どこに逃げればいい…考えろ、考えろ>


酸素を頭にも必死で回す。


<どこかいい建物はないか…


開いている店はゾンビがいるかもしれないし、閉まっている店には無理しても入れないだろう。


なら、どこか、マンションや民家…だが、誰もこんな状況では入れてくれるかどうか…


じゃあ、人がいないところまで…


いや、この東京のど真ん中では無理だ…


では、なるべく少ないところはないか…>



 「きゃあ!」


振り返ってみると、オメガを発症したであろう若い男が、狂ったような表情で自分たちを追いかけて来ている。


八塚は急いで後ろに回ると、その男の顎に膝蹴りをかます。


男への顎へのダメージは相当なもので、前歯を折り、脳震盪を起こして倒れた。


だが、それでも、じたばたと暴れ回っている。


「さあ、早く!」



<本当にうかうかしてられないな…


人の少ないところ、できれば周りが見渡せて、誰が来るか一目瞭然で…すぐに逃げられて…


ないのか、そんな都合のいい場所は…>


八塚は苦しくなって顎が上がり、空を見る形となった。



<まだ、街の明かりは灯ってるな、都会の空には色が無いとか…考えてる場合か…


空…ヘリででも逃げられれば…まあ、無理だけどな…


警視庁には電話が繋がらない、繋がったとしても俺みたいな下っ端に出してくれるヘリはない…


空も駄目、陸も駄目、なら、あとは…海か川の…船…ん?船って意外に良くないか?


周りは水だから、周りに誰か近付いても水の音でわかるし、泳ぎも遅いし、万一、追いつかれても、上から攻撃したら何とかなりそうだし…


ただ、ここから海は遠いな…


それなら川、川ならボートがある…


公園でもどこでもいいが、ここからなら…>



「牛若堀に行きましょう!」


八塚は後ろの二人に唐突に声を掛けた。


牛若堀とは赤坂にあり、堀にかかる牛若橋のそばにボート場があった。


「はあ、はあ、もう駄目、はあ、もう走れない…」


江角は息が上がってふらふらだった。


阪水の方も苦しそうにしている。


「頑張って、ここからなら、あと数百メートルです」



 八塚たちはいつの間にか、青山通りまで来ていた。


そこを東に進めば牛若堀はすぐだ。


「ほら、赤坂御苑の方へ渡りましょう、向う側は人が少ない」


三人は渋滞で動かない青山通りを渡る。


途中、車中で発症した者が叫び声を上げるが、車から外に出る知恵が回らないようだった。



 赤坂署付近の交差点まで来ると、警官が総動員で発症者をとり抑えようと奮闘していた。


八塚はその様子を横目に走った。


<申し訳ないが、行きがかり上、この二人を助けることを優先させてもらうよ…>


三人は交差点を走り抜ける。



 そして、やっと牛若橋まで辿り着いた。


「はあはあ、もう駄目、マジもう無理、はあはあ」


江角が息を切らして言った。


「考えることは皆同じか…」


橋の上から堀を覗いた八塚が、失望のため息を漏らした。



 堀には、難を逃れようとする人々が出したいくつもののボートが浮かび、余りは一つもなさそうだった。



「ぎゃああああ!」


ボートの上のひとつから、叫び声が聞こえた。


複数人で乗っていた一人が発症したようで、同乗者の一人に噛み付いたようだ。


残りの者は慌てて堀に飛び込み、他のボートの者は離れようと必死でオールを漕ぎ始める。



<舟の考えは机上の空論だったか…まさに泥舟…さて、どうしたものか…>


八塚は息を整えながら考える。


「はあはあ、ちょっと、はあはあ、さすがに走り過ぎてもう無理です…」


ここまで弱音を漏らさなかった阪水も、既に体力の限界のようだった。


「ちょっと待ってて。


そこでジュースでも買ってくる、ちょっとこれ持ってて」


八塚は橋を渡り切ったところにある自販機を見つけ、警棒と盾を江角に預けると小走りに向かった。


スマホ決裁が利用できるタイプで、八塚は急いでペットボトルタイプのスポーツ飲料二本と炭酸飲料一本を買った。


「きゃああ!」


二人の元に戻ろうとした時、行き交う人ゴミから、スーツ姿の発症者が現れた。


二人は残りの気力を振り絞って、八塚に向かって走る。


八塚は急いで駆け付け、その勢いでその男の胸を蹴り飛ばした。


「一旦、この茂みに隠れましょう。


体力を回復しないと持たない」



 ボート乗り場の扉は壊されており、一見、小さな森のように見える木立の中に散策道が続いている。


三人はそこに入ると、すぐに道をそれ、人目のつかないよう木の下に腰を下ろした。



 「さあ、これを飲んで、ここで少し休もう」


八塚はコートからスポーツ飲料を取り出して、二人に渡す。


「はあ、はあ、ありがとうございます」


二人はごくごくとそれを喉に流し込んだ。


「今は走って熱いくらいだけど、夜は冷え込むだろうから、後であったかいのでも買っておこう」


八塚はそう言って自分用に買った炭酸飲料のキャップを開けた。


一口だけ口に含むと、炭酸が渇いた喉に浸み込む。


<くうー!効くなー>


「あーっ」


八塚は思わず、声を漏らした。


「あ、一人だけ炭酸じゃないですか、一口くださいよ」


江角が気付いて、手を伸ばしてきた。


「え?ああ、すまん、君たちも炭酸の方が良かったかな。


口付けたんで良ければ…」


八塚は照れくさそうに飲み口を指で拭い、江角に渡す。


<しかし、女子大生二人とこんな茂みの中にいてこんなことしてるとは…


別れる前なら里奈に怒られて…そういや、あいつには連絡してなかったな>


八塚はスマホを取り出した。


<ブロックしてなきゃいいけど、どうだか>


と、そばにそそり立つホテルから、小さな叫び声や怒鳴り声が聞こえてくる。


<ここでも、うかうかしてられないかもな…>


八塚が手早くリネを操作し終えた時だった。


ガサガサ。


ふいに、茂みの向うから音が聞こえた。


三人に緊張が走る。


そこへ作業着を着た中年の男が現れた。


両手を前に上げ、小さな呻き声を上げながら、こちらに向かって来る。


八塚は咄嗟に身構えた。


八塚が江角の顔を見ると、江角はすぐに察したように警棒を渡す。


八塚は意を決して立ち上がり、その男に殴りかかる。


「ちょい待ち!ちょい待ち、お兄さん!」


八塚はすんでのところで、警棒を止めた。


「うわ、何ですか、こんな時にまぎらわしい、勘弁してくださいよ」


発症者でないことがわかった八塚は警棒を下ろした。


「すみません、すみません」


男が下げる頭は少し薄い。


八塚は改めて男を観察すると、どこも噛まれたところはなさそうだ。


作業着の胸のところには『尾坂』の刺繍がある。


「えー、尾坂さんですか、そんなゾンビみたいな歩き方してたら、そりゃ間違えますよ」


「いや、そうですが、あの、知らないんですか」


「え?何を?」



 その男、尾坂の言葉により、八塚たちは助かることになった。

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