第32話 その日の夜1
寮に戻ると、もう夜だった。
「今日はメル、色々と本当にごめんなさいね」
彼は首を横に振った。
「いいえ。心配もしましたが、クリスティン様と一緒に花祭りを見られてとても楽しかったです。ありがとうございました」
「わたくしこそ、ありがとう」
(夕方からは、恐怖だったけれど……)
クリスティンにとって、今日戦った無頼漢よりも、よほど生徒会メンバーのほうが怖いのだ。
だがソニアを救うことができて幸いだった。
偶然クリスティンが見つけたから良かったが、一歩間違えれば、大変なことになるところだ。
ソニアの普段のドジさ加減は、まだ可愛らしいといえるが、今日のようなことはいただけない。今後気を付けてみていないと。
◇◇◇◇◇
大浴場から室内に戻り、そろそろ眠ろうかと思っていれば、ノックの音が響いた。
扉を開けると、メルの姿があった。
「どうしたの?」
「少々お話があるのですが……よろしいでしょうか」
夜遅くに彼がクリスティンの部屋を訪れるのは珍しい。何かあったのだろうか。
「入って」
メルはクリスティンが勧めた椅子に腰を下ろす。
室内にあるお風呂に入ったのだろう、石鹸の香りがした。
「あの」
彼は俯き、意を決したように口を切る。
「クリスティン様。街の宿屋でのことを覚えていらっしゃいますか?」
クリスティンは嘆息して、かぶりを振る。
「実は、よくは覚えていないのよね。お酒を飲んでしまったでしょ」
クリスティンはアルコールが入ると記憶が欠落し、混乱することがある。
その前に薬を摂っていて、飲み合わせも悪かった。
彼はほっとしたような、そうでないような複雑な表情になる。
「そうですか……」
「街で倒れ、あなたに宿屋に運んでもらったのよね? 外に出たとき、いやに身体が火照っていたことは覚えているのだけど」
「いえ。覚えてらっしゃらないのなら……」
彼はそう言って、椅子から立つ。
「遅い時間に申し訳ありませんでした……。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
彼は部屋から出て行こうとして、立ち止まった。
こちらを振り向き、背で扉をゆっくりと閉める。
「やはり……クリスティン様の体調の改善になることですし……私は忘れられません。ずっと慕っていたクリスティン様に今日したことを……」
呟くような声で、聞き取れない。
「え?」
「クリスティン様」
彼はじっとクリスティンを見つめる。
「宿屋で……寮ですると申しました」
「何を?」
「私はあなたに宿屋で……」
彼は目尻を染め、下を向く。
クリスティンは宿屋で、なんだか夢心地でいたような気もする。
「宿屋で何があったの?」
彼は口にしようとするが、躊躇いをみせる。
「とてもふわふわと心地よかったという記憶はあるわ。あと暑かったような」
彼は更に顔を赤らめた。
「はい……」
クリスティンは記憶を辿る。
お酒を飲んで、ふわふわして、でも頭痛もして身体がだるかった。
それで……上半身に巻いていたサラシを取ろうと思ったのだ、確か。
(取ったから、心地よくなったのかしら?)
でもそれだけではない気もする。
「酔ってらっしゃいました」
「確かに酔っていたわ。記憶が曖昧で」
「私がクリスティン様のサラシを取り……」
体調が悪く、自分で取れずに、メルに取ってもらった。
「それでラクになった」
「他にもしたことがありました」
「他に?」
彼は言いよどむ。
「教えて」
メルは瞳を潤ませ、押し黙り、俯く。耳まで赤くなっている。クリスティンはその姿を見たことがある気がして、記憶を手繰り寄せ、はっと思い出す。
(そうだった……!)
「ええと……あなたに治療してもらったのね、それでわたくし……」
「……今、よろしいでしょうか?」
沈黙がおりる。それが気まずく、クリスティンは頷いた。
「いいわ」
何もおかしなことではないのだから。
いけないといったら、おかしなことと認める気もした。
他のひとにされるのは考えられないけれど、触れるのは誰より信頼しているメルだ。
「では……失礼します」
彼は手を伸ばし、掌を置いた。
置かれているだけで、煽情的な触れ方ではない。
だが、メルがじっと見つめてくるし、とてつもなく恥ずかしい。
それに気づいた彼が言った。
「私は後ろに行きます」
彼はクリスティンの背に立ち、抱きしめるように後ろから手を回す。
クリスティンの身を支えるようにして、メルが耳元で名を呼ぶ。
「クリスティン様」
吐息が耳朶を擽り、背筋が痙攣する。
クリスティンは花祭りに行く約束をしていたし、誰よりもメルと行きたくて、彼と出掛けた。
彼に、他のひとにはない感情を抱いている。
メルに触れられると、恥ずかしいけれど、嫌ではないしどきどきして仕方ない。
クリスティンはメルの手首を掴んだ。
「も、もういい……メル……」
「クリスティン様。──『風』の術者である私が、あなたの心臓の上に手を置いて解すと、あなたは快復するのですよね」
クリスティンはそのとき、もうひとつ、条件があったことを思い出した。
──『風』の術者は、『星』の術者の心臓の上に手を置いて解し──。
かつ、口から口に気の流れを数分送る必要がある──。
メルはクリスティンの横顔を見つめる。
「どうしたのですか?」
「な、なんでもない」
「おっしゃってください」
促され、クリスティンは小さな声で言葉にした。
「実は……心臓の上に手を置くこと以外に、もうひとつ、することがあったのを思い出して……」
「それは何ですか?」
「……心臓の上に手を置きながら、口から口に、数分気の流れを送る必要があるって」
彼は頬をかっと赤らめた。
クリスティンも同様に顔が朱に染まる。
「……いいですか?」
メルに問われ、クリスティンの鼓動はどくんと跳ねた。
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