第236話 目覚める騎士たち(その5)

以下に書くのは、ジャロ・リュウケイビッチがセイジア・タリウスに挑戦する約3年前の出来事である。


「ちちうえーっ!」

門を抜けて元気に駆けてくるジャロ少年を見つけて、屋敷の正面玄関の前につけた馬車に乗り込もうとしていたドラクル・リュウケイビッチは眉をひそめてから、すぐ後ろに控えた執事のパドルに目配せした。

(おまえが知らせたのか?)

(存じ上げませぬ)

長年にわたり主従の絆で結ばれてきた2人の男たちが言葉に頼ることなく会話をかわしているうちに、

「こんなに急にお帰りになられてびっくりしました」

まだ8歳になったばかりの男児は父の目の前にたどりついた。モクジュ諸侯国連邦北方の「空白地帯」において軍役に就いているはずの老将軍はほんの数時間前に首都ボイジアに帰還したばかりだった。

「ジャロ、おまえはピアノの稽古に行っていると聞いていたが」

他国から「モクジュの邪龍」と呼ばれ恐れられている白髪の戦士の表情はいつになく柔らかなものとなっていた。年老いてからもうけた、というだけでなく、可愛らしい容姿と優しい性格からドラクルはジャロを目に入れても痛くないほどに溺愛していた。

「それはそうなのですが、父上がいらっしゃると聞いてお迎えしないわけにもいきませんから、先生にお願いして途中で切り上げてきました」

えへん、と威張ることでもないのに胸を張る少年に男の胸はたちまち感傷で満たされるが、彼の幼い息子はそれに気づくことなく、

「どうして姉上は一緒ではないのですか?」

ナーガ・リュウケイビッチの姿を探してきょろきょろと首を巡らせてみたものの、この場にいない彼女が見つかるはずもなかった。

「早急に大侯殿下にお目通りしなければならなくなったのだが、戦はいまだに予断ならぬ状況が続いている以上、ナーガにはわしの代わりに『龍騎衆』を率いてもらっているのだ」

父が丁寧に説明してくれたので、「はあ。そうですか」とジャロは一応は頷いてみたものの、その意味するところの半分も理解しているとは言い難く、何故父と姉(正確には姪だが)が戦っているのかも知らず、大侯についても「この国で一番偉い人」程度の知識しか持ってはいなかった。

「では、今から王宮へと行かれるのですか?」

栗色の髪の美少年は、大好きな父親を連れ去ってしまう憎い仇であるかのように、馬車を恨めしげに睨みつける。

「そういうことだ。わしも年をとりすぎたゆえ、ゆっくり骨休みをしたいところだがそうもいかん」

宮仕えのつらいところよ、と子供を対象にしているとも思えないジョークを「邪龍」は飛ばし、「ちぇっ」とジャロは頬を膨らませてふてくされたが、「あっ、そうだ!」とあっという間に機嫌を直すと、

「そういうことでしたら、王宮からお戻りになられたら、ぼくの剣の腕前を見てくださいませんか? 父上がお留守の間にかなり稽古を積んだのですよ」

次善策を見出して喜色満面になった御曹司は、自分の言葉で父と執事の顔に小波が立ったのに気が付かなかった。しかし、剛毅な軍人であるドラクルはすぐに平静を装うと、

「ジャロ、おまえ、剣の練習などをしておるのか?」

やや暗い表情をして訊ねた。すると、

「ええ、そうです。ぼくも早く大人になって、父上や姉上のような立派な騎士になって一緒に戦いたいのです」

えいっ、えいっ、と見えない剣を振って素振りの真似事をする男児を目を丸くして見てから、

(おまえがやらせているわけではないのか?)

(いえ、決してそんなことは。坊ちゃまがご自分から望まれたことです)

「邪龍」とパドルは視線だけで意思を疎通し合う。やれやれ、と気の抜けた笑いを浮かべた老騎士は腰を屈めて少年と目線を近くしてから、

「のう、ジャロよ。わがリュウケイビッチ家は代々騎士の家柄ではあるが、だからといって、無理に騎士になる必要などないのだぞ。おまえは本当になりたいものになるがいい。それがいかなる職業であれ、この父は反対などせぬ」

肉親としての思いを込めて言い聞かせたつもりだったが、

「でしたら、ぼくは騎士になりたいです。騎士こそがこの世で最も素晴らしい役割であって、それ以外のものになるなどとても想像できません」

無垢な瞳の輝きを消すことはできなかった。

(困ったことよ)

「モクジュの邪龍」ほどの英雄でも子育てはままならぬものらしく、息子は彼の願う道と異なる方向へと歩き出そうとしていた。幼少の頃からたびたび高熱を出して寝込んでいた病弱な少年が苛酷な任務に耐えられるとも思えず、よく言い聞かせてやらなければならない、と今更思っていたが、そうするだけの時間が男にはもう残されてはいなかった。だから、

「ジャロよ、よく聞くのだ」

両手を少年の小さな肩に置いて語りかける。

「おまえは好きに生きるといい。何があろうとも父はいつでもおまえの味方だ」

長く伸びた白い髭を揺らせて、

「わしがおまえに望むのはただひとつ、ナーガを守ってやること、それだけだ。あの娘はおまえよりも年上でおまえよりもずっと強いが、それでも姉のすぐそばにいてやれるのはおまえだけなのだ。リュウケイビッチ家の男として女を守り通さねばならぬ」

「はい! それはもちろん!」

言われなくても! とジャロは大いに意気込む。大好きな姉の力になりたくて騎士になろうとしているのだ。絶対になってやるつもりだった。

「それから、これはひとつのアドヴァイスだが」

老将はいたずらっぽく笑って、

「なるべく多くの女子おなごを慈しみ愛するといい。女を知らないのは世界の半分を知らないのと同じことだ。まあ、わしの息子なら世の女たちが抛っておくわけもないと思うがの」

声を出さずに笑う父をジャロは首を傾げて困ったような顔をしてみるしかない。

(女の子なんか、どこがいいんだ?)

8歳の男児にはレベルが高すぎる(あるいは低すぎる)意見、といえようか。

「わが息子よ、さらばだ」

青空のようなさわやかな笑み、それがジャロ・リュウケイビッチが最後に見た父の顔だった。

ドラクルを乗せた馬車が次第に遠ざかっていくのを心細く思っていたジャロは、一緒に見送っていたパドルが大きな体を震わせて角ばった顔を上に向けているのに気づく。まるで泣くのをこらえているかのようだ。

(そんなに悲しむことはないじゃないか。もう二度と会えないわけじゃないんだから)

しかし、その考えは間違っていた、と数時間後にもたらされた凶報によって少年は思い知らされる。「モクジュの邪龍」は命を捨てる決意をもって主君のもとへ赴き、忠実なる執事は主人の思いを感じ取っていたのだ。

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