第216話 領主の来訪(その1)

東の空が菫色に変わり、アステラとモクジュの国境にそびえる山麓の向こうから時期に朝日が昇ってくるのが見えるはずだった。夏の盛りとはいえいくらか肌寒い早朝の空気の中を、ふたつの人影が細い山道を西から東へと歩いていた。

「きみには世話になってばかりで何もお返しができずにすまないと思っているよ」

長身の金髪の青年が並んで歩くもうひとりに話しかけた。セドリック・タリウス伯爵だ。整った容貌のそこかしこが傷つき、いい仕立てのブラウンのスーツが汚れて綻びが見られるのは、彼が数時間前までマスカ帝国の騎士団に囚われの身となっていた名残であった。

「気になさることはないわ、伯爵様」

高貴な若者の謝罪を受け流したのは長くつややかな黒髪を持つ黒衣を纏った美少女だった。リアス・アークエット。踊り子にして拳銃使いの娘はセイジア・タリウスの窮地を救い、その後で女騎士から兄の手当てをするように頼まれていた。

「世の中は助け合いでできているの。困っている人がいたら手を差し伸べるのが人間というものよ。わたしは当たり前のことをしただけ」

身分の低い少女の中に燦然たる志があるのにセドリックは少なからず感銘を受けたが、

「それに、わたしはもう十分お礼を受け取っているわ。伯爵様からセイの小さな頃の話をたっぷり聞かせてもらったから」

怪我の治療をしてもらっている間に伯爵は幼い頃の妹の思い出をいくつか話していた。おてんばで破天荒な少女のエピソードは語り尽くせないほどあって、今回披露したのもほんの一部でしかなかったものの、

「ほんと、笑っちゃうわよね。セイったら昔からセイなんだから」

それでもリアスをかなり満足させられることができたようだ。

「わたしの方こそ、妹がきみたちの助けになっていたと知って大いに安心した」

リアスもまた彼女と王都チキのスラム街で暮らす少女たちのためにセイが大いに奮闘してくれたのをセドリックに話していた。騎士を辞め実家から勘当された後も妹が世のため人のために働いていたのを知った兄は心打たれ、

(セイジアには悪いことをした)

これまでの仕打ちを改めて反省した。素直な妹に対して肉親らしいことをしてこなかったことを悔やみ、「これからだ」とも思っていた。自分の命を救ってくれたセイに謝罪したのはそのための第一歩になるはずだったし、そうしなくてはいけないと真面目な若者は考えていたが、

「しかし、本当に大丈夫なのかね?」

頭上に広がる木々の向こうを見上げながら不安げにつぶやく。明け行く空は彩りを増していく一方で、黒い煙がもくもくと立ち上っているのも見えた。2人がこれから向かおうとしているジンバ村が出本なのは明らかで、伯爵が心配するのも無理はないことではあった。しかし、

「たぶん大丈夫でしょ」

リアスがけろりと言い放ったので「たぶんって」とセドリックは呆れるが、かわいい女の子の前で恐れをなすのは、貴族としてそれ以前に男としてあってはならないことなので弱音を呑み込むしかない。ハンサムな青年が柄でもなく勇ましく振る舞おうとしているのを愛おしく思ったのか、黒いドレスの少女はくすくす笑って、

「こう見えてもわたしは結構修羅場を踏んでるから、行く先が危ないか危なくないかくらいはなんとなくわかるのよ。確かに煙はまだ出ているけど、戦いはもう終わっている、っていう気がする」

それにね、とセドリックへと流し目をくれながら、

「あそこで戦ったのはあなたの妹さんよ? 勝ったに決まっているじゃない」

そう言われてしまえば「確かにそうだ」と答えるより他にない。リアスがセイを信じているのに、兄である自分が信じなくてどうするのか。セドリック・タリウスの背が伸び、足取りも確かになったのを見た少女はかすかに微笑んでから、

「ああっ、でも本当にびっくりしたなあ」

と黒いレースの手袋に包まれた両手を胸の前で重ね合わせて、

「まさか、セイのお兄さんとリブさんが恋人同士だなんて、想像もしてなかった」

可憐な少女が鈴の鳴るような声でささやいたのにタリウス伯爵は笑ってしまって、

「こっちこそ、きみがセイジアだけでなくリブとも知り合いだとは思わなかった」

と言い返す。だが、リアスはそれには取り合わず、

「幼馴染の2人がはなればなれになって、数奇な運命の末に結ばれるなんて最高にロマンチックだわ」

頬を赤らめてうっとりしている。

(そう言われてもな)

当のセドリックは苦笑いするしかない。彼自身は一生に一度の恋を叶えるのに必死で他からどう思われているかなど気にしている余裕はなかったのだ。

(それに、きみだって十分にドラマチックな存在だと思うが)

と声に出さずに考える。男を惹きつけずにはおかない美貌の持ち主でありながら、拳銃を手にして並み居る戦士をバッタバッタと薙ぎ倒していく様はこの世の光景とは思えなかった。妹の友人になるだけあって、この娘もまた只者ではないのだろう。

「伯爵様ったら、何かよからぬことでも考えているのかしら?」

黒曜石のように光るリアスの瞳に見つめられて、

「いや、そんなことはない」

セドリックは素知らぬ顔でつぶやく。体面を繕うのは貴族なら誰でも習熟しているテクニックだった。へえ、と雌豹によく似た娘は薄く笑って、

「リブさんと結婚するつもりだ、ってセイには話したの?」

と問いかける。いくら魅力的でも、初対面の女の子につい話しすぎてしまったか、と今更反省してから、

「いいや、まだだ。手紙で書くには重大すぎる事柄だし、ようやく会えたと思ったら、わたしは捕虜になっていて、とてもそれどころではなかったんだ」

それなら伝えていなくても無理はない、とリアスも納得するが、

「ただ、少しだけ不安もある」

眉をひそめた美青年に、

「何を心配してるの?」

娘が訊ねると、少しだけ躊躇した後で、

「わたしとリブの結婚をセイジアがどう思うのか、それがわからないんだ。わたしは妹にひどいことばかりしてきたし、リブはあいつにとっても大事な人だからね。反対される可能性もないではない、と思っているのだが」

悩める貴公子を見た可愛い拳銃使いは、ふふふ、と声を出して笑い、

「実の兄弟でも肝腎なことがわかってないのね」

面白い演し物を見るかのような表情でセドリックを見つめた。

「どういうことだ?」

だって、とリアス・アークエットは軽やかにステップを踏んで、

「セイにはいいところがたくさんあるけど、わたしが一番好きなのは、あの子が他人の幸せを一緒に喜んで、他人の不幸を一緒に悲しむ、そういうところだから」

薄明の山道に可憐な笑顔の花を咲かせながら、

「だから、お兄さんとリブさんが幸せになるのを喜ばないはずがないわ。あなたってば、余計な心配をしすぎなのよ」

10歳以上年下の女の子に叱られたのに笑うしかなく、「確かにそうかもしれない」とセドリック・タリウスは小さく頷く。そして、

(セイジアはいい友人を持ったようだ)

妹が人間関係に恵まれたのを兄としてひそかに喜んでもいた。

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