第120話 戦いの前に(その4)

「お前ももう行くといい」

「影」はモニカにいつもと同じく陰気な声を掛けた。赤ん坊のネネに会いに来たはずの少女が、これ以上村に留まる意味があるとも思えなかったのだが、

「あ、そうだ」

田舎で生まれ育った娘は何かを思い出した顔になって、

「はい、これ」

男に向かって手にぶら下げていた籠を差し出した。

「なんだこれは?」

思いがけない贈り物に「影」の顔につきまとう陰翳が揺れ動く。

「いいから、早く受け取りなさいよ」

口を尖らせた少女の機嫌をこれ以上損ねるのも得策とは思えないので、裏社会で生きてきた仕事人は大人しくバスケットを手に取り、ふたを開けてみた。

「おお」

思わず嘆声がこぼれたのは、籠の中にぎっしりとサンドウィッチが詰まっていたからだ。そういえば、日中はずっと赤ん坊の世話に終われていたので、食事を摂っていなかったのを思い出し、自分が空腹だったことも思い出していた。

(しかし、どうしてまた)

モニカの白い顔に暗い視線を送ったのは、彼女が自分を嫌っていることをよく知っていたからだ。こいつのためになることなんかただの一つだってしてやるつもりはない、とありありと態度に出していた娘にいかなる心変わりがあったのかわからないでいると、

「これから家を空けるし、どうなるかもわからないから、うちにあった食材をみんな処分しなきゃいけなかったのよ」

何故か言い訳めいた話し方で説明してきた。その顔が赤くなっているのは夕陽のためだけではない、という気もしたが、では他にどんな理由があるのかまでは職業的暗殺者にもわかりかねた。

「だから、別にあんたのために作ったわけじゃないから、勘違いしないでよね」

「ああ。それはよくわかっている」

可能な限り語気を強めたはずのモニカの言葉を受け流す。自分に他人の好意を受けられるだけの価値がないことは知りすぎるほどに知り抜いていて、今更言われるまでもないことだった。

「せっかくだから、ありがたく頂くことにしよう」

音もなくその場にしゃがみ込んで胡座をかくと、籠を抱え込むようにして、少女お手製のサンドウィッチをがつがつと貪り出す。

「ちょっと、行儀悪いわよ」

少女からの苦情に、男は「ふん」と黒い息を小さく吐いて、

「礼節を知るほどおれには衣食が足りてはいない」

そのまま食事を続行する。馬鹿じゃないの、と思った村の娘はそのように実際に口に出しもしたが、あたりをきょろきょろ見渡してから、「影」の隣に座り込むなりバスケットへと手を伸ばしてサンドウィッチをもぎとった。あむ、と自作の軽食を頬張るモニカに、

「行儀が悪いんじゃないのか?」

頭巾とエプロンを身につけているおかげで全くもって殺人者には見えなくなった男は呆れたようにつぶやくが、

「いいじゃない。誰も見ていないんだから」

文句も何処吹く風、といった表情で明るい髪の娘は2個目のサンドウィッチに取りかかる。いつもなら夜の食事の準備に追われているはずの時刻なのに、まるで人気を感じさせない集落にいることが、まだ14歳のモニカを少なからず高揚させているのかも知れなかった。これからほとんど時を経ることなく、ジンバ村は危機に見舞われるはずであったが、しかしそれでも決まり切った日常から未知なる非日常へと転がり込んだことに、ティーンエージャーとして興奮を抑えることができずにいたのだろうか。

相変わらずわけのわからんやつだ、と少女の横顔をこっそり眺めてから、「影」は首を巡らせる。2人が座っている場所からは村の中央を縦断する通りを端から端まで見渡すことができて、この集落の狭さをあらためて思い知らされる。それほど小さな村を明らかに過剰な人数でもって攻め滅ぼそうとしている敵の悪辣さに、今口にしているパンとは別の苦みを感じていると、

「大丈夫なの?」

両手に3個目と4個目を持ったモニカが訊ねてきた。言わんとしていることはなんとなくわかる気がしたが、

「何の話だ?」

あえてとぼけた態度を取る。

「あんたもセイジア様の下で戦うんでしょ? 本当にやれるの?」

男を心配している、というよりは、そんな小さな袋に大きな荷物が入るのか、といった体の純粋に疑問に覚えているかのような言い方で、そのためなのか「影」も答える気になっていた。

「あの女の下についた気はないが、これから戦いになるのおそらく間違いないだろう」

残念ながらな、とすっかり慣れ親しんだ虚無を顔に貼り付けてみせてから、

「やれる、というのがどういう意味なのかはわからんが、おれにできる限りのことはするつもりだ。好き好んで戦いたいわけではないが、行きがかり上そうするしかなくなってしまった」

男の口ぶりには屈託が満ちていたが、まだ若く世間に満ちた苦杯をさほど嘗めてはいない少女は「ふうん」とあっさり受け止めて、

「じゃあ、最近あちこちでごそごそやってたのもそのためなんだ?」

4個目を呑み込んで、5個目と6個目を手にしながら再び訊ねる。おれよりペースが早いな、と無法者は呆れながらも、

「そんなところだ。大勢の敵をおれ一人で迎え撃つにはそれなりの準備が要る。遠くからお越し頂いたお客さんだ。歓迎してやらないといけない」

いずれ敵が襲来することを、セイジア・タリウスから告げられてから、「影」はひそかに罠を各地に設置する準備を進めていた。赤ん坊の面倒を見たり、隣村まで荷物を送り届けたり、村の用事をこなすのと同時進行だったので時間は掛かったが、これから急いでセッティングを進めればどうにかやれそうだ、という程度にまで進捗させていた。

「まあ、できる限りのことはするさ。だから、おまえも早く親父さんと姉さんの所へ行って大人しくしてろ」

モニカの父ベルトラン、それに姉のアンナは新婚の夫マキシムとともに既に山の方へと避難していた。もうすぐ日も沈む、と一応年長者らしく忠告してみせたのだが、

「それは別にいいんだけど」

少女にスルーされて、男は元々暗い顔をますます暗いものにする。たまに親切にするとこれだ、と恨むべきは無情な世界なのか年頃の女の子ならではの気まぐれなのか判断しかねていると、

「ねえ」

モニカがまっすぐに彼の顔を見つめていたので、ぎくっ、としてしまう。いつも悪態ばかりついている娘の瞳に真剣さが宿っているのに戸惑っていると、

「あんた、本当の名前はなんていうの?」

やはり真剣さを帯びた声で訊いてきた。

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