第99話 宝はあるべき所に(その4)
「わたしに代わって当主になろうというのか?」
這いつくばったまま顔を歪めたロベルト・アマカリーに、
「あのねえ」
リブ・テンヴィーは心底呆れ果てた、と言いたげな表情をしてみせる。
「覚えてないのかしら? わたしは当主とか子爵とかそんなものには興味がないから、おじさまが継いだらいい、ってまだこの屋敷で暮らしていた頃に言ったはずだけど。その気持ちは今でも変わらないわ。だから」
そう言いながら、「煌炎の真紅石」を持った右手を叔父の方へと伸ばして、
「これもあなたに差し上げるわ」
驚きの声とも悲鳴ともつかないものが見物している使用人たちの口から漏れた。アマカリー家に代々伝わる秘宝を、それ自体もかなり高価な宝石を惜しげもなく与えようとしているのだから、冷静でいられる方がおかしいというものだった。子爵本人も唖然として口をポカーンと開けてしまっていたが、
「その代わりと言っては何だけど、ひとつだけお願いしたいことがあるの」
女占い師は見る者を魅了する優雅な足取りで部屋を横切ると、
「わたし、この人と結婚しようと思ってるのよ」
セドリック・タリウスの肩に手を置いて微笑んだ。またしても見物人がどよめいたが、今度は驚きと共に賛嘆の思いも含まれていた。美男と美女、誰もが祝福したくなるお似合いのカップルだった。
「彼はわたしを愛してくれていて、わたしも彼を愛している。まあ、それだけで一緒になっちゃってもいいかな? とも思うんだけど、占い師なんかやっている身分の低い女を妻に娶った、っておつむの悪い貴族たちが馬鹿にしてくるに決まってるじゃない。それは嫌なのよ」
わたしのせいで、この人が傷つくのは嫌。きっぱりとそう言い切ってから、
「だから、おじさま。わたしがあなたに望むことはただひとつ。わたしがリボン・アマカリーとして、リヒャルト・アマカリー子爵の孫としてセドリック・タリウス伯爵の元に嫁ぐのを認めてほしいのよ。ううん、そうじゃないわね。認めてくれなくてもいいから、文句を言わないで黙っているだけでも十分だから」
セドリックの首に細く白い両腕を回して、
「そうしてくれたら、おじいさまの遺産も『煌炎の真紅石』も手に入るんだから、かなりお得でしょ?」
柔らかな頬を伯爵の顔にぴたりとくっつけた。
「あの、リブ。みんなが見ているからあまりくっつかないでほしいのだが」
セドリックの顔は真っ赤になって、恥ずかしさのあまり脳天から火が噴き出しそうになっている。正式にプロポーズする前に彼女の方から堂々と結婚を宣言されて内心忸怩たるものもあった。
「おまえはそれだけでいいのか? 金も宝石も要らないというのか?」
尚も立ち上がれないでいる叔父の言葉に、
「ええ、要らないわ」
姪は即答する。
「この家と違ってタリウス家には借金もないから、わたし一人くらいなら養ってくれそうだし、逆にわたしがこの人を養ってもいいしね。だから、その点は心配ご無用よ」
平民として生きているうちに自活する能力を身につけた美女に恐れることは何もなく、愛する人と共に生きていくこと、ただそれだけを望んでいる、と知った子爵夫婦の顔面は蒼白になる。かつて陥れた少女が大人になって人生を満喫しているというのに、それに引き換え自分たちに生きている価値はあると言えるだろうか。誰一人幸せにできないまま、いたずらに負債を積み重ねていくだけの日々を送っていた。真実から目を背け続けていた男女がおのれの罪深さを遅ればせながら自覚しつつあったそのとき、書斎に慟哭が響き渡った。おおおおお、と咽喉が裂けんばかりにゲオルグが泣き崩れていた。
「お嬢様、ご無事だったのですか。天国の旦那様もさぞお喜びでしょう」
膝をついて涙を流す元執事にリブは慌てて駆け寄って、
「ごめんなさいね。あなたにも心配をかけてしまったわね」
いえ、そんなことは、とゲオルグは袖口であふれる涙を拭いながら、
「お嬢様が亡くなられたと確認できない以上、もしかすると何処かで生き延びておられるかもしれない、と一縷の望みを抱いて、わたしどもはこの屋敷を守り続けてきたのです」
その言葉に、はっ、となってリブは顔を上げる。詰めかけた使用人の中に見知った顔がいくつも見えた。侍医のソメイニ、料理人のマーキー、彼女が子供の頃から働いている古株のメイドも何人かいて、いずれの顔も涙で濡れていた。自分の帰りをずっと待ってくれていた人がたくさんいたのを知って、かつてのアマカリー家の令嬢の胸に悔恨が湧き起こる。
「ずっと前にアステラに戻っていたのに、何も連絡しなくて悪かったわ」
本当にごめんなさい、と頭を下げて詫びるリブに、「とんでもない。どうか顔をお上げください」と召使たちが慌てていると、
「リブにはみんなに連絡できない事情があったんだ」
セドリック・タリウスが声をかけてきた。そして、
「実の叔父夫婦に命じられた御者にメイドともども殺されかけたんだ。自分を殺そうとした人間にわざわざ会いに行こうと誰が思うものか」
ロベルト・アマカリーとその妻エレナを睨みつけた。妹セイジアと同じ青い瞳に何の思いも見えないのは、怒りと憎しみが極大値を飛び越して感情の向こう側へ到達してしまったせいかもしれない。大事な恋人を傷つけようとした人間を許すつもりなどなかった。
「嘘だ、わたしはそんなことなど」
がたがた震えながら抗弁するロベルトに、
「ほう? では何故、あなたがたは実の姪が生きて帰ってきたというのに全く喜ばないのかね? 都合の悪い人間が舞い戻ってきた、という顔をしているようにしか、わたしには見えないが」
それは伯爵個人の僻見ではなく、子爵夫妻がリボン・アマカリーの帰還を歓迎しているとは誰の目にも見えなかった。そして、自白するまでもなく、彼と彼女の表情が十数年前の犯罪を認めていた。金貨の詰まった箱、失われた宝石の発見、といった度重なるサプライズで打ちのめされていた2人は抵抗できるだけの精神力をもはや持ってはいなかったのだ。
「セディ、どうしてそんなことを」
リブが顔色を変えて詰め寄ってきた。復讐など望んでいないのに、と独断で叔父たちの旧悪を暴露した恋人に抗議しようとするが、
「リブ、きみはとても賢いが、この件に関してだけは間違っているよ」
「えっ?」
伯爵がとても落ち着いた様子だったので占い師は息を飲む。怒りに駆られてやったわけではなく、それなりの信念に基づいた行動のようだ、と理解する。
「これはけじめの問題なんだ。同じ貴族として、悪事を犯した人間をのうのうと眠らせておくことはできない。それに」
セドリックは目を伏せてから、
「みんなの顔をよく見てごらん」
美しい婚約者に声をかけた。そう言われて、リブがアマカリー家の使用人たちの方を振り返ると、皆が皆、子爵夫婦を見つめているではないか。欲望に目が眩み幼い子供を手にかけようとした鬼畜を心から蔑み、知らなかったとはいえそのような人間に仕えていた自分自身もどうしようもなく低劣な存在だと感じている、あまりに悲しい光景がそこにはあった。
「きみは優しいから事を荒立てたくはないのだろうが、だが、そうなると、彼らはどうなる? 人の上に立つ資格などない者のためにこれからもずっと働いていくことになるんだ。それはとても残酷なことではないかね?」
貴族として多くの人間を従える立場にあるセドリックに見えているものがあるのだろう、とリブは思い、アマカリー家の人間としてこの家で働く人たちを抛っておくことはできない、と考えを変える。優しさだけでは解決できない問題も世の中には確かにある、という真理を思い起こし、
(そうね。わたしが甘かった)
自らの過ちを認めていた。すると、
「リボンお嬢様!」
ゲオルグが立ち上がって叫んでいた。
「お願いします! どうかわたくしめをあなた様の下で働かせてください。もうこれ以上、あの方たちのために働きたくありません!」
忠実な使用人の血が噴き出るような絶叫をきっかけに、他の召使も雪崩を打つように「お願いします!」と懇願し出した。
(ついにクーデターの勃発だ)
外野の人間であるワトキンスはそんな暢気な感想を抱く。たとえリブが当主の座を望んでいないとしても、家来たちは彼女がその地位に就くことを望んでいるのは明らかで、
「きみも貴族の生まれなら、覚悟を決めるべきだ」
セドリックもまたそうすべきだと思っている、と知ったリブはしばし瞑目して、まとまらない考えをどうにかまとめようとしていた。
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