第84話 夢の通い路(前編)

「え?」

あたりが深い靄に包まれているのにリブは気が付いた。視界は白一色に塗り潰されて何も見えない。どうしてそうなったのか、直前の記憶が彼女にはない。セドリック・タリウスに熱烈な告白を受けてからというもの、苦悩に耐えかねて酒量が進み、悪い酔い方をしてしまったせいだろうか。困惑して動けずにいると、

「むにゅっ」

背後から伸びてきた2つの手がリブの豊満な胸を揉みしだいた。あまりに突然のことに女占い師は悲鳴も上げられずに硬直してしまったのだが、動けなかったのは痴漢行為を働かれたためだけでもなかった。たわわに実った果実をひとしきり弄んだ破廉恥な掌が離れていくと、

「ふむ」

聞こえてきたのはとても懐かしく、そしてもう二度と聞くことのできないはずの声だった。

「しばらく会わない間に、あんた、また一段とでかくなったんじゃないかね?」

両手で胸元を押さえながら振り向くと、テンヴィー婆さんが弟子のバストをまさぐった掌をしげしげと見つめていた。

「もうっ。やっぱりおばあちゃんだったのね」

触られた時点でリブには既に分かっていた。の老婆のふしくれだった小さな手で身体を撫で回されたことは何度もあったからだ。

「もうそれ以上大きくする必要はないだろ? 少しはあたしにも分けておくれよ」

おばあちゃんの胸こそ大きくしてどうするのよ、と言いたくなったが、それよりもはっきりさせておくべき事柄が存在した。数年も前に亡くなった師匠が、どうして彼女の目の前に立っているのか。

(これは夢ね)

聡明な美女は推察する。神がかりの超能力を持っていた師匠でも、一度失われた命を取り戻して復活することなどできはしない。

「お察しの通り、今、あんたは夢をみている」

心を読んだのか、白いフードを頭からかぶった婆さんが頷く。なるほど、確かに夢なのだろうが、どうしてこんな夢をみているのか、それはわからなかった。霊魂だけの存在になった老占い師が夢を通じて弟子に会いに来たのか、あるいは身分違いの恋に思い悩む女性の救いを求める願望が無意識のうちに結実して師匠の姿を取っているのか。

「あたしの力のせいなのか、あんたの深層心理のせいなのか、そんなのは大した問題じゃない」

どっちだって構いはしない、と老婆は弟子を見つめた。やはり左の瞳は白く濁っている。

「あんた、あたしが最後に言ったことを忘れちまったのかい?」

師匠のつぶやきにリブは俯くしかない。テンヴィー婆さんがいまわの際に言い残したひとこと、

「ちゃんと幸せになれ」

をもちろん忘れるはずがなかったが、それを実行できているとは言いがたかった。酒に逃げて一人で涙に暮れているのを、孤高の占い師はお見通しなのだろう。だから、

「ごめんなさい」

不肖の弟子として頭を下げるしかなかったのだが、婆さんは全く怒らずに、

「こうなると思っていたよ」

溜息をついた。

「えっ?」

「あんたは優しい子だからね。あたしが何を言ったところで、自分の幸福を顧みず他人を優先させちまうのはわかりきっていた。それを悪いとは思わないよ。世のため人のために尽くす人間を育てられたのは、あたしとしても誇らしいことだ」

でもね、と老婆は表情を険しくして、

「それも時と場合による、という話だ。弟子が一生に一度きりのチャンスをふいにしようとしているのを見過ごしてはおけない」

だから、こうやって会いに来たのさ。テンヴィー婆さんの小さな身体から強烈なオーラが押し寄せて、リブは思わず後退りしそうになる。

「あの坊やの何が不満なんだい?」

突然ど真ん中に剛速球を投げられたかのように思われて、若い占い師の心が、ぎくり、と音を立てて震えた。「坊や」というのがセドリックを指しているのに疑いの余地はなかった。

「身分も財産も申し分なく、性格も悪くはない。何よりあんたを愛してくれている。願ってもない話じゃないか。まあ、外見はもうちょっと男っぽい方があたしの好みだがね」

「おばあちゃんの好みなんて聞いてないわよ」

抗議してきた弟子をさも可笑おかしそうに見つめて、

「そうかい、そうかい。あんたの大事な坊やを腐すようなことを言って悪かったよ。なんだい、あんたもすっかりなんじゃないか」

ふぇふぇふぇ、と人の悪い笑い声をあげられて、リブの顔が赤く染まる。神か悪魔に等しい慧眼を前にして恋心を隠し通せるはずもなかった。

「お客の恋愛相談に乗っている占い師が、我が事となったらぶきっちょになるなんて、医者の不養生を笑えないよ。でも、それが人間らしいのかもしれないね。他人のことはよく見えても、自分のことはわからない。傍目八目ってやつさね」

ことわざを連発したおかげなのか、いくらか気分が満ち足りた表情になった婆さんは、

「あたしがに、あんたに訊いたことがあった。たくさんの男に言い寄られても目もくれないのは何故なのか、ってね。覚えているかい?」

はっきりとではないが、朧気に記憶に残っている気がした。たぶん旅をしていた頃のことだろう。

「『まだ運命の人に出会えていないから』って、そのときあんたは答えたんだが、そうじゃないのがあたしにはわかった」

そりゃそうよ、とリブは思う。深く考えずに言ったジョークに過ぎないのだ。本当の事であるはずがない。だが、テンヴィー婆さんの顔は真剣そのもので、

「あんたがどんな男にも心が動かなかったのは、からだったんだよ、リブ」

「えっ?」

予想外のことを言われて固まる弟子を見て伝説の占い師はかすかに微笑んで、

「わかってみれば納得、ってなもんさ。生涯の伴侶を見つけ済みだったら、それ以外の人間に靡くはずがないからね」

「ねえ、おばあちゃん」

リブは身体の震えを止めることができないまま訊ねる。

「その『運命の人』っていうのは、一体誰なの?」

「とぼけるのもいい加減にしな。あんただってとっくにわかってるんだろ? 占い師なら、自分のさだめをしっかり受け止めるんだね」

弟子を叱り飛ばしてから、

「離れている間もずっと一途に想い続けてくれている人がいて、あんたは幸せ者だよ。その気持ちに応えてやらないと、人の道に外れる、というか、女がすたる、というものさ」

そう思わないかい? とテンヴィー婆さんは優しい笑顔を浮かべた。

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