第40話 悪夢とめざめ(その3)

シュミーズ一枚に剥かれたリボン・アマカリーの上にまたがったハンスは天にも昇る心地になっていた。手綱を捌きつづけてきたごつごつしながらも丸い両手が少女の細い首を握りしめ、太い親指は二つとも咽喉を押さえつけていた。可憐な令嬢の命は文字通り下賤な使用人の手の内にある、というよりほかにない状況だった。歓喜のあまり、つい力が入りすぎたのか、リボンが激しく咳き込んだ。

「おっと」

ハンスは慌てて握力を緩めた。気を付けてないと、絞め殺すどころか、頸骨まで折ってしまいかねない。なるべく長く楽しみたかった。むごく静かにゆっくりと殺してやろうと思っていた。そのぶん、娘の苦しみは長引くわけだが、他者を思いやれる人間はそもそも殺人など犯さない。

「あんた、あの女によく似てるよ」

男はぬめりを帯びた両目を光らせながらつぶやいた。そう言われても死に瀕した少女にわかるはずがなく、御者の方もわからせたいわけではなかった。過去の忌まわしい興奮が甦ってきて、思わず口を開いてしまっただけなのだ。最初に人を殺したのは、まだ成年に達していないときのことだ。同じ村に暮らす、年上の美しい気位の高い娘に言い寄って、思いが遂げられないのに絶望して発作的に絞殺してしまったのが、全ての始まりだった。村にいられなくなった男は、各地をさまよいながら、自らの欲望のはけくちとして多くの女性を殺してきた。何人殺したかは自分でもわからなくなっていたが、それでも貴族の娘を殺すのは彼にとっても初めてのことだった。家出娘や娼婦とは違う「上物」を手にかける機会を与えてくれたロベルト・アマカリーに感謝したい気持ちでいっぱいになりながらも、殺してからたっぷり凌辱してやろう、と頭の中で予定を立てていた。生きた女よりも死んだ女の方がずっと好きだ、というのは最初の殺人のときに気付いたことだ。歪んだ快楽に目がくらんだ男は、

「あん?」

リボンの白い右手が自分の顔に伸びてきているのに気づくのが遅れた。だが、特に慌てることもなく、「あわれなもんだ」と同情すらしていた。犠牲者は最後の最後まではかない抵抗を試みるものだ、というのをハンスは経験上よく知っていて、それが無駄に終わるのもよく知っていた。あがけばあげくほど殺人者の快楽は強まる。だから、つかみかかろうが引っ掻こうが好きにさせてやろう、と思っていたのだが、少女の手は予想とは異なる動きを示そうとしていた。男に攻撃を加えることなく、その頭上を指差していたのだ。

「は?」

ここに至って、男はようやく気付く。彼が組み敷いた娘が恐ろしさに打ち震えているのは間違いなかったが、しかしその恐怖の対象は自分ではなく別の存在なのだ、と。その証拠に、大きく見開かれたリボンの目は御者を通り越してその向こう側を見つめている。一体何を見てやがる、と無上の楽しみを邪魔されたのに苛立つハンスが令嬢の視線の先にあるものを確認しようとしたのと同時に、ふわり、と左側に白いものが浮かんでいるのに気づいた。振り向くまでもなく、それがつまさきだというのはわかった。小さく形の整った女の足がほのかに光っている。この時点で、まともではない、と気づくべきだった。人里離れた夜更けの森に誰かが音もなく突然現れるはずがない。それ以前に、普通の女がふわふわと宙を浮くはずがないのだ。しかし、鈍感な性犯罪者が自分のすぐそばに現れたものが人間以外の何物かだと気づいたのは、空中を見上げてからだった。

「ひいっ!」

野太い悲鳴が情けなくもほとばしり出たのは、あるべきはずのものがなかったからだ。2つの足と白いワンピースの裾だけは見える。だが、それから先が、胸も腕も顔も見えない。女の下半身だけが陽炎のようにたゆたっていた。こんなことはあってはいけない。すぐに逃げなければならない。はらわたがまるごと口から飛び出そうなほど怯えながらも、ハンスは怪異から目を逸らすことができない。

(こいつの狙いはおれだ)

何故かそれだけはわかっていた。醜い情欲のままに少女を貪り尽くそうとしていた男が、今や逆に喰らわれようとしている。小太りの中年男が金縛りになっているのは、殺す側から殺される側に転落したためだけではない。間近で浮遊する白い影を見たのは初めてではない、という気がしていた。足しか見えないこの女をおれは知っている、そんな風に思っていると、

「きゃあっ!」

リボン・アマカリーの叫び声が聞こえた。いつの間にか、男の身体の下から抜け出していたが(あるいは男が自分から腰を浮かして離れたのか)、逃げられたのを気にする余裕はもはやなかった。女の顔がハンスの丸い頭を見下ろしていた。白くごわごわした長い髪が波打ちながら四方八方に延び、面長の顔におさまった標準よりも小さな両目が男を興味深そうに見つめている。白目は黒く瞳は赤い。やはりまともな人間ではない、と思うより先に、

(あの女だ)

ハンスは確信していた。姿形は変わり果てているが、おれが最初に殺した同じ村のきれいな娘だ。そいつが地獄から這い出て追いついてきやがった、そう思っていると、

「そうじゃないわ」

樹の幹に手をついてよろよろと立ち上がったリボンの呟きがよく聞こえた。

「その人はずっと、あなたのそばにいたのよ」

でたらめを言うんじゃねえ、と叫びたかったが、空を舞う女が心なしか嬉しそうに目を細めたところを見ると、娘の言葉は正しいのだろう。すると、

「あああああああ」

女がひとりだけではないのに気づいてしまった男は悲鳴をだらしなく漏らした。何人も、何十人も空を飛んでいる。これまでに殺してきた被害者の群れだ、と何故だかわかってしまう。理解したのと同時に御者は失禁する。それを見た女たちの影がかすかに震える。しょうがないわねえ、と笑っているかのようだ。そんなに怖がらないで、仕返しに来たわけじゃないのよ。死者の声にならないささやきをリボンの小さな耳は聞き取る。そして、

(あなたもわたしたちと同じになりなさい)

幼子をあやすようなやわらかな表情をしてから、

(ちょっとだけ「ちくっ」とするかもしれないけどね)

けらけらけら、と人ならざる者どもの哄笑が黒い森を揺るがす。笑いさざめく声が消えてから、くわっ、と女の唇が頬まで大きく裂けて、男の頭を飲み込もうとする。その口内に広がる完全なる虚無がハンスが人生の終わりに見たもので、これから自分もそこに向かうのだ、とぼんやり思ったのが最後になった。そして、殺人鬼の断末魔が闇夜に響き渡った。

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