第88話 白鳥の歌(その6)

セイもリアスもアゲハに異変が起きたと感じて、急いで駆け付けてきたのだ。

「大丈夫か?」

女騎士は問いかけるが、

「あまり大丈夫とは言えないわね」

歌姫の声を聞いた2人は愕然となる。ついさっきまで劇場中を魅了していた奇跡とも呼べる歌声が失われたのがわかってしまったからだ。

(なんということだ)

アゲハとはあまり友好的に接してきたわけでもなかったが、それでも衝撃を受けてしまう。しかし、それでも言わなければならないことがある、とセイは気を取り直す。むしろ、この状況だからこそ言うべきことなのかもしれなかった。

「きみの言いたいことはよくわかった」

発した言葉はそれだけだったが、それだけで十分だろう、とセイは思う。アゲハが女騎士に伝えたかったメッセージ、それは「覚悟」なのだ。

「わたしは芸に命を懸ける」

「わたしの進むべき道は芸しかない」

そういう「覚悟」だ。歌姫から問われたとき、セイは自分の中にはそのようなものはない、と認めざるを得なかった。もちろん、歌も踊りも手を抜かず必死にやったつもりだ。だが、これから先、一生それだけでやっていけるのか、と自らに問い質したところで「否」と答えざるを得ない。

(結局、わたしは騎士なのだ)

舞台で踊ったことよりも、その後で悪党を叩きのめしたことの方に充実感を覚えていた自分自身にセイは皮肉な笑みを浮かべたくなる。しかし、それは当たり前のことでもあった。騎士になりたくて家を飛び出し、騎士になるために血みどろの努力を重ね、騎士になってからも研鑽を怠ることのなかったセイジア・タリウスは骨の髄まで騎士として出来上がっているのだ。今更他の人間になることなどできない。アゲハにはそれがよくわかっていたのだ。

「あなたを認めるけど、あなたを認めない」

それは、いかに高いレベルの芸をしようとも、芸人として生きることはできない、という意味なのだ、と女騎士は理解していた。

(この道もわたしの生きる道ではなかった)

歌と踊りを覚えたことは決して無駄ではなく、有意義な経験であった。しかし、それはセイの人生においては本道ではなくほんの寄り道に過ぎなかったのだろう。芸人失格を告げられたことは決して不名誉ではない。むしろアゲハほどの天才に直々に告げられたことを誇りに思うべきなのだ、と考えた金髪の騎士の胸に一陣の風が吹いたかのように思えた。戦いが済んだ後に決まって吹くすがすがしい風だ。

「わかってもらえたなら何よりね」

ダキラに抱かれたまま、アゲハはかすかに微笑み、そしてセイから視線を移して、

「あなた、名前は?」

いきなり訊ねられた黒髪の美少女は、

「リアス。リアス・アークエット」

戸惑いながら答える。そう、リアスね、と歌姫は少し考えてから、

「あなたの歌と踊り、錆びついてた」

と短く言い切った。はっきり断言されたリアスは、

「そうね。言い訳になっちゃうけど、人前で本気で踊ったのは何年ぶりかだったから」

と苦笑いするしかない。無事に踊り切れたことには満足していたが、個々のパフォーマンスには自分でも飽き足らぬものを感じていたのは事実だった。

「あら、そういうことだったの」

歌姫はまた少し考えると、

「でも、錆というのは磨けば落ちるものだから」

とだけ言った。それにセイもリアスもカリー・コンプも、アゲハを抱いているダキラも驚く。傲慢なディーヴァが他者を認めるようなことを言ったばかりか、アドヴァイスまで送るとは。

(他人を心配している場合じゃないのにね)

他ならぬアゲハ自身がそれに気づいて愚かしく感じていた。とはいえ、リアスの才能が素晴らしい、というのは認めざるを得なかったし、努力次第でまだまだ伸びる、というのもまた確かなことであった。自らの才能に誇りを抱く「彼女」は他者の才能にもまた敬意を払っていたのだ。

「行きましょう」

居心地の悪さを感じたアゲハは自分を抱きしめている青年を促して、立ち去ろうとする。そろそろ横になって休みたかった。ダキラの大きな身体に隠されて天才シンガーの小さな肢体は見えなくなるが、

「達者でな」

セイは声をかけ、

「ありがとう」

リアスも呼びかけた。アゲハはそれに答えることなく、廊下を遠ざかっていく。

「これからが大変ですね」

成り行きを見守っていたカリーが口を開くと、

「でも、きっと上手く行くと思う。上手く行ってほしい」

リアスの瞳が潤んでいたのは、打ち込んできた芸ができなくなった歌姫への共感と再生を期待する思いが満ちていたせいだろうか。

(わたしだって立ち上がれたのだから、あなただってやれるはずよ)

そう思いながら、掌でそっと目頭を押さえる。

「面白いやつだったな。できればまた会いたいものだ」

セイジア・タリウスはつぶやいたが、アステラ王国最強の女騎士とマズカ帝国の歌姫の人生の交錯はこれだけで終わり、しかしながら、その一度きりの接点はお互いにとって決して忘れられない思い出として残ることとなった。


人目を避けようと、王立大劇場の裏口から出たダキラとアゲハの前に思いがけない人物が待っていた。ジャンニ・ケッダーが無言で2人を見つめていた。驚いた2人もしばらく黙っていたが、

「ごめんなさい」

アゲハがいつになく弱々しくつぶやいた。その声を聞いて、

(やはりそういうことか)

ジャンニは眉をひそめた。「白鳥の歌」のラストのかすかな乱調で事態を察してはいたが、歌姫に異常が起きたのは間違いのない事実なのだ。

「なあ、親父」

ダキラが口を開く。

「おれは会社を辞める。こいつについてやりたいんでな」

「そうか」

息子がそう言ってくるのは織り込み済みだったのか、父の表情には驚きは見えなかった。

「あんたの満足いくようには働けなかったかもしれないが、おれにはこうすることしかできないんだ」

そう言ってダキラはアゲハと寄り添って歩き去ろうとした。

「待っているから、戻りたくなったらいつでも戻ってくるんだ」

ジャンニがそう言うと、2人の足が止まった。

「わしはおまえたちを誇りに思ってるよ」

しばしの沈黙の後、歌姫とマネージャーは再び歩き出す。ダキラの胸の内に荒れ狂うものがあった。父親にかけられた言葉を嬉しく思いながらも、それを真っ向から受け取れない自分を苛立たしさを覚えていた。

(おれにそんなことを言われる資格があるか?)

資格とか関係なしに堂々と喜べばいいはずだ。しかし、偉大な父への劣等感がそうさせてはくれなかった。それが悔しかった。だが、黙って歯を食いしばるしかない。自分の代わりにアゲハが泣いてくれている。社長の優しさに「少女」が声を噛み殺して涙を流している。

(これからは、おれがこいつを支えていくんだ)

あるいは、アゲハが青年を支えていくのかもしれなかった。ともあれ、2人の長く険しい旅路が今から始まろうとしていたが、そこへ踏み出そうとする足取りはもう既に重いものになっていた。

(おまえはわしにできなかったことをしようとしてるな、ダキラ)

ジャンニ・ケッダーは息子に羨望をおぼえている自分に気づく。彼は芸能プロダクションの社長として、所属するタレントに満遍なく目配りをしていく立場にあった。惚れ込んだタレントのために自らを投げうち全てを犠牲にする、そういう生き方に憧れはしても決して真似することはできない。異なる道を歩き始めた息子に父は複雑な感慨を抱いていた。

(この土地で多くのものを失った)

「グウィドラ」が崩壊し、そして今アゲハも去っていった。それを思うと老境に差し掛かった男の背中に徒労が重くのしかかった。

(だが、それでも前に進まなければいかん)

これまでの人生で何度もの苦難を乗り越えてきた芸能界の大物はそれでも闘志を失うことはなかった。そして、彼の目には前途を照らす灯が確かに見えてもいたのだ。


それから5年後。アステラ王国に突如として現れた新人歌手が、やがて大陸中で爆発的な人気を得ていったことは、いくつもの芸能史で明記されている事実である。

「グレイ」と名乗るその歌手は、その名の通り輝く銀髪と赤い瞳、端正な美貌を持つすらっとした長身の少年で、若さに似合わぬ苦みをたたえた低音の歌声で、たちまち多くのファンを虜にし、王立大劇場でのデビュー公演は満員札止めの大盛況となった。どのような生まれ育ちなのか、どのようにして素晴らしい歌声を身につけたか、グレイはそういった事情を一切語ることはなく、謎多きミステリアスな部分もまた人気の一つとなっていった。ただ、オールバックにサングラスをかけた屈強な男が常に天才少年の傍にいたことや、ときどき妙に女らしい仕草を見せたおかげで、奇妙な噂が流れることもあったという。また、グレイの単独インタビューに成功した「デイリーアステラ」のスター記者ユリ・エドガーが、会見が終わった後に、

「世の中には不思議なめぐりあわせがあるものですね」

と何故か顔を赤くして語っていた、と記録に残されているが、その意味するところはいまだにわかっていない。






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