第86話 白鳥の歌(その4)

その夜のアゲハの歌にダキラ・ケッダーは違和感を覚えた。いつもよりも力が入りすぎているように、熱を帯びているように思えたのだ。

(あいつのせいか?)

マネージャー気取りの青年は演奏中のカリー・コンプを睨みつけた。歌姫の負けず嫌いな性格は青年が一番よく知っている。吟遊詩人と張り合っているうちに、通常とは異なるパフォーマンスになっているのだろうか。だが、

(ああ、楽しい!)

当のアゲハは大いに満足していた。大勢の観客の前で歌うのはもとより好きだった。より正確に言うならば、自分の歌でたくさんの人間を虜にするのが好きだったが、今宵このとき以上に楽しい時間は今までになかった、と言ってよかった。その最大の理由が「彼女」の後ろで楽器を弾いているカリーにあるのは明白だった。ようやくアゲハは自分に匹敵する才能に、食らいつこうとする挑戦者に巡り合えたのだ。芸術家にとって敵の不在は必ずしも望ましいことではない。ライバルと切磋琢磨し合い、お互いを乗り越えようとすることで、自らの能力に進化を促していく一面は間違いなくあるのだ。これまでマズカの歌姫の前に現れた幾多の同業者は、その多くが「彼女」と戦うことなく自ら膝を屈し敗北を認め、また喧嘩を売ってきた少数の跳ねっかえりもあっさり蹴散らされてしまったため、カリーとの勝負が初めての真剣試合になっていた。相手は「楽神」とも称される男だ。楽に勝てる相手ではないが、しかし負ける可能性がある、全てを失うおそれがあるからこそ、戦いは魅力的なのだ、とアゲハは考え、そのスリルに恍惚すら感じていた。そして、もうひとつ、天才歌手は自覚してはいなかったが、セイジア・タリウスとリアス・アークエット、そして「セインツ」の演技にも影響を受けていた。どちらもただの人間ではない、スターになり得る存在だった。自らに並び立とうとする、その地位を脅かそうとする者たちの出現もまたディーヴァを高揚させ、その胸を熱く沸かしていたのだ。

(もっと! もっと! もっと!)

だから、アゲハはいつもよりも力を込めて歌った。より素晴らしい自分自身になろうとした。より高い場所を目指そうとした。しかし、「彼女」は本来完璧な存在だ。完璧なものがより完璧であろうとすることは、100%以上になることはできない。では、その不可能が実現したときに何が起こるのか? 答えは目前に迫っていた。

「白鳥の歌」は最高潮を迎えた。小さな体のアゲハを中心として、劇場はあらゆる感情の坩堝と化す。カリー・コンプは迫り来る怒濤に懸命に耐えようとするが、

(もうそろそろ限界ですね)

頭が次第にぼんやりしてくるのを感じた。だが、それでも戦うのをやめるつもりはない。滅びるときは前のめりに倒れてやるつもりだ。詩人が最後の力を振り絞ったのと同時に、歌姫もラストに突入した。何処までも伸びていく高音。劇場の天井を貫いて、夜空をも超え、遥か銀河の彼方まで届きそうな歌姫の絶唱。それを耳にした誰もが魂を二度と戻らないほど遠くまでさらわれる。これまでで最高の出来ばえに自分でも満足していたアゲハは、突然未知の感覚に襲われた。痛みや衝撃はなく、ただ何かが壊れたような気がした。水晶の杯が真っ二つに割れる幻を歌姫は見た。そのせいで、究極の歌声にわずかながら変化が生じる。

(なんだ?)

ジャンニ・ケッダーはただならぬ異変を感じて目を見開く。

(音がひずんだ?)

チェ・リベラの耳には、アゲハの声にわずかながら歪みが生じたように聴こえていた。しかし、それに気づいたのはあくまで一部の人間だけであり、それに加えてほんの少しだけ傷がついたことによって、皮肉なことに「白鳥の歌」はより美しい結末を迎え、多くの人々の記憶に後々まで残るものとなった。あまりに完全なものは人に愛されないのかもしれなかった。

歌い終えたアゲハはふらつきかけた身体をどうにか立て直して、少しだけ頭を下げると(本人はお辞儀をしたつもりだがそうは見えない)、さっさと引き上げていく。その背中に今夜最大の拍手が浴びせられても、「彼女」は振り向かず、

「おい、どうした?」

不審を覚えたダキラの問いかけにも答えないまま、舞台の袖からも出ていく。

「おい、アゲハ」

青年は慌てて追いかけるが、それでもアゲハは反応しない。細い肩に手をかけて歌姫を止めるべきか、ダキラが迷っていると、「少女」が突如よろめいて、廊下に左肩をぶつけてしまう。

「おい?」

やはり異変が生じているのだ、と慌てたマネージャーが歌姫に触れようとしたそのとき、赤いものが見えた。鮮血がアゲハの小さな口から滴り、ぽたぽたと床に落ちている。

「おまえ、これは一体」

大柄な青年が震えているのがおかしいのか、天才歌手は真紅に染まった唇に笑みを浮かべて、

「わたし、だめになっちゃったみたい」

とつぶやく。それはダキラが聞き慣れたものではなく、嗄れてひびわれた老人のような声だった。

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