第33話 日常的非日常の終わり

少年は桶から白飯を左手でつかみとると、一握りのかたまりをテーブルに敷かれたきれいな布巾の上に置き、それを転がした。同じ動作を何回かやるうちにきれいな球体となっていき、あっという間にオニギリが出来上がっていた。

「おう、本当に片手だけで作れるんだな」

感心したコムの方を見てチコは照れくさそうに笑った、はずだった。少年の顔はサングラスとマスクで隠されていて表情がよく見えなくなっていた。

「コツさえつかめば簡単ですから」

「別にまだ休んでいてもいいんだぞ」

大男の隣にいるオーマにそう言われたが、

「一人で家にいても痛くてつらいだけなんで、それだったら少しでも働いた方がいいかな、って思ったんです」

少年の考えは変わらないようだった。チンピラどもに襲われて重傷を負った見習がオニギリを作っている、と聞いた二人の先輩は、食堂から少し離れた場所にある作業場を訪れていた。そこでは少年のほかにも数人のパートの女性がオニギリ作りに精を出していた。元々は「くまさん亭」への食材の供給が途絶えたときの窮余の一策として始めたことだが、今では事業として軌道に乗りつつあった。近く正式に企業として立ち上がる、と料理人たちも聞いている。

「怪我は大丈夫なのか?」

コムはギブスで固められた少年の右腕を見る。親指以外の4本の指が折られてしまっていた。

「多少時間はかかるかもしれないけど、元通りに動くようになる、って先生が言ってました。だからそんなに心配してません」

バルバロ医師は評判の名医なのでその点は問題は無いはずだった。

「でも、なんだよ、その顔は。おしゃれのつもりか?」

「オーマさん、違いますって。こうやって隠しておかないとみんなに引かれるんです。おれだって、毎朝鏡の前に立って『うわあ』って思うんですから」

カルペッタ・フーパスたちに殴られた少年の顔面がひどく腫れ上がっていたのを知っている男たちはそれ以上何も言わなかった。

「まあ、思ってたより元気そうで何よりなんだがよ、それよりも聞いたぜ」

「何をです?」

新しくオニギリを作ろうと白飯を手に取ったチコの動きが止まってコムを見た。

「おまえの家におかみさんが行ったらしいじゃないか」

「ああ、はい。この前来てくれました。ポーラと一緒にいきなり来たんでビックリしましたけど。なんか、おれを心配してくれたみたいで、申し訳ないなあ、って思いましたけどね」

その答えを聞いた大柄な料理人が顔を歪める。

「かーっ。おれだって、そんなことしてもらったことないのに。なんなんだよ、おまえ、うらやましすぎるじゃねえか」

「どうしておかみさんがおまえの家に行くんだよ」

オーマが8割ほど本気で怒りながらコムを睨む。

「いや、それは店だとできない話とかあるじゃないですか。2人きりにならないとできない話が。あ、そうか。逆におれが今度おかみさんの家に行けばいいのかな? そうだ、そうしよう」

げしっ、と音を立てて小柄な料理人が大柄な後輩のむこうずねを蹴飛ばす。痛みのあまり、黙ったまま飛び跳ねるコム。その様子を見ながらチコが若干気まずそうにしながら話す。

「あの、でも、おれ、結構怒られたんですよ。部屋を結構散らかしてたんで、『整理整頓ができないやつがまともな料理を作れるわけがない』ってお説教されて。それで片付けとか洗濯とか、いろいろやり方を教わりました。あと、ごはんも作ってもらいましたね」

そう言った後、少年が顔を赤らめたのが先輩たちの目にははっきりとわかった。サングラスとマスクをつけていても、頭のてっぺんから湯気が出そうになっているからだ。

「あー、でも、ちょっと困っちゃったんですよね」

「何が困るんだよ。おかみさんにごはんを作ってもらって文句を言うとか、どれだけ贅沢なんだよ、おまえ」

そう言ってコムは少年を睨みつける。

「いや、ごはんはもちろん美味しくて、それはすごくうれしかったんです。でも、おれ、今、右手がこうなってるじゃないですか。だから、左で食べるようにしてるんですけど、そうしたら、おかみさんが代わりに食べさせてくれたんです。もうひとつスプーンを持ってきて、『あーん』って」

2人の男が顔を見合わせる。

「恥ずかしいからやめてほしかったんですけど、『怪我人が遠慮するんじゃないよ』って笑われて。そうしたら、ポーラまで真似して『あーん』ってやってきて、本当に困っちゃいました」

「なあ、チコ」

オーマが無表情で呼びかけてきた。

「はい?」

「おまえ、クビな」

「はあ?」

「クビじゃ生ぬるいですよ、死刑ですよ死刑」

コムも同調して頷いた。

「いや、ちょっと、わけわかんないんですけど。どうしてクビにならなきゃいけないんですか? しかも死刑ってなんなんですか」

「はーっ。そんな素敵なご褒美があるなら、おれも怪我したいわ。兄貴、今すぐおれをボコボコにしてくれませんか?」

「うるせえ。黙ってろ」

嫉妬に狂う男たちを見る少年には「わけがわからない」という思いしかなかった。

「でも、ちょっと驚きました」

「何がだよ」

不機嫌さを隠さないままコムが訊ねる。

「いや、おかみさんがポーラをすごくかわいがってたんですよ。あの子が店に来ると、おかみさん、いつも怒ってすぐに追い返してたから、『あれってどうなんだろう?』って思ってたんですけど、優しく抱っこしているのを見ていたら、やっぱりお母さんなんだな、って思いました」

「当たり前だ。おかみさんにとっては大事な一人娘なんだ。可愛くないわけがない」

オーマがきっぱりと言い切る。

「先代が亡くなった時も、あの子と店があったから、おかみさんは踏ん張れたんだ。だから、ポーラを怒るのも好きでやってるわけがない。心を鬼にしてやってるんだ」

形は違えど、3人の料理人が「くまさん亭」の女主人を尊敬していることに変わりはなく、シングルマザーとして奮闘する彼女を思ってしばらく口が重くなった。そして。

「それはそうと、チコ、おまえに言っておくことがあるんだ」

「なんですか、オーマさん?」

「怪我が治って、うちの厨房に戻ってきたら、一度まかないを作ってみろ」

「えっ?」

驚きのあまり、米を握る手を見習いは止めた。

「おかみさんの考えだ。今のおまえならやれるはずだ、と言っていたし、おれもコムもセシルもみんな同じ考えだ」

「いや、でも、おれ、今基本からやり直しているところで、いきなりそんな」

「いきなりじゃないだろ。おまえ、店を飛び出す前もそれなりにやっていたじゃないか。その積み重ねを生かさないでどうするんだ? 一生下積みしている気か?」

コムにそう言われて「そうじゃない」と少年の胸に強い反発が生じた。絶対に料理人になる、という思いは今では常に彼の中であって、決して消えることはなかった。

「右手はダメでも、そうやって左手は動いてるだろ? 頭も動いてるだろ? だから、しっかり準備できるはずだ。店に戻ってきたらすぐにやってもらうから、そのつもりでいろ。いいな?」

小柄な料理人に訊かれたチコは、

「はい」

と短くそして力強く答えた。まかないを作って、すぐに上手く行くという保証はない。しかし、怪我をしていてもじっとしていられない、それほどの熱意があるならば、いつか必ず成功するはずだし、それまで応援してやろう、とオーマもコムも考えていた。集中して左手を動かす後輩の姿を、2人の先輩は厳しくもそれでいて暖かくもある眼でしばらく眺めていた。


「あら、大変」

騎士の手相を見ていたリブ・テンヴィーが眉をひそめる。

「あなた、近々災難に遭うみたいよ」

「へえ、そいつは大変だ」

酔いの回った中年の男は占い師の忠告にもへらへらと笑った。占いよりも美女に手を握られている方が彼にはずっと重要で、天にも昇るような思いを味わっていた。

「真面目に聞きなさい。『軽挙妄動を慎め』ってメッセージが見えるわ」

「なんだい、そのケイキョモードーって?」

「よく考えないで軽はずみに行動することよ。そういうことをしたら痛い目に遭う、ってことね」

「そうかいそうかい。じゃあ、ケイキョモードーしないように気を付けるわ」

だはははは、と笑う騎士を見たリブの美貌が曇る。真面目に受け止められていないのは明白だからだ。

(なかなか大変そうだな)

今夜も「くまさん亭」に出張してきた友人の様子を厨房から見ながらセイジア・タリウスは思った。どこの世界でもいつの時代でも、女性が一人で生きていくことが厳しいのに変わりはない。セイもリブも、そしてこの店の主人であるノーザ・ベアラーにもそれは言えることだった。

(おかみさん、大丈夫だろうか)

女騎士にはそれが気がかりだった。食堂の近くの「フーミン」14号支店が全焼してから、「フーミン」そのものが苦境に見舞われていることは彼女もなんとなく知っていて、ノーザの不安も消えたはずなのに、それでも女料理人の表情は晴れないままだった。心配して声をかけても、「大丈夫だよ」としか答えてくれない。オーマとコムも同じように心配しているらしく、調理台の前で食材を並べてぼんやりしていた、とか、何かのレシピを見て考え込んでいた、とか気になる話を聞かされていた。どうしたものか、とノーザを気に掛けるセイだったが、そんな少女自身も実は悩んでいた。あの火事が起こって以降、何故か仕事に身が入らなくなっていたのだ。集中しているつもりでも、何処かに隙があるようで、毎日必ずつまらないミスをしていた。

(どうしたというのか)

不調の理由がわからずに困っているところへ、店内から呼ぶ声が聞こえた。リブに占ってもらっている騎士の仲間だ。「はい、ただいま」と言いながら彼らの座っているテーブルに近づくと、突然騎士たちが表情を一変させて立ち上がり、リブの前でにやけていた中年の騎士も気を付け、の姿勢をとっていた。

「そんなにかしこまらなくていい。楽にしていろ」

シーザー・レオンハルトが食堂の中に入っていた。その横にはアリエル・フィッツシモンズが控えている。2人とも鎧を身にまとっているところを見ると、食事に来たわけではないらしい、とセイは即座に察する。

「シーザーくんもアルくんもどうしたの? こんな夜遅くに」

占い師に微笑みかけられても、

「悪い、姐御。今日は真面目な用事だ」

と、王立騎士団団長は表情を崩さなかった。

「ちょうどよかった、セシルさん。あなたにお話があるんです」

アルの顔も険しい。只事ではない、とセイも気を引き締める。

「ちょっと、どうしたんだい?」

ノーザ・ベアラーも店の中にやってきた。

「おかみさんもそこにいてくれ。あんたにも聞きたいことがある」

シーザーに告げられた女主人は困惑しながらも頷く。

「セシルさん、あなたはこれに見覚えがありますよね?」

そう言いながら、アルが広げたのは一枚の紙だった。

「『マグラ通運』の社長から借りてきたものです。『必ず返してくれ』と何度も頼まれて、借りるのに一苦労しました」

それが手紙なのは、少し離れたノーザにもわかった。

「かつてのアステラ王国天馬騎士団団長セイジア・タリウスが『くまさん亭』への助力を求める内容の手紙です」

王立騎士団副長がそう言うと、ノーザ・ベアラーの表情が固まった。

(セイジア様がうちの店を? そんな、どうして?)

自分の知らない何かが起こっている、と女主人は気づき始めていた。

(おかみさんは何も知らないようだ)

目敏くそれに気づいたシーザー・レオンハルトが話を続ける。

「そして、この手紙を持ってきたのがあんただと『マグラ通運』の社長は言っていた。どういうことなのか、あんたから直接話を聞きたいんだ、セシルさん」

(そうか。そういうことか)

セイジア・タリウスは全てを悟った。正体が露顕するときが来たのだ。そうすれば、「くまさん亭」で今まで通りに働くことは不可能になる。自分はそれを何処かで予感していたから、仕事に集中できなかったのだろう。第六感かあるいは何らかの超感覚で、結果を先回りして察知し、それが行動に現れることは戦場でもよくあった。

(残念だが嬉しくもある。シーザーとアルを騙していたようで、ずっと心苦しかったからな)

セイが諦めの笑みを浮かべたのにリブは気づいて憂い顔になるが、まだ気づいていないアルが説明を始める。

「『マグラ通運』の社長が『セイジア様から仕事を頼まれた』と吹聴している、という噂を聞いて、ぼくらも話を聞きに行きました。そうしたらこの手紙を見せられたんです」

黒髪の青年騎士が腕を組む。

「最初は偽造だと疑ってたんだけどな。セシルさん、あんたにもこの前説明したが、セイジア・タリウスは現在行方不明の身だ。そんな人間が手紙を出すというのもどうかと思ったし、おれの知る限り、あいつとこの食堂には関わりはないはずだ。だから、あいつを利用した悪質な詐欺か何かと思ってたんだが」

「でも、これは本物です」

アリエル・フィッツシモンズが断言する。

「ずっと団長のそばで働いていたぼくにはわかります。これは紛うことなき団長の直筆です。単純にして力強い文体。そして、何より丸っこくて可愛らしい文字。これこそが何よりの証明です」

(それを言うなよ、アル。結構気にしてるんだから)

セイは苦り切る。女の子らしい字しか書けないのは、彼女のコンプレックスになっていたのだ。

「それからもうひとつ、今この食堂が建っている土地の地主にも同様にセイジア・タリウスからの手紙が届けられていたのがわかった。そして、それを持って行ったのも、セシルさん、やっぱりあんただ」

店内の異変に気付いたオーマとコムが傍に寄ってきたのに勇気を得たのか、ノーザがシーザーに問いかける。

「ちょっと待っておくれよ、団長さん。セイジア様がそんな手紙を出して、一体何の意味があるんだい」

「意味は大ありだ」

力強く断言した「アステラの若獅子」は少年騎士に詳しく説明するように促し、「自分で説明してよ」と思い、嫌そうな顔をしながらもアルは口を開く。

「ベアラーさんの質問にお答えしますが、あの手紙に大いに効果があったのは明白です。まず、『マグラ通運』の社長から聞いた話では、あの手紙がなければ『くまさん亭』を助けることはなかったそうですし、また、地主のおばあさんから聞いたところでは、『フーミン』がここの土地と建物を買収に来たときも、あの手紙があったから断固として断った、との話を聞いてます。この国を救った英雄を裏切ることはできない、とご老人は決意されていたようです」

食堂で働く3人の料理人は言葉も顔色も失った。自分たちの知らないところで、とんでもない危機に瀕していた、と今ようやく知らされたのだ。

「つまり、タリウスがこの食堂をマズカのレストランから守っていたのは間違いない事実、ってことだ」

部下に説明を丸投げしておきながら、シーザーは決め顔でそう言った。

「どうしてあいつがそこまでしてこの店を守るのかさっぱりわからないのでな。あんたにその理由を聞きたいんだ、セシルさん」

「ぼくからもお聞きしたいことがあります」

少年は意志のこもった眼で三つ編みの女子店員を見つめた。

「あなたは嘘をついてますね、セシルさん」

そう言われたセイの胸に鋭い痛みが走り、女主人は気色ばんだ。

「ちょっと、セシルは正直な子だ。嘘なんてつくような子じゃないよ」

「ぼくもセシルさんはいい人だと思ってますし、そう信じたい。でも、嘘をついてるとしか思えないんです」

ああ、とシーザー・レオンハルトが同意してから語り掛ける。

「あんたがタリウスと同じ味のシチューを作れるのは、ツンジさんから教わったからでタリウス本人とは関係がない、とおれたちは思っていた。だが、あんたがあいつの手紙を届けた、となると話は違ってくる。あんたはタリウスと関係があるとしか思えない」

「こうなると、ぼくたち個人の問題ではなく、公的な問題になってきます。なにしろ、セイジア・タリウスという人は今でも大きな影響力を持ってますから」

そう言ったアルの瞳が冷たく光る。

「セシルさん、納得した説明をしていただけないのであれば、騎士団本部までご同行していただいて事情を聴取しなければならなくなります。その上で何らかの罪に問われる可能性も」

「ちょっと、アルくん、いくらなんでも乱暴じゃない」

たまりかねてリブ・テンヴィーが叫ぶ。

「もちろん、おれたちだってそんなことはしたくない。だから、正直に話してもらいたいんだ」

シーザーの言葉を聞いたセイはひそかに微笑んだ。

(やれやれ。すっかり調べはついているわけか。わたしには都合の悪い話だが、2人とも優秀で何よりだ)

そこへノーザ・ベアラーが足音も高く歩いてきて、セイと騎士たちの間に割って入った。

「あんたたち、何を勝手なことを言ってくれてるんだい。うちの店員をしょっぴこうったって、そうはいくもんか。この子はいつも一生懸命働いてくれてるんだ。何も悪いことなんかしてやしないんだ。そんな言いがかりをつけて、いくら立派な騎士だろうと、ただじゃおかないよ。この子を連れていくつもりなら、わたしをどうにかしてからにするんだね」

すさまじい気迫に数々の戦功をあげてきた2人の騎士も息を飲む。

「もういい。おかみさん、もういいんだ」

少女が大声を上げた。女主人が振り返ると、そこに見えた少女はいつもと同じ姿なのに何かが違っていた。

(わたしは幸せ者だ。こんなにも大事に思ってもらってる)

セイにはそれだけで十分だった。そして、おかみさんにこれ以上迷惑をかけたくなかった。

「わかった。事情は全部説明する。わざわざ本部にまで行く必要もない」

少女に微笑まれて、シーザーとアルも異変に気付く。地味な外見の娘の中に恐るべきものが潜んでいたことにようやく気付こうとしていた。

(セイ、あなた決めたのね)

リブ・テンヴィーだけが女騎士の覚悟を見抜き、はらはらした思いで状況を見守っている。

「その話は後にしてもらおうか」

張り詰めた空気を暗く重い声が破り、店内の全ての目が食堂の入口へと動く。そこに「影」が立ち、陰気な笑いを浮かべていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る