第25話 「影」、女騎士さんに挑戦する

深夜の路上で、「影」は一人たたずんでいた。「くまさん亭」が閉店し、店の明かりが消え、もうずいぶん経った。女主人は警官に付き添われ、2人の男は連れ立って、それぞれ家路につき、後は女子店員を残すのみだった。おそらく、戸締りをしているのだろう。そのついでにカルペッタ・フーパスの一味を撃退したようなとびきりの罠を店の中に用意しているのかもしれない。秋の冷たい夜風に吹かれても孤影はまるで揺らがなかったが、心の中はそれなりに揺れ動いていた。

(あの野郎、わあわあ泣きわめきやがって)

女子店員の強烈な一撃を左腕に食らったソフトモヒカンを連れて帰るのに苦労したのを思い出したのだ。いつもの尊大な態度はどこへやら、サブリーダーはやれ「骨が折れた」だの「病院に連れていけ」だの幼児のように泣きじゃくって、「影」たちを手こずらせていた。実際のところは、単なる打ち身に過ぎなかったのだが、それでも若者の左腕に残った毒蛇がのたくったかのように赤く細長い痕跡には、道を外れた仕事人もさすがに瞠目せざるを得なかった。

(おそらく半分ほども力を出してはいないのにこの有様だ。あの女が本気だったら奴の腕はちぎれていたかもしれん)

これまでにない強敵の出現に心が躍り、「影」の気配もさながら真夏の陽炎のようにゆらめいた。そして、そのとき、表通りに標的が現れた。

「おい、女」

小さいがよく通る声で呼びかけた。不意を衝いてもよかったが、男は少女の強さを認めていた。だからこそ、これまでの人生で数えるほどしか使ったことのない表現だったが、正々堂々と挑みたかったのだ。

「おれと勝負しろ」

そう言おうとしたが、それはできなかった。娘が男の方をまるで見ないまま疾風のごとく走り去ってしまったからだ。完全に想定外の行動をとられて、「影」は呆気にとられて動く事が出来なかった。瞬く間に少女が消え去った方向を眺めるしかない。驚きのあまり、口は半開きになり、どす黒い暗がりが体内からこぼれそうになっている。

(逃げやがった)

少女は「影」に気づかなかったわけではない。逆に待ち伏せの気配を感じたからこそ、逃走を図りまんまと成功してのけたのだ。してやられた、という不満ばかりが胴体を駆け巡り、バキバキと音が立つほどに強く歯噛みする。

(おのれ、小娘が。なめくさりやがって)

だが、目指す敵が強いだけでなく狡猾であると知れたことに、男は喜びも感じていた。命を懸けるに値する相手であるのに間違いはなかったのだ。怒りと闘志で背中から暗黒の炎を噴き出しながら、「影」は次なる機会を窺うことを心に決めていた。


その翌日。昼間、店から買い出しに出かけた少女の後を付け、勝負を挑もうとした「影」だったが、なんと途中で撒かれてしまい、白昼にひとり立ち尽くす羽目となった。尾行も得意としていた男には有り得ない屈辱だった。ならば、ともう一度閉店時刻に待ち伏せしようとしたのだが、店を出る娘には警官が付き添っていて手が出せなかった。ただの警官など倒すのは黒い仕事人にはたやすいことだが、その相手をしているうちにまた少女に逃げられてしまう。つまり、待ち伏せへの対抗策をとられてしまったのだ。

(完全に勝負を避けられている)

と悟った「影」は焦燥感に包まれ、全身を灼熱で炙られているかのような気分に陥った。

(おまえほど強いのなら逃げる必要などないはずなのに何故だ。何故おれと勝負しない)

戦いを切望する男の胸に焦がれるような思いがあり、わずかな時間のうちにそれはもはや恋にも近い感情にまでなっていた。と言ったところで「影」自身は認めるはずもなかっただろうが。


「影」は基本に立ち戻ることにした。まずは標的について知るべきだった。勝負に逸るあまり、仕事人の心得を忘れていた自らを深く恥じ、実際に行動に移した。やっていることは暴力や破壊ではあったが、彼の精神は職人に近いものがあったのだ。

「くまさん亭」の常連客を探し出し、何人かに女店員の話を訊いてみた。老婆相手の地上げには失敗したが、仕事のために必要とあらば、情報収集もやってやれないことはない。その結果わかったことは、女の名前はセシル・ジンバ、食堂で働くようになって半年余りだが、いまや看板娘として人気者になっているという。接客、応対だけでなく料理の腕もあって飲食店の従業員として非の打ち所がない、と手放しで褒め称えている人間もいた。しかし、「影」は「完璧すぎて怪しい」と思い、かえって警戒を強めていた。そもそも、あれほど腕の立つ人間がただの従業員として働いていること自体、男は怪しすぎると感じていたのだ。そして、何日かかけて調べまわった結果、

(それしかないようだ)

と「影」は覚悟を決めていた。


夜の「くまさん亭」に「影」の姿があった。今日はひとりで店に来たのだ。邪魔になるだけなので、カップたちには知らせていない。

(女、今日こそ逃がさんぞ)

目当てのセシル・ジンバの姿は店内には無い。厨房にいるはずだが、それはかまわなかった。出てくるまで待てばいい。中央のテーブル席に座る男に、女主人が近づいてきた。

「お客さん、ご注文を伺いましょう」

食事を摂るために来たわけではなかったが、せっかくなら、という気持ちになった。それに何か頼まないと怪しまれるかもしれず、目的を達成できなくなるおそれもあった。

「あの、なんとか、というシチューをくれないか?」

そう言うと、さっぱりした雰囲気を漂わせた女性は、

「『シェフのきまぐれシチュー騎士団風』ですね」

とにっこり笑って厨房へと戻っていった。その名前を聞くのは2度目だが、もう一度聞いてもやはり馬鹿げた名前であることに変わりはなく、覚える気にもならなかった。すぐにシチューが運ばれてきたが、持ってきたのは大柄な男で、娘ではなかったので軽く失望を覚える。

(まあいい。さっさと食っちまおう)

がつがつ、と自分でも驚くほどの速さでたいらげようとしたその時、

「セシル、表を掃除しておくれ」

と、さっきの女主人の声がして、

「はーい」

と、なんとものんきな声とともに、待ち望んでいた姿が店の中に現れた。セシル・ジンバという名の少女だ。「影」の存在に気づいたのかそうでないのかはわからないが、ほうきを手にした彼女がぱたぱた足音を立てて、こちらへと近づいてくる。

(いよいよだ)

黒い男の身体にかすかな緊張が走る。「影」の計画はシンプルだった。自分の席に近づいてきた娘に奇襲を仕掛けるのだ。店の外で仕掛けようとすると、勘のいい娘に避けられてしまうのは、これまでの失敗でよくわかっていた。娘が町はずれの占い師の家に住んでいるのはわかっていたが、おそらくそこを襲っても同じように逃げられる。それどころか、店に罠を仕掛けるような食えない相手だ。自宅にどんな仕掛けがあるかわかったものではなく、襲撃するのは賢明ではなかった。というわけで、店内で攻撃するのが一番いい、という結論に至っていた。派手な動きに出て、雇い主であるトビアス・フーパスは怒り狂うだろうが、知ったことではなかった。この娘さえ仕留めれば「くまさん亭」は瓦解する。そうすれば任務を達成できるのだ。自分自身の欲望と職業上の倫理を混乱させながらも、男の内面は冷たく冴えわたり、何秒後かにようやく始まろうとしている勝負の瞬間を待ち焦がれていた。そして、今まさに少女が「影」の横を通り過ぎようとする。

(ゆくぞ)

男の右手が鋭く尖り凶器へと変貌したかと思うと、空間を切り裂いて娘の白い顔へと一直線に伸びていく。これまで無数に繰り広げてきた戦闘の中でも、いまだかつてない会心の一撃を放てたことに、当の破壊者自身が驚愕し、また歓喜していた。これならば、標的の生命を間違いなく断つことができる。顔面を穿ち、脳髄を粉砕し、頭蓋を貫通する映像が脳裏に浮かぶ。そして、勝利を確信した男の右手に伝わってきたのは、

「むにゅ」

というこの上なく柔らかな感触だった。

「は?」

驚きで大きく見開かれた「影」の両目に飛び込んできたのは、セシル・ジンバの右胸をしっかりと握りしめた自らの右手だった。黒のTシャツに隠されていても、たわわに実った球体が歪んでいるのがわかり、男は自らの脳が甘くしびれていくのがわかった。これまでの人生で味わったことのない感覚だ。

「きゃっ」

と可愛らしい声をあげて、少女が胸を両腕で隠しながら飛びずさったのと同時に、

「てめえ、なにやってくれてんだ」

と女主人が厨房から飛び出してきた。菜切り包丁を振りかざし、さっきとは表情を一変させ、悪鬼のごとき形相を浮かべている。

「うちの店で、堂々とセクハラとは、いい度胸してるじゃないか」

「いや、これは、その」

無敵の刺客であるはずの男は恐慌状態に陥ってまともに話が出来なくなっていた。必殺の一撃を放ったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。そして、「影」の不幸はまだまだ続く。

「どうされました?」

中年の男性警官がやってきた。嫌がらせが続いていたので、市警が店の巡回を強化していたのだ。

「おまわりさん、この人です」

居合わせた女性客が「影」を憎々しげに睨みつけながら指さした。

「どういうことです?」

「どうもこうもないよ。こいつがうちの店員に痴漢しやがったんだ」

「は?」

ノーザ・ベアラーの警官への説明を耳にした「影」が悲鳴を上げる。犯罪者、あるいは殺人者と呼ばれ弾劾されるのは我慢できた。実際にそうしたことをやってきたのは否定できない事実であり、それと同時に悪行を重ねたことに倒錯した誇りも抱いていたのだ。しかし、痴漢と呼ばれるのは我慢できない。自分が欲望に屈した愚か者だと思われてはたまらなかった。断じて否定しなくてはならなかった。

「違う。おれはそんなことはしていない。おれはこの娘を殺そうとしたのだ」

必死の弁明であったが、

「ちょっと何を言ってるのかわかりませんね」

と朴訥とした雰囲気の警官に受け流されてしまう。より重い罪を自己申告する愚か者などいるはずがない、と思われてしまったのだろう。

「すげー言い訳」

「おっぱいを触ってどうやって殺すんだよ」

「あんな黒い恰好をしてるんだもの、間違いなく変態に決まってる」

客たちに罵倒され、笑われて、「影」は怒りと恥ずかしさで全身を震わせた。これほどの屈辱は味わったことがない。

「とりあえず事情を聞きたいから、署の方まで一緒に来てくれるかな?」

そう言いながら、警官が「影」の肩を叩く。

「いや、あの、ちょっと」

「抵抗すると罪が重くなるよ」

右手を取られて連行されそうになった男の耳に会話が飛び込んでくる。

「セシル、大丈夫かい?」

「はい。大したことありませんから」

女主人に返事をする娘の顔を見た瞬間、「影」は暴発した。警官の手を振り切って、店の外へと飛び出す。形容できない叫び声をあげながら、夜の街を疾走していく。

(嵌められた! おれは嵌められた!)

自分を見た、セシル・ジンバという名の少女の唇には、かすかに冷たい笑みが確かに浮かんでいた。それで全てが理解できたのだ。想像に頼らざるを得ない部分もあるにせよ、「影」が娘にしてやられたのは間違いないはずだった。

おそらく、自分の顔面へと向かっていた「影」の貫手の勢いを何らかの手段で殺した少女は、男の右手を自らの右胸へと誘導し、殺人者を痴漢に仕立て上げたのだ。「何らかの手段」と書いたように、男には最高の一撃が防がれた理由がわからない。向こうの方が戦闘の技量は上だと認めざるを得なかった。そして、あの場に居合わせた人間全てに痴漢だと認識されてしまった。ひとつでも耐えがたい恥辱をダブルで重ねられて、汚れた世界で彼なりに誇り高く生きてきたつもりの男は身も心もズタズタにされていた。

(このままではすまさんぞ。あの女、セシル・ジンバめ!)

深く傷ついた男の咆哮が繁華街に響く。手痛い敗北は「影」をセイジア・タリウスへとより強く執着させることとなり、再戦は避けられそうもないようであった。

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