1月20日 緑川 春海

 緑川春海は、サークル棟の急な階段を駆け上がった。

 手にしたカメラを落とさないように走るのは、想像以上に難しかった。

 踊り場で一旦、足を止め、首を後方に向ける。桃野はちゃんと追いかけてきていた。

 カメラがちゃんとナイフを持った鬼のような形相の桃野の姿を記録していることを確信し、再び、駆け出す。

 四階にたどり着くと、廊下を進む。

 見るからにぼろいマットレスが行く手を阻むように置いてある。走る速度をわずかに落とす。

 緑川は気配だけで、桃野が背後に追ってきていることを確認した。

 コケのような色をしたマットレスの手前で足を止め、飛び込む。

 むっとかび臭い香りを鼻に感じた。

 次の瞬間、桃野のスニーカーのかかとのロゴが目に入った。

 桃野はそのまま、数メートル進んで止まった。両膝に手をあてた前傾姿勢。肩で大きく息をしている。

 緑川のほうを振り向く。唇が動く。「オーケー?」と。

 緑川は動けなかった。動くわけにはいかなかった。

 監督の虻川から「カット」の声が飛ぶまでは、指示された以外の形で、カメラを動かすわけにはいかない。

 そのときだ。

 桃野の近くの部屋の扉が開いた。

「お前、なにしてんだ」

 ノブに手をかけたまま、白井が声をかけた。

 数メートル離れた緑川にもはっきりとわかるほど白井は動揺を示していた。

 しー、と桃野は口の前で人差し指を立てる。

「カットー、カット、カットだー」

 怒ったような虻川の声に「またやり直しかぁ」と緑川はうんざりした。

 これで九回目だ。もし撮り直しならば、次は十回目になる。

 カメラマンは三人で交代しながらやっているが、精神異常者役の桃野は違う。

「そっか、ミスればまた走らなきゃならないんだ、やつは」

 緑川のつぶやきは小さすぎて、本人以外、誰の耳にも届かなかった。

「シライー、お前、なんてとこから出てきやがる。もうちょっと早かったら、また撮り直しだったぞ」

 廊下のがらくたに見せかけた場所に隠れて、別のカメラを回していた虻川が白井に詰め寄る。

「なんテイクでもやればいいじゃないか。いい映像をつくるには、それぐらいの覚悟が必要だ」

 やけに楽しそうに白井が告げた。

「ニヤニヤしてんなよ。他の連中は年下だから敬意を払っているかもしれんが、オレはお前と同じ歳だからな。遠慮しないぞ」

「虻川。お前、本当に面白いよな。監督やっているときだけ自分のことを《オレ》っていう。それ、やめろよ。痛々しいぞ。女だけど男の世界でやっていきますって強がっているみたいで」

「うるせー、オレの勝手だろ。チェックするから、どっかへうせろ」

 わかった、わかったとでもいうように白井は右手を挙げて歩き出した。

「緑川、カメラよこせ。てめー今度はちゃんと指示通りやったんだろうな」

 よく通る声で虻川が言う。カメラを落とさないように注意して、緑川は立ち上がった。

 すれ違いざま、白井が緑川に訊ねた。

「あれだろ、桃野が蒼のやつを刺すシーンがあるんだろ」

「なんで知っているんですか」

 虻川は妙なところにこだわる。撮影チーム以外に脚本を見せないというのも、その一つだ。

「自称巨匠の虻川のガードも甘くなったってところかな」

 いつもと違う白井の様子に、緑川は妙な胸騒ぎをおぼえた。

 心臓の鼓動が早いのは、階段を駆け上がったからだろうか。それ以外になにかあるのではないか。

 緑川はそっと胸に手をやった。


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