1月2日 白井 冬至朗
白井冬至朗はスーパーに向かっていた。昨夜、見た謎の夢のことをぼんやり考えながら、ゆっくりと新春の町を歩いていた。
地元の店を地元の人間が支えなくてどうするんだ、大資本のチェーン展開しているスーパーなんぞを正月早々、儲けさせてやるつもりはない。新自由主義などクソくらえだ。
大晦日どころか、仕事納めだった十二月二十七日の夜から飲み続け、すっかり酔った父親の厳命のせいで、線路を越えて駅の向こうにある酒屋まで買出しに行かされていたのだ。
ところが、酒屋は休みだった。ある程度、予想はしていたから「謹賀新年」という四文字と鶴とともに年末年始の休業日を告げる張り紙を前にしても、白井はさほど落ち込まなかった。
すぐさま引き返そうとして、一応、携帯電話のカメラで写真を撮っておくことにした。本当に店の前まで行ったという証拠になる。アルコールが回っても案外、しっかりしている父親ならば、「本当に店まで行ったのか」と疑いかねない。そう思ったからだ。
このわずかな時間、一分足らずの時間がなければ、白井や彼の友人をはじめとする周囲の人物の運命も変わっていたのかもしれない。
もっとも、運命なるものは数十秒程度ではびくともしないからこそ運命なのかもしれないし、運命だからこそ神は短い時間、白井を足止めしたのかもしれない。
それは神のみぞ知る。
だから、判断は賢明な読者のみなさまに委ねよう。
始まったばかりのこの物語を。結末まで見届けてくれる奇特でいとおしい人々に委ねることにしよう。
「飛び出すんじゃねぇ、馬鹿野郎」
踏み切りのすぐの手前のところで男の怒鳴り声が聞こえた。振り返ると五メートルほど後方の十字路の横断歩道の白いハシゴ模様を隠すように、車高の高い黒の軽自動車が止まっていた。その窓から黒いマスクをつけた若い男が首を突き出していた。険しい顔をしている。
先ほどの罵倒の言葉は、この茶髪の黒マスクから発せられたらしい。
男の視線の先には、小さな男の子とその父親らしい三十代くらいの細身の男性が怯えたように立ちすくんでいた。どうやら子どもが飛び出したらしい、ということは朝から父親や親戚と付き合って各種アルコールを摂取して鈍くなった白井の頭でも瞬時にわかった。
「あの子はちゃんと手を挙げて渡ろうとしていたのに、あいつが止まらなかったのにねぇ」
足を止めて様子をうかがっている人々の一人が口にした。若くはない女の声だった。これを耳にして、白井はカチンときた。だが、白井冬至朗という男は二十代前半という年齢にしては落ち着いた人物だった。
アルコールのせいで気が大きくなっているのではなかろうか。軽の運転手になにを言えば親子を救えるだろうか。できるならば、黒マスク以外のこの場にいる人々全員がすっきりとしてここを離れる策はないものだろうか。もしも男が車から降りてきて穏やかでない展開になっても、双方が怪我なく済むようにうまく立ち居振舞える程度には酔いからさめているだろうか。
結局、なにもできずないうちに、これみよがしにエンジンを吹かせて軽自動車は去って行った。苦い気持ちとともにコンビニの前を過ぎたときだった。聞き覚えのある声がした。
「なにしてるんですか、こんなところで」
顔を横に向けると、同じ大学の緑川春海がいた。
「お前こそ、なんでこんなところに」
「実家、このへんなんです」
そうだろうな、と白井は納得した。緑川は犬を連れている。
「それは知らなかった。俺も帰省中なんだ。東中の裏って言えば、地元の人間ならばわかるかな」
緑川は大きくうなづいた。そのかたわらで、飼い主の困惑と興奮が伝わったかのように、不思議そうな顔で犬がハァハァと息をしている。
「あれ、でも東中って、けっこう向こうですよね」
緑川が遠くを指をさした。白井は遠い酒屋まで買い出しを命じられた経緯を誇張まじりに伝えた。
「なるほど、大変ですね」
昨夜、見た夢のことを緑川に打ち明けようと思ったのは、偶然の出会いに少なからず白井も浮き足立っていたからだった。
「なぁ、初夢、どんなんだった」
ずるいな、と白井が後ろめたさを感じたのは訊ねた後だった。
「そういうの気にするんですか。ちょっと意外。もしかして、干支と星座と血液型を組み合わせた三〇〇位くらいまである今年の運勢ランキングみたいなのも、細かく探しちゃうタイプですか」
「こう見えて信心深いんだよ。占いは信じないけど、日本の伝統みたいなのは大事にしている」
「一富士二鷹三茄子でしたっけ。あれって確か続きがあるんですよね」
素直に感心して「へぇ」と声が出た。
「四とか五もあるんだ。なんなの」
一瞬、妙な顔をしてから
「忘れちゃいました。」
と、緑川は舌を出した。その表情に思わず、白井は引き込まれた。
「夢見ないんですよね。てか見てるんでしょうけれど、覚えてない。白井さんは見ました、初夢」
きた、と白井は心の中で握った拳を引いた。
「それがなぁ」
焦らしてみた。
「もったいぶらないでくださいよぉ」
求められたから仕方なく話したのだという形ができあがった。もくろみどおりだ。喜びを隠しながら、白井は渋々といった様子に思われるように語り出す。
「人が刺される夢なんだ。ナイフかなにかで」
「嫌な初夢ですね。もしかして、元日に刑事ドラマでも見たからじゃないですか」
「かもな。でも、刺されるのが知ってるやつなんだ」
ははは、と緑川は笑った。もしかしたら、冗談を言っていると思われているのかもしれない、と白井は緑川の表情を探った。
「緑川も知ってるやつだよ」
「誰ですか」
「それはな……言わない」
ある疑念が白井に《その人物》の名前を口に出すことを躊躇させた。もしかしたら、緑川が《その人物》に特別な感情を抱いているかもしれない。そう白井は案じたのだ。
「気になるじゃないですか、教えてくださいよ」
「それがな、刺された後で床に日めくりカレンダーが落ちるんだ。日付は三十一日」
「それ、今月末ってことですか」
緑川はやけに深刻そうな顔だった。つい白井もゆっくりとうなづいてしまった。
気のせいですよ。
そう明るく笑い飛ばしてほしかった。
「で、誰なんですか」
誰か適当な人間はいないだろうか。嫌われ者の筑紫准教授の顔が浮かんだが、筑紫の講義を緑川は受けていない。
「あ、もしかして」
妙に嬉しそうな顔で緑川が口にした。
「誰かいるのか、死んでほしいやつが。報酬次第でこの世から葬り去ってやってもいいぞ」
「そう前振りされたら、言えないじゃないですか」
すまん、と白井は手を合わせた。
「そういうんじゃないですけど、共通の知り合いっていうので、パッと思い浮かんだんです」
「誰だよ」
「本人には、っていうか、誰にも言わないでくださいね」
「言えるかよ」
「死ぬのは、桃野さんです」
緑川の瞳に青い炎のようなものが見えた気がした。
鳴り出した踏み切りのカンカンという音がして、救いか逃げ場を求めるように緑川は背後を振り返った。
「昔は各駅停車だけだったのに、今は快速なんてものができやがって」
一言、口にして緑川に向き直った。瞳の炎は消えていた。
「で、正解は誰なんですか」
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