加藤監督と加藤くんの竹刀ときゅうりの話

阪井こん

加藤監督と加藤くんの竹刀ときゅうりの話


 2035年6月 


愛知県高等学校高校総体 剣道競技(県大会)



『負けたやつになんて声をかけたらいいか、

 俺はずっと考えている。

 今でもずっと。

 答え合わせができると、思っちゃいねぇけどな。

 それができた時は、ただただ感謝だ。』



(なぜ今、思い出すのだろう。)

 出てきた加藤の能面のような感情のない顔を見た時、2年前亡くなった恩師の言葉が蘇った。


 更衣室前の廊下は光が差しているにもかかわらずどんよりと暗い。なぜなら、今ここにいる高校生たちは、敗退し、もう出番がないからだ。


 愛知県大会個人戦『一回戦』で、教え子の加藤が負けた。

 加藤は、自分が初めて部活動指導員になった年に入部してきた生徒だ。性格はやや内向的な部分があるが、一方で愚痴も言わず黙々と努力する姿勢に好感を覚えた。同じ加藤という名字のこともあり、少し贔屓目に指導をしていた子だ。

 その甲斐あってか、1年生の時は地区大会の一回戦止まりだったが、3年生になった今、県大会進出を果たした。

 団体戦はすでに地区大会で敗退。部の期待を背負って戦った加藤だったが、一回戦であえなく敗退となった。部費の都合で玉竜旗参戦も叶わない為、この試合が加藤の最後の公式戦となった。


 対戦相手は1年生だった。


「仕方ねーよ。

 相手は1年とはいえ、あの狼谷(かみや)だったからな!新免八段最後の弟子なんて呼ばれてて、全中の個人戦ベスト8。団体戦一位の東山中の元大将。優勝候補だったんだ。ただの1年に負けたわけじゃねぇし、運が悪かったんだよ。」


 出てきた加藤に、応援に来た同じ3年の佐藤が駆け寄った。彼の口から出た言葉はたぶんなんの慰めにもならないだろう。


「おおい!狼谷(かみや)もう負けたぞ!」

(田中〜〜!!)

 どこかへ行っていた田中が飛び込んでくる。まだ会場に残って試合を見ていたようだ。

 自分をあっさり負かした相手が他の相手にあっさり負かされる。よくあることだが、今のタイミングで来てほしくなかったなぁ。


「3年の新狗郎(しんくろう)が2本取って勝った!さっすが強豪の主将。とにかく反撃許さないの一方的だったのって!開始30秒で狼谷から面で取って、そのあとすぐに小手をとって二本勝ち!とにかくまじ半端ないって!さすが剣道界のグレイシー一族!!!あれ?そもそもグレイシーって何?新狗郎家って外国人なの?」


 田中、お前、グレイシー一族知らないのか。

 ブラジリアン柔術の最強の一族。〇〇界のグレイシー一族と言えば、そこで活躍する血族のことを指すのだが、田中が無知なだけなのか、ただ単に世代間ギャップなのか。後者だったらちょっと悲しい。


「ま、いいや。でさ、あの小手抜き面!それでいて試合終わっても全然喜ばないの半端ねぇよ。狼谷のやつ手も足もでねぇの。さっすが3年!とにかく半端ねぇの!」


 お前は大迫半端ないの人なのか。そう口に出したかったが今の高校生に『大迫半端ない』は通じるのだろうかと思ってやめた。世代間ギャップというものは地味に辛い。下手にダメージを受けることはない。沈黙は金。秘するが花だ。


「1年のくせに個人戦出てくるなんて生意気だったんだよ。全中ベスト8が聞いて呆れるぜ!」

「田中。」

 ぎくりと田中の肩が強張る。

「それは狼谷くんだけではなく、彼を選んだ監督やチームメイトも侮辱する言葉だ。やめなさい。」

「、、、すいません、、、。」

「まぁ、お前がそこまで嫌う理由、何かあるんだろう。」

 なぜなのか解らないが、狼谷は周囲からの評判があまり良くないのだ。あの新免先生が自ら門下生に望んだ天才児。その外見や雰囲気からは、無闇に悪評を立てられる理由がある様には見えないので意外だった。

「負けた後、噂の傾城級美女剣士の彼女にさっそく慰められてました。剣士にあるまじき行為です。僕はあいつを許せません!」

「、、、うわ、田中が本当に泣いてる。気持ち悪っ。」

 佐藤がつぶやいた。

(いくらなんでもそれはひどいと思うぞ。)

「新免八段最後の弟子とか言われて、彼女が傾城級美少女剣士とか完全に漫画の主人公じゃん。そんなやつ二次元で無双してればいいんだ!」

 田中の嘆きにさっそく佐藤のツッコミが入る。

「いやさっき負けたから無双はしてねぇ。特に好きな人もいないのに、見た目がいい彼女のいる奴は妬ましいとか、そう言う考えだからモテないんだよ。」

 佐藤、いいこと言うな。

 こいつ確か彼女いて、素振り記録を『あやめ先生カレンダー』に書き込んで、どっちが先にマスを埋められるか競争していたな。微笑ましく見守ってたよ。

「いやいや恋愛なんて、ほぼSNSにあげるためじゃん!狼谷だって『俺の彼女、傾城級!』とかぜったいに自撮りあげてるだろ。それに俺がモテないのは出会いがないだけだし。」

「いやいやいや剣道出会い多いだろ。うちなんて基本、男女合同練習だし。現に俺、鈴木と付き合ってるし。」

 うん、知ってた。

「!!!!!」

 むしろ田中知らなかったの?

「先生!佐藤も敵でした!」

「田中。敵を作ったところで彼女は作れないぞ。お互いに好きと思える人に出会えるといいな。」

 先生の奥さんも大学の剣道部の先輩だったので、田中にかけてやる言葉はない。

 悪評の理由は美人な彼女のせいで嫉妬されているという事らしい。本当にそれだけなのかは疑問だが、これ以上は聞いていても時間の無駄だ。

 パンと手を打つと、田中と佐藤が気をつけをするように背筋を伸ばした。

「漫談は終わりだ。帰るぞ。」

「「はい!」」

 2人はキレのいい返事をした。


 横目で見ていたが、加藤の様子に違和感を覚える。

 加藤が、田中と佐藤の漫談に加わらないのは通常運転だが、いつもならばそれを見ながら笑うのを堪えていた。(なぜか加藤は人に大爆笑する姿を見せることを嫌っていた。)

 今日は、冷めた目で見ているだけだった。

 

 帰るように促すと柱に立てかけてあった竹刀袋が音を立てて転がった。

 後輩からもらった折り鶴のキーホルダーと熱田神宮のお守りがついた竹刀袋。

 加藤は移動中、無闇に剣道具を地面に置いたり、壁に立てかけたりはしなかった子だ。もし仮に地面に転がったら慌てて拾うことだろう。しかし、今はそれを無感情な瞳で見下ろしているだけだった。




 一回戦の試合、お互い気迫のこもったいい打突を打ち合っていた。加藤の打って出た胴は、気勢の充実したいい打ちだったが、相手が放った面の方が確実に早かった。おしかったとは言い難い試合だった。  

 そのあとは防戦一方。本人も無意識のうちに2本目を打たれることを忌避して、技の冴えがなくなり、打つタイミングを見失い、結局その一本が勝敗を決めた。

 戻ってきた加藤の落胆ぶりは、面をとる前から見てとれた。なんて声をかけてやろうか、逡巡していたときふいに目に入った竹刀は、縦に亀裂が走っていた。

 驚く自分の視線で、加藤は竹刀が割れていることに気づき、まじまじと見つめると面の向こうで奥歯をぐっと噛み締めた。

 亀裂の入ったそれは、先日、照れ臭そうに話してくれたあの真竹の竹刀だった。



『これ、親父が昼ごはん代削って買ってくれた竹刀なんです。』

 加藤が見慣れない竹刀を持っていたので声をかけると、嬉しさと照れ臭さが半々と言った笑顔で竹刀を見せてくれた。

『俺んちは貧乏じゃないけど裕福ではないから、、、親父は、剣道なんて全く知らないし、試合なんて忙しくて見に来られないけど、、、、この間、突然、防具店に行くって。』

 竹刀は部でまとめて買っているため、防具店で選ぶのは初めてだったと言う。店主が無愛想に見えて優しかったこと、思った以上にいろいろな道具があること、そのときのことを思い出してやや興奮気味に話してくれた。

『これ、3本買ってもらったうちの1番いいやつなんです。母さんに聞いたら、親父、昼飯代節約してたみたいで。って言っても食後の缶コーヒー我慢してただけなんですが、、、親父、酒もタバコもやらない、ほんと、それだけが楽しみなのに、、、』

 お父さんにとっては、お前の喜ぶ顔が楽しみだったんだろう。

(まてよ。3ヶ月分の缶コーヒー代。単純計算で120かける30かける3で、10.800円。小手下とか他の消耗品を買っても高すぎやしないか?)

 学校でまとめて買っているものは、1本1000円から2000円。3本買ったとしてもそんなにしないはず。もしや騙されてないかと、竹刀を凝視してみると、その竹刀にはうっすらと青みが残っていた。

(国産の真竹か。)

 一般的に竹刀が黄色っぽい茶色なのは、材料となる外国産の竹を輸入する際、植物防疫のための殺虫手段として徹底的に煮沸消毒するためだ。竹の油分が飛ぶため、乾燥に弱く、ささくれ立ちやすく、割れやすい。

 そのため、その処理を行わない国産の竹、それも4、5年かけて育った真竹は、1、2年で収穫してしまうものと比べ、乾燥させても油分が残り竹が枯れずにうっすらと青みが残るという。

 また真竹は硬く、無駄にしならず、丈夫で、有効打突が決まった際の手応えがまるで違うという。

 試しに田中と試合をさせてみれば打突音が全く違う。硬い竹刀を好む加藤によくあっている。

 国産の真竹は外国産に押されて、生産量が年々減少し、加工できる職人も数が減少している。確かにこれなら、値段が張る。

 この先、自分のスタイルを確立していくだろうこの子は、さまざまなものに触れる経験が必要だ。とりわけ、いいものに触れることは、この子にとってかけがえのない経験になるだろう。加藤のお父さんはいい買い物をした。


『先生、この竹刀、できるだけ長く使いたいです。』

『それはいい心がけだ。真竹の竹刀は割れにくく、丈夫と言われている。ものを大切にするお前なら、いつも通りに扱えばいい。』

『はい!』

『ただ、破損するときは破損するということを忘れるな。それを恐れて打ちが甘くなってはダメだぞ。そのことは注意しなさい。』

『はい!』


 加藤は宣言通り大事にしていた。いつもささくれができていないか入念にチェックしていたし、倒れて割れたら怖いと、壁に立てかけることなく極力床に寝かせていた。

 その竹刀で地区大会を勝ち上がったとき、こいつのお陰だと、はにかみながら呟いていた。

 だが竹刀というやつは割れる時は割れるのだ。

 誰になく問いたい。

 なぜ、よりにもよって負け試合で割れたのだと。


「あ、加藤、試合で竹刀割れたんだってな。ま、消耗品だからさ、これを機会に新しいの買えよ。」

「田中、、、ちょっと黙れ。」

 低く声を出せば、先生、今日は俺に厳しくない?と目で訴えながら黙る。

 簡単に買い換えるなんて言うんじゃない。



(恩師だったらなんて声をかけるだろうか、、、)


『俺は学がねぇけど、俺の周りの奴はみんな学があって礼儀正しかった。だから俺みたいなやつが、道を踏み外さずにお天道様の下を歩けているのは、みんな剣道のおかげだ。

 剣道やるなら礼儀正しくやれよ。もの大切に扱えよ。人間ってこうだって教えてやってくれよ。』


 出会った頃にはすでに老人。生きていれば100歳を越えていた。その人は口を開けばよく同じことを言っていた。戦中の日本に生まれ、戦後の日本を生きた人で、人の話によれば苦労苦労の人生だったらしい。話を聞けば、『老人の苦労話なんてガキが聞くもんじゃねぇ。自分の将来のこと考えな』とぶっきらぼうに返すところが好きだった。

 部活指導員の話が来た時、真っ先に尋ねた人だった。

 高校時代、同じ加藤という姓だからか、とりわけ可愛がってもらった自分でも恩師の笑った顔はあまり見たことなかったが、尋ねた時には珍しく上機嫌だった。そのまま祝いだからと言って馴染みの飲み屋に連れて行ってくれた。

 思い出話から指導者として気をつけることとは何かを話している時、恩師は言った。


「勝ってる奴は、浮かれるんじゃねぇって叱ってしまいだ。とりわけ褒める必要もねぇ。

 だけどな、問題は負けた奴だ。

 勝負ごとなんてなんでもそうだが、剣道だって負けるためにやってるようなもんさ。ずっと勝ってる奴はいねぇ。だからこそ大事なのは負けた時なんだ。」

「ケロッとしてる子もいますよ。俺なんてその典型ですし。」

「お前が?そうだったかなぁ。そうだったかなぁ?そりゃそういう奴もいるだろう。見逃しちゃいけねぇのは徹底的に心が折れた奴だ。そういう奴は、えてしてみんな静かなんだ。」

「静か、、、黙り込んでしまうのですか?」

 

 恩師は少し考えてから、おもむろに首を振った。


「いや、そうじゃねぇ。笑ってたり、泣いてたり、怒ってたり表情は違うが、とにかく『静か』だ。なんて言えばいいのか、笑っていても笑っていないし、泣いていても泣いていない。なんか心のどっかが別の場所にいっちまったみたいになっちまう。で、そのまま二度と戻ってこねぇ。」

「、、、、」

「やめるのはまぁ、そいつの意思なんだから仕方ねぇけどな、俺はそんなやめ方だけは教え子にさせたくねぇんだ。」

「そういうとき、なんて声をかけてあげていますか?」

「わかんねぇ。狙って良いこと言おうとしたら、絶対に届かない。やめさせたくないのは、あくまで俺の望みであって向こうの望みじゃねぇ。

 お前のためだと言ったところでただのお為ごかし、、、。結局、自分が思い通りにしたいだけの、下心となんら変わんねぇ。

 本心でそいつにやめて欲しくなかったら、下心も何もかも捨てて、何も考えずにでてきた素直な言葉だけが、届くんじゃねぇのかなぁって、、、。」

 考えをまとめるためか、グラスのビールに口をつける。ゆっくり味わうように飲んでからふぅと大きなため息を吐く。

「ただ、それは結局、相手の受け止め方だからなぁ。励まそうとしてかけた言葉がトドメ刺すこともあれば、どうでもいい言葉で救われる奴もいる。人に何かしてやるのは本当に難しい、、、教えるのはもっと難しい。ましてや導くなんて普通の人間には不可能だ。

 だけどな、考えるのをやめたとき、それは明確な負けなんだ。」

 また大きなため息をついた恩師は、真剣な面持ちで続けた。

「だから、

 負けたやつになんて声をかけたらいいか、

 俺はずっと考えている。

 今でもずっと。

 答え合わせができると思っちゃいねぇけどな。

 それができた時は、ただただ感謝だ。」

 そのあと、恩師は自分を見てにっこり笑った。

「お前はどうだったんだ?」

 自分の返答を待つことなく、恩師は寝息を立て始めた。『いいことあった日にゃあエビスビール。』と、飲んでいたビールラベルに描かれた恵比寿様にその顔はそっくりだった。




 今の加藤は、あのとき恩師が言っていた『静か』なのだろうか。

 3年間、ずっと練習を見てきた。多少の指導経験はあれど、部活指導員としては初心者である自分の指導は完璧とは言い難いものなのに、加藤たちが信じてついてきてくれたから、やってこれた。辛いことも楽しいこともあった。

 本当は勝たせてやりたかった。

 優勝させてやりたかった。勝って笑わせてやりたかった。転がった竹刀袋を見つめる加藤の静かな目が、悲しかった。


 俺は加藤に剣道をやめてほしくない。 

 そう思った時、加藤と目があった。


「その竹刀、終わりじゃない。」


 気づけば口から自然と言葉が出ていた。何も考えずにそう言い放っていた。


「他にも2本買ったって言ってだろう。店主がいい人なら、節の位置が同じものを売ってくれているはずだ。2本目が破損したら、お互いの無事な部分だけ寄せ集めて新しい竹刀を作れば良い。」


「その竹刀、まだまだ終わってない。」


 言い終えた後、これが恩師が言っていた下心のない言葉なのかと確信した。たしかにすらすらと口から出てきた。加藤に伝わっただろうか。


 加藤が何かを言おうと口を開いた。だがその前に田中が割り込んできた。


「先生、またそれっスか。いつも同じこと言ってますね。」

(田中〜!)


 思わず頭を抱えたくなったが、その通りだ。

 自分がこれを言うの今年に入ったからたぶん4回目だ。いやもっとかもしれない。


「竹刀は節の位置が同じやつ選べ!折れたら無事な部分集めてまた使え!」

 田中が笑っている。

 それは自分の真似か。似てるな。お前、その才能もっと剣道に活かせよ。

 表面上は冷静を取り繕っているが、穴があったら入りたい。自分、絶対さっき、キメ顔してた。

 ドラマじゃないんだから、突然、降って沸いたように名台詞が出てくるわけないよな。


(そりゃあ、何も考えずに言葉発したら、いつも言ってる言葉がでてくるよな。)


「そういえば、先生、折れた竹刀を集めた『すだれ』を作るって言ってましたね。」

 いま絶賛制作中だ。胴着を陰干しするとき、直射日光を遮ってくれるからちょっと便利なんだよ、あれ。いや、そんなことまで言ってたのか。


(はぁ。そろそろ手でも叩くか。)

 田中と佐藤は手を叩くまで漫談タイムだと思ってる節がある。まぁ、こいつらふざけるのは、負けて雰囲気が悪くなった時だけだからな。

 

「あと家庭菜園のきゅうり育てるとき支柱買わなくていいから助かってるって。有効活用してますね。」

 どんだけ竹刀有効活用しているのだろう、自分。ここまで来れば、ただの貧乏性かもしれない。

「あ、先生!今年の夏も持ってきてくれますか!?きゅうりの一本漬け。だしきいてて、ちょっとぴりっと辛いの。キンキンに冷やして!」

「きゅうり?」

 これ、差し入れに持っていって、と渡されたビニール袋。露店のチョコバナナみたいな串刺しのきゅうりを見た時、令和の高校生がこれを食べるのか疑問だったのだが、妻が面倒見ている小学生たちは大喜びだったらしい。サーティワンとかダッツとかの方がいいのかと思ったが、腹減っている奴にはなんでもいいのかと思った去年。意外と好評だったことを知る。


「きゅうり食いてえ!くっそ暑い中、鬼練のあと、あれガブっといくの好きなんです!」

「でも俺ら、引退だから、今年は食べられないのか、、、」


「じゃあ練習来いよ。そしたら食わせてやる。」

「いいんですか!?」

「むしろ、なんで来ちゃダメだと思ったんだよ。」

 田中と佐藤が歯切れ悪く言った。

「だって俺ら、弱かったし、、、。団体戦すぐ負けたから、、、。俺たちが勝ってたら加藤はまだ戦えていたのに。」

「、、、お前ら、勝ち負け気にするのは試合の前だけって言っただろ。もう終わったんだ。

 どんな結果になろうとお前らは、俺の教え子だ。引退したって卒業したって剣道、続けるんだろ。じゃあ、後輩しごきに来いよ。」

 ま、こいつらが来たら、家庭菜園のきゅうりじゃ足りなさそうだがな。

 出汁の配合は妻がやってくれるが、きゅうりに一本一本竹串を刺す作業を任されているのは自分なので、今年は大変そうだと夏の作業に想いを馳せていると加藤がぽつりと呟いた。

「俺も食べたい。」

 振り返ると加藤はこちらをまっすぐ見ていた。

剣道具をしっかり持って。

「先生、また稽古してきゅうり食べたい。今年の夏も食べに行きます。卒業後も食べに来ます。ずっと剣道続けます。」


 そこにいたのは、いつもの加藤だった。

 加藤は笑っていた。唇の端をほんのちょっと上げたものだったが、雲間から出てきた太陽のような晴れやかな笑顔に見えたのだ。

 何が加藤の琴線に触れたのだろうか。

 そもそも自分が勝手にやめそうだと思い込んでいただけで、最初から、そこまで落ち込んでなかったのかもしれない。

 兎角、自分の教え子が、剣道を続けると言ってくれること、それが何より嬉しく、顔が自然と笑顔になる。ああ、恩師が上機嫌だった理由がわかったような気がする。

「じゃあ、待ってるからな。後輩、指導してやれ。今年も差し入れ持ってくるからな。」

「わー、やった!きゅうり!」

 お前ら純粋だなぁ、と思ったら、一周回ってSNS映えするらしい。写真ばしばし撮ってたなぁ、佐藤。

「ただし、卒業生は素振り100本につき1本しかやらんぞ。」

「えー!!」

「ちなみに田中は200本な。」

「なんで俺だけ!明らかな暴利だよ!」

「じゃあ、先生から一本取れたらでもいいぞ。」

「もっと無理!です!」

「そこはがんばります!だろ!」


🚐 =3



「おーい、先生の車で堂々と寝るなよ。」

 試合に出た加藤はともかく、田中と佐藤まで寝るとは。バックミラー越しに見える寝顔。指導者の車で寝るとか、令和っ子たちの神経の図太さに思わず笑ってしまった。

 そして同時に恵比寿様のような恩師の寝顔を思い出す。

 恩師の言う通り、何も考えずに言葉を発したら、いつもの言葉しかでてこなかった自分。


『お前は竹刀を大切にするからいい剣士になるよ。』

 遠いあの日、まだ高校生の時の俺にかけてくれた言葉は、恩師がいつも口癖のように言っている言葉だった。勝てる剣士になると言って欲しかった自分は、そのときは反抗心しか覚えなかったが、大学のときも社会人のときも、節目節目を支えてくれたのはその言葉だったかもしれない。


 そういえば、あの日、酔い潰れる直前にビールのつまみにしていたのは、きゅうりの漬物だった。


(今年、豊作だといいな、、、)


 我が家庭菜園に、きゅうりが実ったら、一本漬け作って墓参りに行こう。恩師の大好きなビールも持って。


 終わり



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