5-7 決着と明日

 

「おい、こいつ確認票を持ってないぞ!」

 

 予想外の事態に、テコンドー部の連中はうろたえた。いまや完全に中心に陣取っている連上も意外そうな表情を浮かべている。

 ふふ、ふふふふ──と島崎は引きつった笑い声を上げる。

 一本取ってやった──あの連上千洋を騙してやった。

 

「かかったな、連上」

「なんだって?」

「見ての通り、意思確認票はここにはない。植村さんに託したんだ」

「託した?」

「僕自身が囮だったんだ──接触してくるなら僕だろうと思ってね。こんな遠回りな道をわざわざ選んだのも、焦点をこっちにずらすことで別のルートを辿っている植村さんを捕捉できないようにするためだった」

 

 地面に両膝をついた無様な姿勢から体を起き上がらせる。壁に寄り掛かって座り込み、取り囲む敵を見上げた。

 

「今から生徒会室へ向かっても、もう期限の時刻には間に合わない──お前が出てくるタイミングは正しかった。限りなく正確だよ。だからこそ理解できるはずだ──もう今からじゃ、植村さんには追いつけないってことに」

 

 大きく息を吐いて、唖然としている人間達に宣言する。

 

「僕の、勝ちだ」

「……ふっ」

 

 連上が頬を歪ませる。

 一瞬の間があって、場は笑い声に包まれた。

 連上は笑みを浮かべながら、テコンドー部の人間を下がらせて島崎の正面に立った。

 

「それが君の結論か……着眼点はなかなかだったけど、運が悪かったねえ」

「なんだと?」

「残念ながら、植村叶は最初から──そう、生徒会選挙が始まった時からあたし達の味方だったんだよ。気付いていなかったのかい? つまり、君の最後の策は空振りに終わったわけだ」

 

 連上を見上げて、島崎は鼻を鳴らす。

 

「ふん、そんなことなら気付いていたさ」

 

 笑い声がぴたりと止まった。

 テコンドー部の男達がいぶかしげに島崎に視線を注ぐ。

 

「協力を要請し、植村さんがそれに応じた時点から僕はその可能性を疑っていた。疑っていたからこそ場所を指定したんだよ。わざわざ体育館の二階で植村さんと会ったのは──窓からこっそり見ていれば、植村さんの後についてくる尾行者の存在を確認できるからさ」

「!」

「そして僕の予想は的中した……まあ、あらゆる可能性を見逃さないお前ならその手で来るだろうと思ったよ。なるべくなら当たって欲しくはなかった──植村さんには白であって欲しかったんだけれど、この土壇場ではそんなことも言っていられない。だから次の希望──植村さんが裏切る可能性を探った」

 

 あの時。

 意思確認票を受け取って礼を述べた時、彼女の瞳が後ろめたさに揺らいだのを島崎は見逃さなかった。望みはある──そう信じて、場を辞そうとする植村に駄目押しでもう一度礼を言った。今度は彼女の中に迷いが生まれたのがはっきりとわかった。

 その迷い。連上の陣営の内部に生じた、ちっぽけな淀み。

 島崎はその一点にすべてを賭けた。

 

「賭けるしかなかったんだ。連上と通じている植村さんが意思確認票を持ってきた以上、僕を直接抑えようとしていることは明白だった。彼女に託す他に選択肢はなかった」

「それで渡したって言うのか? ──敵と知っていながら」

「あの植村さんなら──あの優しくて正義感の強い植村さんなら、こんなやり方で政敵を蹴落とすやり方には心の中では不満があるはずだと思ったんだ。僕はその場で包み隠さずすべてを明かして、彼女を信じた」

「はん、土壇場で頼み込んだ所で、そんなに都合よく動いてくれるわけねえだろうが! そんな苦し紛れの方法がうまくいくはずがねえ──お前は負けなんだよ!」

 

 渡辺が焦った様子で吠えた。

 対する島崎は落ち着いた声音で問う。

 

「植村さんからお前達に連絡は来たのか?」

「!」

 

 連上はその途端に表情を強張らせた。ということは、どうやらまだ連絡は来ていないらしい──と島崎は推察する。

 意思確認票を託されたなどということは異例の事態──本来ならその場で連絡が来てもおかしくない。今に至るまで何の音沙汰もないと言うのは──

 希望の光、か。島崎は吐息とともにそう思い浮かべた。

 

 そして、

 濃い時間が流れた。

 

 島崎は何も語らない。テコンドー部の男達もどうしていいかわからないといった様子でぼんやりと連上を見つめている。当の連上も、何の指示も出さずにただ目を閉じて立っていた。

 数十秒にも満たなかったのか、それとも数分に及んだのか──その判断すら曖昧になるほどの高密度の緊張の中で続いた間は、やがてくぐもったメロディによって終わりを告げた。

 メールの着信音だ。連上の携帯ではなく、テコンドー部の連中のそれでもない──この音は島崎のものだ。

 島崎はそろそろとポケットに手を入れ、携帯を引っ張り出す。誰も動こうとしないのを確認してから画面を開き、メールを開封した。

 

「無事、提出しました    植村」

 

 島崎は静かに口角を吊り上げた。

 安堵、歓喜、感動、感謝──あらゆる感情が胸中を駆け巡る。極度の緊張で冷え切った全身に、一挙に暖かい血液が行き届いていくように感じた。

 

「四時五十七分──ギリギリセーフだ。僕は立候補者としてエントリーされた」

 

 画面を連上達に向けると、途端に動揺が湧き起こった。

 

「動じるな」

 

 連上はあくまで冷静な口調で仲間を静める。

 

「裏を取りに行って」

「は──はっ?」

 

 渡辺が目を白黒させた。

 

「島崎君の最後の小細工──アドレス帳をいじって叶ちゃんのアドレスを偽装し、自作自演でメールを作った可能性もある。すぐに佳奈ちゃんを捜し出して真相を問うの」

「は、はい!」

 

 渡辺含む数人がばたばたと部屋を出て行った。

 島崎はかぶりを振って連上に視線を向ける。

 

「おいおい、僕がそこまで頭が回ると思うか?」

 

 言いながらも、島崎の内心は冷や汗ものだった。

 確かに、その方法も一度は考えたのだ。島崎の携帯のアドレス帳に登録をし直し、別のアドレスから送られたメールを「植村叶」と表示できるようにしておき──ダミーのメールで植村の裏切りを偽装し、本人は携帯を取り上げて連上の目の届かない所に一時的に閉じ込める。倫理的な問題に目を瞑りさえすれば決して悪くない発想ではあったが、連上が見抜けないとは思えなかったのだ。連上ならすぐに偽装の可能性に気付き、裏を取ろうとすると共に島崎をこの場に釘付けにするだろうと想像した──今まさに連上が行ったように。裏切りが偽装ならば島崎はまだ意思確認票を提出していないことになるのだから、易々と解放するはずがない。そして提出が叶わないまま時間切れになってしまう──その終点に帰着する可能性は高い。

 ならば一か八か、本気で植村を説得した方が望みはあると島崎は結論付けたのだ。裏のかき合い、化かし合いでは勝てる気がしない──ならば計算外の事象に賭けるしかないではないか。

 そして島崎のその覚悟は、報われた。

 

「これは正真正銘、植村さんから来たメールだよ」

 

 アドレス帳を開き、植村叶の項目を表示する。そこには何の細工も施されていなかった。

 

「だろうね……君の表情からペテンでないことは薄々察しているよ。正直、策が破られたことが信じられなくてさ」連上は諦めたように肩をすくめて軽く笑った。「わかった、あたしの負けだ」

 

 島崎は拍子抜けして思わず呟いた。

 

「──ずいぶんあっさりなんだな」

「こんな気はしていたんだ。一切妥協無しの作戦をあたしが構築しても、君の理を超えた本気が打ち破ってしまうような予感が、なんとなくね」

「予感?」

「うん、予感していた。いや、もしかしたら期待していたのかもしれないね。あたしの冷たい論理を、退屈な常識を、閉じた世界観を──君が打ち壊してくれることを」

 

 連上はそう言ってしまってから、頬を掻いて恥ずかしげな表情をした。

 なるほど、すべてが計算通りに動いてしまうというのも存外つまらないものなのかもしれない──島崎は思った。

 

「もう日が暮れる。帰ろうぜ、連上」

 

 島崎が伸ばした手を、連上はゆっくりと握った。

 

「──うん」

 

 

 

 五時六分。

 すでに日は傾き、景色は橙色の光に染められている。そんな中を、島崎と連上は並んで歩いていた。

 島崎は見るともなしに見ていた携帯を閉じる──何だか少し気まずい。ちらりと連上の方を窺うと、向こうも幾分硬い表情を浮かべている。

 何を話せばいいのか分からない。そもそも状況が特殊すぎるのだ。ついさっきまで互いを騙し、出し抜くことに全力を注いでいた二人の間にはどんな言葉がふさわしいのか──見当もつかない。島崎が悩んでいると、連上が決心したようにあのさ、と声を上げた。

 

「君と──会えてよかったよ」

 

 連上がぽつりと漏らしたその言葉に、島崎は頬が熱くなるのを感じた。

 

「な、何改まってんだよ。恥ずかしいな」

 

 連上は俯いていやその──と口ごもり、上目がちな視線を島崎に向けた。

 

「また、会えるかな?」

「え?」

 

 連上の言葉の意味がつかめずに島崎は混乱したが、少し考えてみるとおぼろげながら想像がついた。

 おそらく、これから島崎が連上を避けるのではないかと心配しているのだろう。

 島崎にそんな気はなかった。確かに散々な目に遭わされはしたが、もうすべて終わったという安心感の前では過去のごたごたは霞んで見える。被害を受けた井守に対しては後でしっかり謝ってもらわなければならないが、それさえ解決してしまえばもう島崎の中に連上への負の感情は何一つ残ってはいなかった。

 島崎は不思議に思った。ここまで嫌になるほど連上の狡猾な面や冷酷な面を見続けてきたのだから、恨みつらみこそなくとも怯えて遠ざける気持ちが起こってもおかしくない──なのに今、どうして自分はこんなに爽やかな心持ちでいられるのだろうか。

 連上を見やると、いかにも不安そうな表情で見つめ返してきた。

 

 ──ああ。

 交錯した視線の中に、島崎はなんとなく答えを見た気がした。

 多分、自分はただ単純に、この眼前の少女と仲良くなりたいのだ。

 それが恋愛感情と呼べるものなのか、あるいはもっと別の何かなのかはまだよく分からないけれど──これまでの数ヶ月のように、連上と一緒にいたい。連上が何を言い、どう動き、どんな考え方をするのか──それを追ってみたい。つまりは、島崎の胸中はそんなような思いに満たされているらしい。

 島崎は笑いかけた。

 

「明日になりゃ、学校で会えるだろ」

 

 西日に照らされた顔が、驚きの形から徐々に柔らかく緩んでいくのが見える。

 

「そう──だね」

 

 連上は無邪気に微笑んだ。

 一陣の風が吹いて、連上の髪を乱した。

 

「また、明日」

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