【#102】静かな生活というやつ。

 薬師ルリコが住んでいるこの南の島の、島嶼部基礎の奥には巨大な発電所があり、島嶼部基礎には多くの巨大な船が接続されている。

 巨大な船のひとつ、日本船籍船「☆あぐらいあ☆」とそれに満載された街区・医療法人あけぼの会を中心とした各種施設・環境調整機構のうち、船体表層、街区の南の隅っこ、雨水ますのほぼ真上に彼女の家の敷地はある。

 元々、海賊の砲撃の的にされて立ち退いた病院の跡地だったので、広い割に地代が安かったのと、街区の端で発電所に近く、尚かつ排水出水口に近くて分譲に適さないということで、今現在結構広い敷地が薬師ひとりのものになっている。

 入手時の事情が事情なため、彼女には手放す理由も予定も無く、もしかしたら死ぬまでここに住んでるかもしれないなあという一抹の悟りのようなものと共に毎朝目覚める日々が続いていた。大体退勤時にはそんなことは忘れるが、まあ、独り者なので余計なことを考えたりするのだ。

 

 薬師の現在の主な所属は、あけぼの会警備部特警三課。特警は特殊公務員の不足のため戦闘を中心とする現場に派遣される警備員の集団である。

 個々人の様々な理由と事情で全身を戦闘外殻体に換装している社員達が、状況に応じて結構な戦闘行為もやらされる現場で現場人足をやっているのだ。

 彼女は更に、身体がそこら辺の工場で組み上がるものではなく、強度こそ生身より十分頑丈で、戦闘外殻体ともやりあえるが、「普通の人に紛れるもの」として製作されている、あけぼの会病院謹製強化人体とも言うべき身体をしており、これのメンテナンスで最低でも月三日は連続した休日をとる必要がある。その融通を利かすための本業で、所属であった。

 薬師は、警備部の内勤の女性社員の一部が生理休暇を取りたいと申し出たのをいい機会に、これらの女性社員に混じって、三週間連勤/一週間全休を基本として活動している。この一週間全休の時に生存に必要なメンテナンスがされるので、今のところ性差問題になったことは無い。その内なるのではないかと思ってはいるが、それはあってももう何年も先の話だ。

 現場の都合で三週連勤のうち空いた日は書類日になっており、出社は義務づけられていない。これは、過去より複数の社員が「直行直帰多いし生きてるんだから家で書類してもいいだろう、太古の昔じゃないんだから一発送信で受け取れよ」と人事にごね続けたのと、週に休日二日+祝日休と同じ数を休ませようときちんとすると、一週間全休では足りなくて、会社が役所に怒られる他に、現場社員はきっちり休日を取らせないと、ありえない凡ミスで死亡することがあるためだ。実は薬師も仕事中に一度爆死しかけて身体の換装を行っており、その件が各種労働条件の見直しにつながっていた。実際は凡ミスではなくて、狂人じみた鉄火場好きのワーカホリックだったせいなのだが、そこはうまいこと強引に見直された。それ故に今現在は、その余裕のために少し不安を感じるほどには時間がある。

 さて、その、ぽっとできた書類日。薬師はいつも通り朝五時半に目を醒まし、いつも通り花に水をやり、いつも通り軽い朝食をとり、今日どの順番で休日の日課をこなすか、鉛筆転がしをした。

 書類日にそんなにたくさん書類がある訳ではなく、大体は現業事務課が処理してくれるのだが、本人が書かねばいけない項目が存在するものもある。それらを処理して送れば大体のことは終わる。

 書類、日課分のトレーニング、先日やり残した装備のメンテナンス。あとは自由。

 彼女は鉛筆の尻を噛み噛み外を見た。自由時間。この前のクレーンに懲りて家の側に植えた花に水やりしたらやることが無い……否、「今日やろうと思っていたことが無い」。

 本来なら今日と明日は現場で、隣の船から訴訟を持って脱走してくる、派遣会社ムラシゲピースフルの登録者を九重くのう病院からあけぼの会病院に搬送する護衛のはずだったのだが、先日、当事者がいきなり予定外の脱走を図ってしまい、それを特警各課から人員を捻出して国境超え、つまり船体からの脱出をさせたのだ。まあまあの鉄火場になった。

 毎度毎度、願わくばあの船籍国に遡及法が今後も立法されず、犯罪者引渡協定が結ばれませんようにと祈るしかないような感じだが、多分上手くやった。そして二日空いた。

 鉛筆から口を離して外を眺め続ける。天気予報は明後日までずっと晴れ、小春日和のいい感じの天気だ。

 薬師は、大体を昼までに終わらせて、午後にはパラソルでも出して外で寝転がることにした。


 さて、午後。薬師は、おかずが多すぎて困ってしまった昼食を全部かっこんだ後、「こりゃ晩はいらねえな」と呟きながらパラソルとレジャーシートと枕を持って家を出、海べりの、この前クレーンが停まったところとは別のよさげな位置にそれらを設置した。

 足裏の下で水が勢いよく流れ落ちる、滝のような音がする。そう、これが、よさげな位置というやつだ。

 この下には処理済み下水や発電所の処理水、雨水を放出する排水出水口があり、結構な水量が出る時間帯がある。それが丁度この時間である。

 この出水口付近には鮫が多くおり、水そのものも処理されているとはいえ薄めに薄まった下水やらで、それを考えたら若干気分が乗らないのでここで自ら海に入ったり魚を釣ることは永遠にないだろうが、言われるほど汚くない海の匂いがするので、好きなものがふたつあってとてもいい。おまけに今、彼女は腹がくちくて、しかも気温が温かくて眠い。仮にこの船縁になにか設置することになっても、ここの位置だけ残しておいて貰いたい。

 薬師はひとつ欠伸をして、ころりと横になって枕を抱えた。やがて寝息が聞こえてくるその脇を、きらきら光る色つきスタッズのついたさそりがそっと通っていく。緑と赤のLED光を明滅させながら周囲を警戒し、再びさそりの顔をして歩いて行くが、それは敷地内の警備に放たれた偵察機、目々連シリーズの一機だった。

 それからしばらくして、無防備にうたた寝をしていた彼女の耳に、人間の声が聞こえてきた。耳元というか耳の下、土に相当するソイルパネルのさらに奥だ。だがソイルパネルは、どんなに薄くとも人間の墓が掘れる以上には分厚くできている。そんなところから声がしていいはずがない。

 薬師は目を開けたが、しばらくそのままでいた。声が何を言っているかは聞き取れない。だが数回、同じ事を同じ語調で言った。最後に少しだけ聞き取れた。

「ゆうれいは いません」

 一挙動で跳ね起きた薬師は、腰に手をやって、何も持たずにそのまま昼寝をしていたのを思い出した。

「幽霊は居ませんじゃねーよ、墓の深さからごちゃごちゃ言いやがって気持ち悪いな」

 何度かここで居眠りしたことはあるが、こんな事は初めてだ。悪態をついた後、彼女は枕をとりあげて、抱いたまま少し身震いして、くしゃみをした。

 疲れているのかもしれない。とりあえず今日はゆっくり風呂に入って、早く寝よう。

 パラソルとレジャーシートを畳んで担ぎ、枕をたばさんで、彼女は首を傾げながら家に戻った。

 明日は本当に休みだ。午前中は日課分を片付けるとして、午後から何も無いならどこかに行くし、誰か来るなら家に居たらいい。本でも読もう。

 


 翌朝八時。個人用の回線に連絡がひとつ入った。出水口点検の業者が、午前九時から側面点検車輌を敷地に入れさせてくれというのだ。

 この業者は定期的に来るので、お互い顔馴染みになっており、気安い調子で来る。不審な動きもしないし、薬師としては普通に来て普通に帰っていただければそれでいいと思っている。しかし毎度休日に合わせてくるというのは少し休日予定が漏れすぎではないだろうか。毎度会社に一報入れて休日を確認しているとしか思えない正確さで来る。

 午前九時。やってきた車輌が一旦駐車したのは、この前反社の人吊りクレーンが花を踏んづけたまさのその位置であるため、もうそろそろあそこに花を植えるのをやめようと薬師は思った。

 点検車輌は船縁に沿って少し進み、昨日彼女が寝ていたところに丁度つける。

 あの手の車輌の幅だけは開けておかないとだめかと納得しながら、シャッターを上げた居間の大きな窓から外を眺めていた目を手元のタブレットに落として、薬師は花の写真と金額のリスト画面を見始めた。種苗会社の通販カタログだ。

 トリカブトが出ているのだ。生育気候が全く合わないが、吊しの鉢植え管理で、夏はエアコン下、冬は地下倉庫の隅に置いてある冬越し用冷蔵ショーケースにでも突っ込んでおけば、想定上の問題はないと思いたい。とりあえず種苗会社と検疫両方に購入の可否を伺っておかないと、買ったはいいが持ち込み不可でキャンセル・返金になりかねない。がっかりする。

 問い合わせを送信し終え、何となくヒマそうに逆立ちなどしたり、昼食を用意して食べた午後一時、窓の外で点検車輌付近が慌ただしくなり、遠目にも体格のわかる社員が慌てた様子で喋りながら運転席の開けたドアに首を突っ込んでいるのが見えた。何かトラブルがあったのだろうか。

 手に負えなければしばらく後に、トラブル対応の仕事がこちらに持ち込まれるかもしれない。あけぼの会設備部がここら一帯の設備管理責任者なので、実際のトラブルに対する行動は、程度によっては設備部でなく警備部が投入されるからだ。

 想定通り三十分ほど後、薬師の丸眼鏡の隅っこに警備部からの着信があった。発信主は春日井みこと。警備部現業業務課の課長で、このご時世に勤続二十年を超える、ほぼ現場業務以外万能選手である。機械の処理だけではできそうにない謎の融通を利かせて貰うことはたくさんあっても、逆らう者はいない。

「あーおはようございまーす、薬師でーすこんちはー」

 何となくいつも体内回線を使っている薬師は、口のひとつも開かずに対応した。

『あー出た出た。春日井でーすこんちはー。今家にいる?』

「家です。出水口点検なんかトラブってるの窓から見えるけどその件で?」

『話早くて助かるわあ。機械にも人間にもお化けにも見える人間のお化け出たって、点検のおじさん達びびって全部引き上げてきちゃったらしいのさあ』

 送られてきた映像には、点検用通路の照明の下で、だらりと長い貫頭衣のような上着と、ワイドパンツに靴、目の周りにぼろ布を巻き、杖にしては若干太く長い棒をついて歩いている、百八十センチ程の身長の、髪の長い男……多分、男が、立ち止まって何事か、同じ事を口を動かして言っている。

 ゆうれいは いません。薬師は昨日のあの声を思い出した。

『あの、……バイタルおかしいよ。大丈夫? で、これよ。実体だと思う? 機械的には投影って判断されてるみたいなんだけど、私これ実体だと思うんだよね、影があるから……渋川くんとアディが九重病院から帰ってくる直前で、検問揉めてないから二時間もすりゃそっちに着くからさ。なげてなければ暴徒鎮圧B装備家で揃うでしょ?』

 薬師は保管リストをざっと呼び出した。古物にすると保管に難があるので他の装備セットと共有するものが多いが、使用と補充は欠かした事がないので、調達の難しいもの以外は可能な限り何でもある。

「ありますよ。すぐ出られます」

 薬師は席を立って、壁際の引き戸を開けた。現れたクロゼットから紺色のツナギを出して脚を突っ込みながら続きを聞く。

『今から十分以内で現場の車のとこ行ってください。出水点検口で不審者が報告された地点までの警戒業務です。装備は暴徒鎮圧B、私物の携行は許可されますが火器制限はハンドガンまでです。二時間後に特警三課、渋川課長とADDの二名到着するので、トラブルの想定ができたら一報入れて引き返すか後続待機に切り替えて、とにかく早めに合流すること。投入した私物があったら、いつもの買い取り書類で後で請求してください。ではご安全に』

「ヨシッ」

『ヤメレ、不吉だ』

 ツナギの袖口を締めると、空気が抜けるような音がして服のサイズが少し縮んだ。引っかかり防止のための体型フィットだ。生身や部分補修の社員によると、太ると若干苦しいことがあるというが、薬師には幸い無縁な話である。

 廊下の隅の跳ね上げ蓋が開く音がして、開け放した居間のドアから自走ボックスが現れる。雑に『暴徒鎮圧B、目々連偵察業務、蜂とG詰め合わせ&さそり3号袋』と書かれた紙が貼ってある。割としょっちゅう使うのでまとめて置いてあるやつだ。いちいち探しに行くのが面倒なので自分で来るようにした。

 箱に入っていたずた袋と、装備を出して着けながら、箱と一緒にやってきた、きらきらスタッズを接着されたさそりに窓を指さす。さそりは箱から降りて窓から出て行った。箱は部屋の隅に移動して停まる。

 薬師は窓から直接外に出て、庭の隅の、雨に当たらないところに立てかけられた折りたたみ自走台車三台のうち一台を組み上げ、手に持っていたずた袋をひっかけて乗ると、前と後ろを逆さにしてバックギアを入れて走り出した。背後で窓のシャッターが閉まっていった。

 


 台車に乗っかったひとが向かってくるのを認めた点検会社社員達が、こっちこっちと手を振ってきた。どうもこんにちはと手を振り返しながら近づき、薬師は挨拶もそこそこに状況の説明をうけた。

 春日井が伝えた業務内容とやることはほぼ変わらない。現場は点検通路を三時間パレットで進んだところにあるという。徒歩だと半日かかり、薬師が持ってきた台車だと六時間かかる。パレットは作業員を乗せて帰還途中で、後一時間半もすれば戻ってくる。帰還途中の現場作業員達が言うには、彼らがお化けと呼ばわったものは肉声が出て、「ここにゆうれいはいません」とずっと繰り返していたという。肉声かどうかは生身の作業員にはっきり聞こえたのでそう言っている。機械は投影と判断したが、照明に照らされてフードの影ができた。そこまで細かい投影を作るような高度な機材があれば、通路のどこかに異物として置いてあるはずだから、映像ではない。

 生活なり戦闘なりの完全外殻体で頭がやられたやつか、機械を騙して侵入した不法侵入者の危険性が排除できないため、マニュアルに基づいて引き返してきたそうだ。

 この出水口の点検は、三時間地点まで一度点検しながら進み、もう一度点検しながら引き返してくるので、速度と入った事実は問題無いのだが、慌てているので今度もう一度来ることになるが大丈夫かと今聞かれ、薬師は、まあ今月最終週ならと苦笑しいしい答えつつ、大体の作業を頭の中でまとめた。

 ――六十キロメートル先の地点ということは、十数時間も歩いていられないので、まず持ってきた私物の台車をバッテリーの限り走らせながら、目々連の偵察用雀蜂を先行させ粗方の映像点検を済ます。後続の渋川・ADD組に点検用パレットを貸与、すぐ出発させてほしい。途中で追いつかれるので、拾って貰って三時間ほど走り、現場に至る。現場では目々連Gで少々細かい所を撮影して帰ってくる。中継はさそり三号が行う。尚、目撃された不審者が移動していて途中でエンカウントするようなら何らかの処置をしてすぐ帰還する。おそらく撃墜、捕獲になるだろう。その場合は警察沙汰になるが遠慮無くすること。船内空間への不法占拠があった場合、この人数の埒外分野の会社員では対応してはいけないからである。――

 頭の中でつくったまとめを、目の前の人々に喋りながら春日井と渋川宛てにテキスト出力し、送付する。大体これで出発前の作業は終わり。出発だ。

 

 台車で一時間ほど走っていると、パレットが再出発した通知が出た。後続の装備は街区警備X、火器無制限のままだ。

 ほぼ同時に、先行する雀蜂の群れが現地に到着した。送られてきた映像は、作業員達が余程大慌てで帰ってきたため誰も何も見ていないのがよくわかるものだった。床に泥靴の跡のような足跡がいくつもあり、不法占拠者の生活痕というよりは刑事の張り込み部屋のような中途半端な待機痕がある。人間は不在だ。

 位置をいえば、薬師の家から街区側におよそ直線距離で六十キロ、広めの公園の真下になる。公園の下は、各種処理施設に入る前のライフラインの集積地になっており、規模によっては雨風をしのげる広さの空間がある。だが、点検用通路から専用出入口以外にそこに至る道や空間はない事になっている。なっているのだ。

 なっているのだが、設計上の狭小空間というものが複数あって、まれに、自分の腕脚をバラして、先達に引きずり込んでもらいその空間を移動する輩がいる。あるいはまだ見たことも聞いたこともないが、大型犬用程度の生活外殻用生命維持装置に人間の残骸を繋いで、通過用ぴったりサイズのケース詰めでもして入れれば、もしくは無事通過できるのでは……

 そこまで考えて、薬師はこめかみを二度拳で軽く叩いた。前半は自分が昔、一度だけ駆除した。だが後半は考えすぎだ。下水等の水道管や地下化した電線の下に箱が死屍累々ではないか。ああいうつなぎ方をされて生きているのは奇跡だと言われたし、何なら集積地の空間も点検ボットが入って点検しており、今のところ死体の山で揉めた話はない。変な奇跡を期待して訳のわからない行為をして野垂れ死ぬなら、よそんちの軒下に居たほうが余程マシというものだし、爆弾テロなら爆弾だけ入れればいい話だ。

 雀蜂の報告をそのまま地上へ中継しつつ走り続けると、大体想像通りの二時間弱で台車のバッテリーが尽きてきた。台車を停めて何分も待てば、渋川とADDが追いついてくる。薬師は、変な走り方をさせ続けた台車から降りて、それを畳んで通路の床に置き、上に腰かけた。

 さそり三号が肩に乗ってくる。動作こそさそりそのものだが、これは機械で、手触りは模型、かみついたり刺したりしない。アルコールをかければ消毒されるし、本物のさそりも駆除するという触れ込みだ。慣れれば大したことはない。偵察用なので、家の警備用に放置してあるさそりとは違い、きらきらスタッズを貼って生物と区別することはない。その区別は、夜中に寝ぼけて一体殴り壊したことがあるためしている。硬いので、殴り壊せば手をひどく痛める。正直、痛くて泣いた。

 と、古いスニーカーの、スリッパに似たぺたぺたという足音が奥の方から聞こえてきた。時々、こつん、ごつんと何かを床に当てる音もする。

 薬師は手に持っていたずた袋を逆さにして、中のゴキブリ型偵察機を全部床に放り出す。高速直進した一機が、すぐに足音の主を捕捉した。

 送られてきた映像は、まさに「出たお化け」として伝えられたそのものだった。

 だがおかしいのはその移動速度で、歩いているならまだだいぶ奥の方にいるのではないか。薬師はハンドガンを確認し、フラッシュライトをつけ、さそり三号を台車から降ろし、その場に立った。

 足音の主は少し離れた所で立ち止まり、向けられた光に目を細めた。多分、男だ。

 変な貫頭衣ではなく、下手くそに作られた長いコートらしき上着のフードを目深に被っている。背は高いが、百八十センチあるかないか。ADDが百九十超なのを見慣れているため、そう大男にはみえない。

 耳の奥底に後続からの通信が着信する。渋川だ。

『薬師、もう何分もしたら着くんだけど、何か居た? このお兄ちゃん何、例のお化けっぽいやつ』

 薬師は口も開かず応えた。

「渋川さん、急げるかい。こいつ、移動速度がおかしい。お兄ちゃんに見える?」

『見えるも見えるお前、こいつ首から上生身だよ。目の下に稗粒腫あるもん。外殻ならそんな嫌なとこまで作り込まねえ。それに顔の皮が若い。急ぐから。釘付けにしとけ』

「了解ナリィ」

 やりとりの間無言で向き合っていると、男が口を開いた。

「どちら様ですか」

 確かに若い男の声がする。

「ここに幽霊はいません」

 昨日地の底から聞こえたあの声だ。ここに ゆうれいはいません。

 薬師は二の腕が少し粟立つのを感じた。息を整え、口を開く。

「あけぼの会警備部です。お化けが出るってんで点検会社が点検作業できなくて。異状の確認に来ました」

「ここに幽霊はいません」

「いえね、この辺は許可無く人間も出ないことになってるんですわ」

 戦闘開始の四文字を送信準備したそのとき、前触れもなく男の突いていた太い棒がこちらの顔面めがけて突き込まれた。仰向けに倒れる感じでそれを躱した薬師は、身体をひねって浮いた右足で棒を蹴り落とそうとするも、結構な握力らしく男は手を離さなかった。そしてあの棒は金属だ。

 棒をそのまま足場にして飛びすさった薬師は、テーザーを撃ち込むにも距離の即座には詰められなさを感じ、あの棒を掴んで力比べの後投げて撃つ方針に切り替えた。力比べに勝ったら滅多打ちにする。

「ここにゆうれいはいません」

「そうですね、いませんね」

 何度か打ち込まれた棒を捉える事に成功した。左脇と胸でがっちり抱え込んで梃子でも動かない顔をした薬師は、それでもだいぶ耐えたのだが、棒ごと持ち上げられ放り出された。

 元来た方に投げ出され、背中を床にしこたま打ち付けて息ができないところに、離してしまった金属棒が降ってきて、顔をかばった両腕を直撃する。殴られたわけではなく、相手の手を離れたやつが降ってきた。

 棒は貰った。力比べには負けたが棒は貰った。一挙動で跳ね起き、薬師は得物を拾った。男は予備の武装が無いらしく、その場に立ち尽くしている。

 男の顔に向かって数回突き込むも、突きに合わせて避けられる感じで身体の表面に当たるのが関の山だったが、当たる感触で、この男は首から下が外殻だというのだけはよくわかった。たまに居る珍しいタイプだ。金銭面の他に理由と事情があって首から上が生身というのはたまに居る。

 あまり深入りするとこっちの首が飛びそうだ、と弱気になったその瞬間、薬師の顔面に向けてあまりにも無造作に拳が飛んできた。頬の前に金属棒を突っ込んで拳を受ける。棒はひしゃげたが何とか頬は無事だった。 返す刀で男の胸ぐらを掴み、棒を棄てた薬師は、男を投げた。重いものが硬いものに叩きつけられる音が通路に響く。頭を打ったならあるいは。 抜く手も見せず抜いた銃で顔のすぐ側に撃ち込んだが、男は変わらず無表情で起き上がった。

「ここにゆうれいは いません」

 片耳の吹き飛んだ男は、それでもその台詞を発するのを止めなかった。もしかしたらそれしか知らないかもしれない。だが同情の余地もなく、この期に及んで手を抜くこともあり得ない。薬師はもう一度、男に飛び込み、今度は壁に投げた。

 物凄い異音がして壁のパネルがひしゃげる。設備に異状が出た警告が天井際のスピーカーから発せられ、警告灯が点った。

 丁度到着した後続のパレットからふたりの男が降りてきて、壁際で頭を打って延びている男に駆け寄った。ふたりとも軽機関銃を担いだ大男だったが、片方がかなりでかいのでもうひとりが細く見える。

 大男のほうが、無言でコートの男の両腕を吹き飛ばし、首元を踏んづけた。細身のほうがポーチから細長いスティック状のものを出し、コートの首元から少し下の緊急停止キーの穴を露わにして突っ込む。その作業をしながら、細身のほうは薬師に声をかけた。

「お疲れさん、頑張ったな」

 今になってむせ始めた薬師は、咳き込みながら軽く手を挙げ、それに応えた。

「ヤクシニ、壁、派手に壊したね」

 大男から笑って言われて、薬師はふるふるとかぶりを振った。

「え、そいつが硬いのが悪いんだよ。私じゃない」

「いやお前だろ。まあ暴徒Bでこんな硬い奴相手にすんの無理だからしゃーないけど」

「もう少し生身に近い奴が出てくるとばかり思ってました……偏見かな」

 偏見かもな、と細身の男に背中を軽く叩かれ、薬師は大きく息を吐いた。

「渋川さん、もうおうち帰っていいっすか」

「後の始末か? 引き継ぐよ、春日井さんから状況逐一送ってきた」

 台車も目々連も全部ほっぽり出して歩いて帰ろうとする彼女に、大男のほうが声をかけた。

「台車と虫サン、全部持って帰ろうか?」

「あ、あ――どうしよう。この袋に帰るようにはしてるんだけど……帰還、させるわぁ……ごめんアディ、台車、持ってきてくれるとすごく助かります……」

「疲れてンね」

「なんかどっと疲れちゃった」

「歩いて帰る? 遠いよ、一緒に帰ろ」

 ADDの黒い大きな目を見上げた薬師は、基本的な事を何か忘れているような気がして、首を傾げて数秒して、ここがどこだかようやく思い出した。自宅から直線距離でおよそ二十キロメートル先の空間に居るのだ。歩けなくはないが、歩きたくない。

「薬師ぃ、もうダメだなお前。少し時間かかるから、先にパレット乗っとけ。ひとりで帰るなよ」

「あい……」

 パレットの隅っこにちょこんと腰掛け、薬師は気の抜けた顔で、フックにひっかけたずた袋にゴキブリが吸い込まれていくのを眺めていた。続いて雀蜂が五匹潜り込み、最後にさそりがLEDを点滅させてハサミを振り、袋に潜り込んだ。

 ばいばい、おつかれさん。さそりがそう言っているような気がして、彼女はかぶりを振った。確実に疲れている。

「ねえ渋川さん、明日我々直行だっけ……」

「いや全員定時出勤だと記憶してるが……寝る前にでも確認しとけ」

 渋川とADDは、腕を吹き飛ばされて転がっている男の脚をくくって、拾った腕をくくりつけ、パレットに転がした。

「お家帰ったら返事きてるかな」

「何の? いいもの?」

「トリカブト」

 え、と異口同音に声があがり、三人は互いの顔を交互に眺めた。

「え、苗の通販と検疫から返事来てるかだよ……」

「お前、食うなよ」

「食わねえよ」

 台車が載せられ、ヨシ帰るぞ、と渋川の声がかかり、パレットは元来た方へ動き出した。

 

 側面点検車でパレットを地上に上げると、数台の警察車両が停まっていて、そこには薬師の見慣れた外注管理係の刑事ではなく、捜査一課を名乗る刑事が三人待っていた。顔と名前が一致しなくはないが、できればお互いあまり縁がありたくない感じだ。

 特に何か問われるでもなく、彼らは丸太の如きくくられた男を回収して、明日の夕方どうですか、と予定を聞いてきた。

 明日、特警三課はあけぼの会病院の外来警備当番なので、夜なら全員いいと渋川が答えると、ではそれでとあっさり帰った。


 外はすっかり夕方だ。全員疲れてしまってあまり口もきかなかった。

 家がすぐそこにある薬師と違って、皆これから帰らないとならない。

「……お茶かコーヒーいれるくらいならできますよ、大した食べるもんないけど。そこ家なんで、ちょっと歩くけどあがって、どうぞ」

 彼女の言葉に、全員なんとなくほっとした顔で頷いた。 

 無事に済んだから、とりあえず今日は帰って、全ては明日からだ。

 

【了】

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