第31話 Ⅴ-⑤
私でさえこの土壇場で心の中から消えていたのに。
恵には説明しなくても私に今必要な物が分かったのだろう。例えそれがどんなものなのか良く知らなくても。
恵はにっこりと笑いかけ、私に抱きついてそのまま動かなくなった。多分最後の力を出し切り、目的を果たした安心感から意識を失ってしまったのだろう。永遠に。
『恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。恵が死んだ。』
私は心の中で今起ったことを壊れたレコードのように反芻した。しかし不思議と悲しみは襲ってこなかった。それはおそらくすぐに自分の番が回ってくることが分かったからだろう。
私は二度と意識の戻らないだろう恵の体を抱きしめ返した。
ふと目を落とすと床に恵が持っていたスケッチブックが落ちているのが目に入った。おそらく最後の絵であろうその絵は、私が想像した怨嗟とは程遠い内容のものだった。
それは昔、私が恵と一緒に見た仏教本の中で描かれていた天国の絵、その中で私と恵とお母さんとお父さんの四人で豪華な食事を取っている、幸せな、そんな絵だった。
私は目に涙が溜まっているのに気が付いた。
おそらく、水分をしばらく取っていない私にはこれが最後の一滴の涙になるだろう。
せっかく恵が最後の力を振り絞って持って来てくれた薬を、その一滴の涙で飲むことにした。
しかし、いつもは簡単に開く薬箱が堅く感じ、床に中身をぶちまけてしまう。その中から一番近くにあった一袋を手に取り、封を切った。
薬を一錠口の中に押しやる。
…やっぱり味なんかしない薬だ。
涙が一滴口の中に入る。
塩味を少し感じた。
…ゆっくりと飲みこむ。
!?
その時、ほんの一瞬、しかし確かに私はいままで経験したことのない苦みを感じた。
それは本当に一瞬のことであり、脳の誤作動と言ってしまえばそれまでかもしれないが、それでも確かに感じたのだ。
良かった。
これで私も救われた。
その安心感から少しづつ意識がブラックアウトしていくのを感じ取った。
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