第15話 郷社大棚杉山神社

 石碑建立の年、恵吉はもう一つの大事業である『大棚根元考糺録おおだなこんげんこういんろく』を書き上げる。この自らのふるさとへの思いを凝縮させた畢生の書の中の序文で恵吉は同書脱稿への思いを以下の短歌風の一文に込めて述べている。


 燈台の元くらきを嘆きつつ明かす光りは蛍なりけり

 

 国をあげて尊王とか攘夷とか過激な思想が横行し始めた時代、急速に膨張し現実化する異国からの外圧とともに新しい国家論に基づく観念論が、農村単位の古い伝統や信仰心に基づくモラルや価値観を怒涛のように押し流そうとしていた。そんな一部の特権階級のヒステリックな気分だけが引っ掻き回す世の中に恵吉は、警鐘を鳴らし、少しでも世の中のために役立ちたいと思ったに違いない。それには、もう一度自分たちの来し方と立つ瀬を明らかにし、自分たちが日々すべきことを見つめなおすことしかないと思ったのであろう。


 この書と大棚杉山神社の石碑は、はたから見れば蛍の光程度のはかない行為であったかもしれないが、栗原恵吉という一書生農民にしてみれば、きっと時代に対する精一杯のアンチテーゼだったのだ。


 時は流れ、明治四年、明治政府は延喜式以来となるあらたな社格制度を布告した。その結果、都筑郡の神社は郷社、村社、無格社に分けられるが、大棚杉山社はその中では最高位の郷社の指定を明治六年に受ける。郷社に列格した神社は、現在の横浜市の枠でくくるとわずか八社のみであり、杉山神社としては大棚社の他に西八朔社と吉田社の二社のみだった。しかし同じように有力論社として知られる茅ヶ崎社や勝田社は郷社格を与えらず村社となった。


 明治二十二年、大棚村は牛久保村、茅ヶ崎村、山田村、勝田村の五村と合併して中川村となる。晴れて大棚杉山神社は中川村唯一の郷社として中川村村民の尊崇を受けることとなった。


 郷社と村社では主管行政機関に違いがある。もちろん明治になっても基本的に氏子中心に各神社は運営されるのだが、形式上村社は村役場、郷社はその上位行政機関である郡役場が管理責任を負うことになった。象徴的なイベントとして例祭や新嘗祭にいなめさいの折、村社が村長から幣帛へいはくを供されるの対して郷社の場合は郡から幣帛を受けた。郷社大棚杉山神社の場合、都筑郡の行政長である部長みずからが幣帛供進使となって、社殿に幣帛を奉納することもあったらしい。幣帛とは、古来から続く布や麻などからなる捧げ物である。それのみに価値があったとは思えないが、お上意識がまだ根強く残っていた時代、おらが村の社にわざわざお上が詣でるというのはとても名誉なことであり、決して阻喪があってはならない畏れ多い儀式だったはずである。そのため中川村でも例祭が近づくと供進使を迎えるために氏子だけでなく村をあげてのものものしい準備に追われた。そのことが氏子中の自尊心をくすぐり例祭の時期がくるとその子供にいたるまで皆鼻高々であったらしい。


 そして、大棚杉山神社は氏子たちの誇りとなった。のみならず村は神社を中心に文明開化をむかえ、にぎわいを見せた。大棚村の小学校や村役場も杉山神社の近くにできた。恵吉の思いは満願成就したといえるだろう。


 明治四十四年、その五年前に発令された一村一社令により吾妻神社(在中耕地なかごうち)、神明社(在大塚)、八幡社(在中村)の村内無格社が杉山神社に合祀された。ちなみに今も境内に残る第六天社はそれ以前から杉山神社に合祀されていたらしい。また記録によれば、少なくとも明治の初めまでは天正の水帳に祭田の場所として記載されている稲荷神社も境内に合祀されていたようだ。


 ――このあたりから村人の価値観における利便性と伝統文化の間のバランスが微妙に狂い始める。それはおそらく恵吉の考える根元が、ないがしろにされはじめたことに端を発しているように思われてならない。


 そして翌明治四十五年、とうとう恵吉が恐れていたことが現実に起きる。大棚杉山神社は、かつて藤兵衛らが画策したように杉ノ森から村の中央にある上大棚の大塚(現在の横浜歴史博物館あたり)に移転したのだ。もちろん恵吉はこの世にいない。もし生きていたら、たとえ病床にあろうと体を張って反対したことだろう。しかし、村人は無邪気に花火や芝居小屋に興じて盛大にその遷宮を祝ったようだ。


 杉ノ森の跡地は大正四年に養蚕模範指定地区を目指す大棚青年会の手により、桑畑にされた。その時点で杉ノ森を覆っていた杉林の多くが伐採されたようだ。その後青年会は採算の見込めない養蚕に見切りをつけ、食料確保のために竹の植林を行ったらしい。残念ながら時代が進むにつれ経済至上主義の波は中川村の牧歌的な古き良き景色や価値観も根こそぎ変えてしまったのかもしれない。そして今、その跡地には大棚町公民館が建ち、その裏に小さな鳥居と石碑がひっそり立っている。さらに昭和のニュータウン開発によって杉ノ森の半分ちかくは区画整理され、住宅地へと変貌した。ゆえに往古の杉ノ森の名残をとどめる風景はごくわずかになっている。


 やがて時代は昭和となる。昭和十四年に中川村は横浜市港北区に編入された。それに伴い、神社の所在地が上大棚から中川に改称される。そのころから徐々に、中川・大棚杉山神社と呼ばれるようになったと思われる。


 そして戦後、明治の社格制度そのものが廃止されると大棚杉山神社はただの神社となった。恵吉が幕末にかけた式社の魔法は、ここでほぼ消えてしまった。その魔法の有効期間はわずか百年弱だったが、激動の時代背景を考えれば、むしろよく持ったというべきではないだろうか。


 それ以降、中川・大棚杉山神社は次第に荒れてゆく。


 しかし、昭和四十年代に入り港北ニュータウンの建設計画が進むと、杉山神社も整備されることになる。ただ、またも移転を余儀なくされ、昭和の末に吾妻山の西の端っこに仮遷座したあと、横浜市営地下鉄センター北の駅前の今の場所に平成四年に移転する。社殿や鳥居はその後あたらしく作り替えられたが、杉ノ森を中心に村を東西に連なっている吾妻山からもとうとう切り離され、早淵川を望むこともできぬばかりか、片側三車線の目貫道路を背に四方の眺望を大型マンションや商業施設に覆われてしまったたたずまいは、杉山神社のなりたちや恵吉たちの思いと重ねあわせると、いかにも場違いの印象を否めない。


 実に江戸時代から数えると四度目の遷宮せんぐうであった。


 今や中川・大棚杉山神社は都会の生活機能の一部になっている。その姿はさしずめ二十四時間いつでも参詣できるコンビニ神社といったところだろう。


 明治以降、公共サービスや技術の発達とともにもともと各村々の神社仏閣が担ってきた地域共同体の紐帯としての役割は、正月や秋祭りなどのイベント的な要素以外大部分が失われた。資本主義の普及は人々の生活スタイルのみならず価値観も変え、費用対効率や利便性が重要視されるようになったことで、多くの神社仏閣が統廃合された。神社仏閣は、それでも、ときおり、文明社会の暮らしの中でふとかまくびをもたげる依頼心のよりどころにさえなればよいと位置づけられるようになった。


 ならば治安がよくて、便利であれば、場所はどこにあってもいいではないか、というのが、たびたびの中川・大棚杉山神社遷宮の背景の本音ではないかと思う。しかし、村の氏神である大棚神社と菩提寺である龍福寺に身も心もささげた栗原恵吉のような価値観を持つ村人にとってみれば、自分たちの都合を優先して神社を移転させるという行いは決してゆるされるものではなかった。それはつまり、かつてその場所にあった神社への信仰を守り続けた祖先や神社を生じさせた周囲の自然環境に対する冒とくであり、それによって神社創建の本義や由緒を失うことになると考えられたからだろう。


 にもかかわらず中川・大棚杉山神社は明治から平成にかけ移転を重ねた。もちろん栗原恵吉が建てた石碑や吉野松治郎が奉納した手水鉢、そして氏子一同で寄進した式社の標榜は160年以上たった今もその境内に都会の喧騒と煤塵にまみれながらも凛としてある。それらがあるお陰でかろうじて神社の由緒が保たれているようにも見えるが、そうした遺産に目を止める人そのものが少なくなっているのも事実だろう。おそらく、恵吉自身、どうしてこのようなことになってしまったのかと夜な夜な境内に出没しては、石碑の前で腕くみしながら考えあぐねているかもしれない。

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