ぞうのはな
息を深く吸い込むと、寂しいほどうっすらとした春の匂いが肺を満たした。
あたしは薄く目を開ける。
手のひらには、白い光を蓄えた花弁が落ちてきた。
はっとして顔を上げると、大きな桜の木が立っている。
春風が、桜の花弁を巻き上げた。
雲ひとつない空は不自然に変色して、蛍光色のようなどぎつい黄色に乾いた血液のような赤色が目立つ。
現実にはありえない壊れた色彩の夕暮れ。
あたしは覚えのない寂れた公園にいた。
心臓をゆらゆらと揺らすような、静かな不穏が蔓延している。
あたしの身体を突風がすり抜けていっても、二本の鎖が真っ直ぐに下りて、座面が微動だにしないブランコがなんだか不気味だった。
あたしの頬に華奢な手を伸ばして、彼女は囁く。
現実味のない優しげな声は、脳を揺らすノイズが重なり掻き消される。
春の温もりを帯びた甘い風に揺られて揺蕩うのは、艶やかなハワイアンブルーの長髪だ。
彼女は何かを言っている。
声は響いているのだろうけれど、ノイズが邪魔をしてあたしの耳にきちんと届かない。
薄紅色の唇を何度も何度も開いて、桜の香りを漂わせる。
そうだ、あたしは彼女の首に手を添えて、馬乗りになっていた。
あたしが怖々と座っているだけで、彼女の可憐な腰はこちらの身体が沈み込みそうな生ぬるい柔らかさに満ちている。
明らかに、人肌とは違った柔らかさだろう。
まるで、羊水に触れているような、そんな懐かしさと恐ろしさが混じり合う温もりだった。
ぽちゃんと沈み込んでしまえば、このまま全てがこの女に呑み込まれたら、あたしは幸福になれるのだろうか。
「こわいんですか?怯えなくても大丈夫ですよ」
これは悪い夢だ。
それも、とびきりの悪夢だろう。
彼女……春瀬沙那(はるせさな)は、あたしの髪に零れ落ちた花弁を手に取ると指先ですり潰した。
潰された桜は虹色に光る粒子になって風に吹かれてキラキラと宙を舞う。
彼女には陰が無い。
無影灯で照らされるように明るく輝いて、一瞬の曇りも陰りも無かった。
今だってあたしの方を向いて、ひどく穏やかに笑っている。
「わたしを、許せませんでしたか」
これは悪い夢だ、と何度も自分に言い聞かせる。
あたしは生前の春瀬沙那の声を覚えていない。
喋り方も、動作も、何を思って生きてきたのかさえも、知らなかった。
彼女があたしの髪留めに触れると、髪留めは瞬く間に虹色の粒子に変わり、あたしの髪は重力の重さに負けて背中へ滝のように滑り落ちる。
遠くから見たら、あたしと彼女は瓜二つの風貌だろう。
彼女は悪夢の登場人物で、あたしは早く目を覚まさないと逃げられない。
分かっているけれど、問いかけてしまう。
「ママは、どうしてここにいるの」
あたしの声は震えて、舌もざらついている。
「それは、そうですね……わたしは愛娘のショコラが宝物で、だーいすきだからですよー」
「うそだ」
「……まあ、」
「ショコラだってそれくらい知ってるよ。沢山の人間が狂うほど愛してくれるのに、ママはずっと変わらないんだ。秀典さんも言ってた。ママはずっと自分のことしか考えてない。いつもなにか別のものを見てる。あたしを産んでも変われなかった」
彼女は何も答えずに、形の良い唇は優雅に弧を描いていた。
ガーネットのような双眸を細めて、柔らかく魅惑的に笑っている。
きっとそうやって数々の人間を虜にしてきたのだろう。
じーんと鼻の奥が痺れるほど熱い涙が溢れて止まらない。
視界がゆらゆらと揺れて、湯気が出そうなほど顔中がどろどろになっていく。
わあわあと泣き喚くあたしを、彼女はびっくりしたように目をぱちぱちさせて見上げていた。
これは悪い夢だ、嫌と言うほど知っている。
本物の春瀬沙那はとうの昔に亡くなっていて、目の前の彼女はあたしの想像力が作り出した都合の良い夢の世界の住人だ。
「はははは」
彼女は笑った。
写真の中の作られた貞淑な微笑ではなく、思わず溢れたとばかりの明るい笑い声。
「どうしたんですか。泣かないでくださいよ。おかしな子ですねぇ」
「ママは、どうしてショコラたちを捨てたの。なんで先に死んじゃったの。ショコラと秀典さんを愛してないの」
「捨てたなんて、随分とひどい言い方ですね。二人のことは大切に思ってますよ」
あたしは涙を拭いた。
ごしごしと両手の甲で、拭っても拭っても溢れてくる。
こちらを伺うように見上げていた彼女はあたしの両手首を掴んで、自身の下腹に触れさせた。
白いワンピース越しの下腹は、羊水のようにぬるくて柔らかい。
触っていると、少し怖いけど安心する不思議な気持ちになる。
いつの間にか涙は止まっていた。
あたしの前髪をやさしく手櫛で梳かしながら、彼女はぼんやりと微笑んでいる。
かえりたいなぁ。
瞬間、下腹に触れていた両手が呑み込まれた。
「ひっ……」
異質な感触に、戦慄が全身を突き抜ける。
耳に自分の歯がカチカチと鳴る音が聞こえた。
彼女の腹を貫いたあたしの両手は、ゆっくりと赤く染っていく。
現実にしてはあまりにも異常な光景で、夢にしては生々しくぬるついた肉の手触りがする。
おそらく人間の腹の中に触れたらこんな感じなのだろうと思わずにはいられなかった。
彼女の胎内は、目眩がするほどあたたかい。
「もう、かえりたい、ですか?」
かえりたいって、どこに?
そう尋ねるより先に、あたしはゆっくりと頷いていた。
彼女が何かを呟いたが、うまく聞き取れない。
そこで、景色がぐにゃりと変わった。
木製の天井と、パステルイエローのカーテン。
窓の外は灰色で、ばらばらと雨粒のガラスに当たる音がやけに響いていた。
夏場でも無いのに全身は汗で湿っていて、パジャマが身体に張りついている。
そうか、あたしは目が覚めたんだ。
ふと手のひらに視線を落とすと、夢の中のママの感触を思い出してしまい、背筋に悪寒が走った。
胃酸が喉をせり上がってきて、吐きそうになる。
指先にこびりついたあの感触が、あたしの中でいつまでも消えてくれない。
あたしはベッドサイドテーブルの上に手を伸ばし、ミネラルウォーターのペットボトルを掴むと、蓋を開けてごくごくと喉を鳴らして飲む。
机の上の置き時計は、午前十時を回っている。
唇から零れた水を袖で拭い、ベッドから降りた。
姿見鏡を見れば、いつだってママの生き写しのようなあたしが映っている。
個性すら全て呑み込まれてしまったかのように、そっくりなかんばせが。
▼ E N D
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