春先地獄で賢く君と心中
ハビィ(ハンネ変えた。)
本編
15、10、15、??。
音楽をはじめたきっかけは、よくおぼえていない。
廊下を歩いた先にある扉を開けると、我が家にしては広く開けた空間に、一台のグランドピアノがあった。
カーテンは閉められていて、部屋は薄暗い。
僕の足は自然にピアノへと吸い寄せられた。
鍵盤の蓋を開くと、白と黒がずらりと整列している。
僕は椅子に座って、伸ばした指先で適当な白鍵を押した。
それから目を閉じ、味わうように耳を澄ませ、演奏を始める。
優しく切ないピアノの声が、室内に霧散して溶けていく。
そうやってほとんど無意識にピアノを弾いていたときは、それまで自分がなにを考えていたかも忘れてしまう。
楽器に触れているときは世界で一番自然に呼吸が出来て、生きようとしなくても生きられるし、求めなくても幸福になれた。
春の日差しみたいに穏やかで、あたたかい。
何かを想っていたはずなのに、指先が鍵盤を離れる瞬間、耳を掠める寂しさと共にどこかに飛んでいってしまう。
小さく息を吐くと、扉をコンコンと叩かれた。
ノックの音の正体は予想できる。
「入っていいよ」
僕が穏やかに声をかけると、ゆっくり扉が開く。
ターコイズを溶かして編み込んだような髪を揺らして、沙那(さな)は部屋に足を踏み入れる。
沙那は十歳、僕の五歳年下の実妹だ。
名前を呼ぶと沙那の瞳は潤み、頬には赤みが差す。
無垢がかたちを成していた。
フリルたっぷりの白いワンピースを纏う姿は愛らしいの一言に尽きる。
「にいさまの演奏、とってもすてきです。わたし、だいすきです」
胸の前で両手を組み、可憐な笑みを浮かべる。
手招きをすると、すすすっと僕に近寄って来た。
絶対に僕が受け入れてくれると確信しきった様子で沙那は擦り寄って甘えてくる。
「にいさま、にいさまぁ。わたし、にいさまの音楽がだいすきです。世界でいちばん愛しています」
実兄に向けるには蕩けすぎた声色。
彼女の胸に宿る恋情には気づいていたけれど、不思議と嫌悪感は湧かなかったのだ。
それは僕の沙那が肉親の贔屓目を抜いてみても、うつくしい少女だったからかもしれないし、僕も沙那のことを憎からず思っていたからかもしれない。
「朝食に呼びに来たんじゃないのか?まさか忘れてるんじゃないだろうね」
「あ、そうでした!にいさま、朝食の準備ができています!なんだって今日はピアノのコンクール!にいさまの晴れ舞台ですもの!お母様も喜んでいます」
「……母さんが?珍しい。帰ってたのか、気づかなかった」
「もうっ、本当ににいさまは音楽以外に関心がないですね!」
沙那は腰に両手を当てて、サクランボのようなつるりとした唇を尖らせた。
しかし、やがて怒ってみたところで相手が僕なら仕方がないとばかりに笑って、沙那は僕の手を引いて部屋を出る。
廊下の空気は、部屋の中よりも冷え込んでいた。
スリッパを履いていないため、素足から床のひんやりとした冷たさが伝達される。
リビングに行くと、ダイニングテーブルには既に朝食が並んでいた。
ベーコンエッグにポテトサラダ、トーストと牛乳。
いつもの朝食だ、特に代わり映えはない。
数週間ぶりに認識した母さんは、テキパキと家事をこなしている。
溜まった洗濯物を干したり、掃除機をかけたりしていた。なんだか忙しない。
父さんは新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるが、手足は小刻みに揺れてソワソワと落ち着かない様子だ。
椅子を引いて先に沙那を座らせてから、テーブルを挟んで僕は向かい合って座る。
沙那と一緒に手を合わせ、いただきますをした。
猫をかたどった箸置きから箸を取る。
ポテトサラダを口にするが、特に何も感じなかった。いつもそうだ。
僕は食事をエネルギー補給としか認識できない。
いつも通り、ちらちらと沙那を見ながら食べた。
朝食を終えると、手を合わせてご馳走様をする。
沙那は自分の食器と一緒に僕の分の食器も流し台に持っていき、洗い始めた。
左向きのキッチンには、朝陽があふれるように流れ込んでいる。
沙那が立つと、キッチンさえ城の広いホールの一部になったようで、慣れた手つきで家事をこなす姿はくるくると踊るお姫様みたいだった。
奏者になった自分を夢想しながら、僕はピアノの鍵盤に見立ててテーブルを叩く。
「にいさま、必ず一番になってくださいね。なんたって、わたしの愛した音楽だもの」
ああ、君が、沙那が望むならいくらでも。
「沙那、あまり征一(せいいち)さんを緊張させるようなことを言っては駄目でしょ」
母さんが沙那を咎めるように言う。
別に緊張なんてしない。ただいつも通りピアノを演奏するだけだ。
ちらりと壁際に視線を向けると、そこにはいままで僕が受賞してきた表彰状やトロフィーが飾られている。
こんなに沢山あって、邪魔じゃないのか?
僕がリビングに飾るなら、無機質でつまらないトロフィーより沙那の描いた絵がいい。
沙那は、花や妖精に例えられる絢爛な少女だ。
目に入れても痛くないほど可愛い。
それは十年の月日が経過して、僕がプロのピアニストになって、沙那が成人しても変わらなかった。
僕がドイツに留学してからは直接会う機会はぐんと減ったものの、沙那は毎月必ず手紙をよこして僕の音楽を誰よりも好きだと言う。
彼女は僕を愛している、一番のファンだ。
数年ぶりに帰国した僕は、真っ先に沙那に会いに行った。
空港で再会した沙那は可憐で愛らしい、子供のように無垢で、とびきりうつくしい女性に成長していた。
実家をたずねたが、両親はちょうど出かけていたらしい。
日が暮れても帰って来る気配はなく、僕は土産のシャンパンを開けた。
調度品が少なく、余計に広く見える自室で、沙那は頬を林檎みたいに紅潮させたまま、ベッドに腰かける僕の手をじっと見つめている。
夜中に部屋で男女が二人っきり、僕は少し考えて自分の飲みかけのシャンパングラスを沙那に渡した。
沙那はにっこりと笑って、その金色の液体を吸い込んでいく。
贅沢な酒に慣れた生意気な白い喉。
火照った肌が、アルコールによって上下する。
それから、あろうことか、力なく崩れ落ちて、僕に抱きついてきたのだ。
桜色の爪が並ぶ白魚のような手が、僕の二の腕から手首を擽るように柔く撫でる。
沙那は睫毛を躍らせ、妖艶な視線を僕に向けた。
弛緩した唇をねっとりと動かし、沙那は囁く。
ワンピースの胸もとがはだけて、雪のように白い肌があらわになる。
「わたし、どうしても、ほしいの。もう、耐えられないの、にいさま……」
その言葉に、僕は。
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