第38話 決断

 リディアが闘技場から連行された後、ロイは、すぐにティナをエドに預け、リディアの無実を訴えるために、アレンと共にトラキア城へ行ったが、もはやアレンすら城への入城を許可されなくなっていた。

 「すでにラモンが元老たちを手玉に取って、実権を握ってしまったようだな」

 固く閉ざされた城門の前で、ロイが肩を落としながら言った。

 「だとすると、リディアをゴルドバ将軍の殺害容疑で拘束したラモンが次に狙うのは、メテルかもしれないな」

 アレンがそう呟くと、二人は顔を見合わせた。

 「どうすればいいのだ…」

 グランダル軍が全軍を挙げて攻め込んで来ようというときに、ステイシア姫がグランダル国に足止めされ、ゴルドバ将軍が命を落とし、リディアまでが拘束されてしまい、次はメテルが危険にさらされている。トラキア公国が内部から崩壊していく状況を、指をくわえて見ている事しかできないロイは、自分自身の無力さに苛立ちを覚えた。

 「とにかく、いったん出直して、どうすべきかを考えるしかないな」

 アレンとロイは、仕方なく、エドが待つロイの学舎へと馬を進めた。


 学舎に戻ると、アバトが出迎えてくれたが、学舎の中は子供たちの歓喜の声で騒がしかった。

 「ロイが帰って来たよ!」

 アバトが叫び声を上げた。何やら、とても興奮したような声だった。

 「どうしたんだい、アバト。そんなに興奮して」

 アバトは、ロイの質問には答えずに、にやにやした顔でロイの手を引いて、急いで客間へと連れて行った。

 そこには、クロードを含めた元近衛兵たちの姿があった。八名もの近衛兵たちが、憧れの眼差しを向ける子供たちに囲まれながら、ロイの帰りを待っていたのである。

 「師団長殿、失礼とは存じながらも、こちらで師団長殿のお帰りをお待ちしておりました」

 クロードが立ち上がり、ロイに丁寧に一礼した。

 「お前たち、どうしたのだ?」

 ロイは、驚いて近衛兵たちを見廻した。皆、かつての近衛兵時代の鎧をまとい、今にも出陣しようというで立ちで座っていたからである。

 「さあ、さあ、みんな、ロイは大事なお話があるから、いつもの学習室へ行ってくれ」

 エドが、手を叩きながら声を上げて、子供たちに部屋を移るように指示すると、子供たちは、渋々言うことを聞いて部屋を出たが、アバトは、ロイたちの話を聞きたいと言い張った。

 「ロイは、どんな話があるんだい?」

 アバトが、大人の話に首を突っ込むように尋ねたが、エドは、アバトには関係ないと言って、無理やりアバトを学習室へと連れて行った。

 アレンも、ロイのかつての部下たちが、ロイの学舎でロイの帰りを待っていたのを見て驚いたが、彼らの目的をすぐに悟り、黙って椅子に腰を下ろした。

 「師団長殿、すでにご存知かもしれませんが、トラキア軍の最高指揮官であるゴルドバ将軍が、闘技場で命を落としてしまわれました」

 クロードが、無念そうな声で言った。

 「そして、将軍のいなくなった今、ラモンがトラキア軍の実権を握り、元老をたぶらかして、ラモンにとって邪魔な存在となるメテル様のお命を狙っています。残念ながら、ステイシア姫は、グランダルに足止めされてトラキアに帰国できない状態で、トラキアの第二公女のリディア様も、ラモンによって、将軍殺害の罪を着せられて投獄されてしまい、身動きできない状態です。国の指導者のいなくなってしまったトラキアは、このままではもう存続できなくなってしまいます」

 クロードの言葉は、国を愛する者の心の底からの思いとしてロイに訴えかけていた。

 「もしや、お前たちは、ステイシア姫とリディアを救出に行こうというのか?」

 ロイは、クロードの意志を察したかのように尋ねた。

 「はい。アマラ神殿が崩壊してしまった後、その警護の任を解かれた我々は、もう用無しのくずのように扱われ、軍を除隊させられてしまいました。しかし、私は、祖国が危機に直面している今こそ、立ち上がらなければならないと考え、かつての近衛兵の仲間を集めました。我々は、二手ふたてに分かれて、ステイシア姫とリディア様、そしてメテル様をお救いするつもりです」

 クロードの言葉には、力がこもっていた。命を賭けて、近衛兵としての最後の任務を全うする覚悟なのだと、ロイにも分かった。

 「それで、ここへ来たというのか」

 「はい。師団長殿と共に、ステイシア姫の救出にグランダルへ向かうつもりで参りました。どうか、師団長殿のお力をお貸しください」

 クロードが真剣な眼差しでロイを見つめながら訴えると、他の部下たちも立ち上がり、口をそろえてロイに訴えた。

 ロイは、迷った。ステイシア姫を救うために、独りでもグランダルに乗り込むつもりで、これまでずっと機会を伺っていたので、クロードの申し出は、ロイにとってはまたとない機会ではあったが、リディアのことと、学舎の子供たちのことが心配だったため、ロイは即答できずに悩んだ。

 「ロイ、子供たちのことなら心配しなくても大丈夫だよ」

 子供たちを学習室に連れて行った後、客間に戻ってきたエドが、クロードの話を聞いて、ロイに迷うことはないと言った。

 「どういうことだい?」

 ロイには、エドの意図が分からなかった。

 「子供たちの面倒を見てくれる人を雇ったんだよ」

 エドの答えに、ロイは驚いた。学舎の運営は軌道に乗って順調ではあったが、決して人を雇えるほどの余裕があったわけではなかったからである。

 「人を雇った?どういうことだい?そもそも、そんな金をどうしたんだい?」

 「賭けに勝ったんだよ」

 エドの答えは、彼の口から出た言葉とは思えないようなものだった。

 「おい、おい、生物の研究のことしか頭になかったお前が、博打ばくちなんてするようになってしまったのかい?」

 アレンが驚いたように言った。

 「賭けといっても、闘技試合の賭けさつを買ったのさ。私も、このまま一生、生物研究所で生物の研究をするだけで終わる人生が何だかむなしく感じてしまってね。ここらあたりで、自分の夢に残りの人生を賭けてみたくなったので、その資金集めにと思い、これまでに貯めた所持金の半分を使って、配当率の一番高かったリディアの賭け札を買ってみたんだよ。すると、どうだい。彼女は、グスタル軍曹やアシュベル少将に勝っただけでなく、ゴルドバ将軍にまで勝ってしまったじゃないか。ゴルドバ将軍との試合については、不慮の事故が起きたため、当初は払戻金はないことに決まったのだけれど、少数だがリディアに賭けていた人たちが不満を訴えたため、配当金が支払われることになったんだ。私は、三試合ともリディアに賭けていたから、思いがけず、大金が転がり込んだんだよ」

 エドは、これまで見たこともないような満面の笑みを浮かべていた。

 「人生を賭けてみたくなったエドの夢って、何なんだい?」

 エドが生物の研究以外に夢を持っていたなどとは知らなかったロイが、驚いて尋ねた。

 「私は、これまでずっと、生物の研究をするかたわら、鳥のように空を飛ぶことを夢見て、実験を重ねてきたのだけれど、いずれもすべてが失敗に終わっていたんだ。だけど、先日、霞寂カジャクという初老の男が学舎に来ただろ?彼が言ったんだよ。ランドルの森の中の辺境の地に暮らす糞樽フンダルという民族が、空を飛ぶ乗り物を持っているとね」

 「空を飛ぶ乗り物?」

 「ああ。それは、モルスタンという未知の気体を使った乗り物だそうなんだ。私は、その乗り物の原理を教わって、自分で実際にそれを作って空を飛んでみたいんだ。そのための資金が集まったので、私は、ランドルの森に行こうと思っている。ロイが、ステイシア姫の救出のために、いずれグランダルへ向かうだろうことは私には分かっていた。リディアがこの学舎にやってきて、グランダルに行くために、ランドルの森を通り抜ける方法を探っていたときから、ロイが彼女と一緒にグランダルへ行くことになるだろうと、薄々感じていたんだ。でも、きっと学舎の子供たちを残していくわけにはいかないと悩むことは分かっていたから、大金が手に入った今が、ロイにとっても、私にとっても、これまでずっと胸に抱いていた思いを実現するときなんじゃないかと思って、子供たちの世話をしてくれる人を雇ったんだよ。子供たちの世話を他人ひとに託すのは心苦しいけれど、学舎の運営が軌道に乗って順調な今なら、私たちがいなくても、子供たちはしっかりと勉学に励んで、立派な大人になってくれると思うよ」

 ロイは、エドがそこまで考えてくれていたなど思いもよらず、エドの心遣いに胸が熱くなった。

 「決まったな、ロイ」

 アレンは立ち上がって、ロイの肩を叩いた。

 ロイとエドの話を聞いていた近衛兵たちも、喜びの笑みを浮かべながらロイを見つめた。

 「では、どのようにステイシア姫とリディア様、そしてメテル様を救出するかという話に入りましょう」

 クロードが話題を移そうとすると、誰かが学舎の戸を叩く音が聞こえた。

 日が沈みかけ始めたこんな時間に、誰だろうと思い、ロイが戸口へ行って戸を開けると、そこにはリディアが立っていた。

 「ご無事だったのですか?」

 ロイは、ちょうど今、リディアをどのように助け出すかについて話し合おうとしていた矢先にリディアが現れたので、度重なる幸運に、幸先さいさきの良さを感じずにはいられなかった。

 リディアも、近衛兵たちと同じように、今にも出陣しようとしているかのように、鎧に身を包み、腰に剣を帯びていた。

 リディアの後ろには、数人の従者が待機しているようだった。

 リディアは、地下牢を脱出したいきさつを簡単にロイに説明すると、これからグランダルに向かうので、ティナを連れて行きたいと言った。

 「ティナをですか?まさか、ティナに現れた美璃碧姫の人格に、ランドルの森の道案内をさせるおつもりですか?」

 リディアは頷いた。

 「臥神によると、美璃碧ミリア姫は、ランドルの森の妖しげな現象のからくりをすべて知っているのだそうだ。そして、臥神が用意するようにと指示した、この巻物に記載されているものを持っていけば、ランドルの森を抜けられるというのだ。そこで、メテルに頼んで、必要な物資と、それらを運ばせる従者数人を用意してもらったのだ」

 「メテル様は、まだご無事なのですね?」

 ロイが、リディアの話を聞いて安堵すると、リディアは、臥神からもらった巻物をロイに渡した。

 ロイが、渡された巻物をゆっくりと開くと、そこには次のように書かれていた。


妖術攻略の必需品

ひとつ煙霧草エンムソウ 《ウモール》 および火打石

一、散水車 《ただし、霞寂カジャクが用意したものを運ぶべし》


妖術への対処法

 一、地龍チリュウ ― 煙霧草エンムソウに着火していぶし出すべし

 一、甡龍シンリュウ ― 肌の露出を避けて、散水車で撃退すべし

 一、火龍ヒリュウ ― 森の中へ逃げ込むべし

 一、水龍スイリュウ ― 勝算なし。驟雨しゅううが発生した場合は、迅速に渡河とか完遂かんすいすべし


留意

グランダルに到着後、対岸のトラキア公国の狼煙のろしを合図に、高台たかだいに速やかに退避すべし



 「これは、臥神が書いたものなのですか?」

 ロイは、記載された内容があまり理解できずに、リディアに尋ねた。

 リディアは頷いた。

 「恐らく、美璃碧と一緒にランドルの森に入り、その巻物に書かれている通りにすれば、無事に森を通り抜けることができるのであろう」

 リディアは、そう言うと、ティナが中にいないかどうかを確かめるように視線を移して、学舎の中を覗き込んだ。

 「どうしてもティナを連れて行きたいのですか?」

 リディアは、申し訳なさそうに頷いた。

 「美璃碧ミリア姫も美土奴国への帰国を望んでいるではないか。もう、ティナは、ティナではないのだ。美璃碧姫となってしまったティナは、この国のことなど何も分からぬ。家族もいなければ、知人もいない。そんなあの子を、このままトラキアに置いていく方が、残酷なのではないのか?」

リディアの言葉を、ロイは否定できずに迷った。

 「私がティナを連れて行かなかったとしても、いずれ美土奴の僧侶たちが、美璃碧姫の転生者であるティナを、美土奴へと連れて行ってしまうであろう。ならば、ティナを私に預けてはくれぬか。その代わり、ティナの助けを借りて私がランドルの森を無事に抜け、グランダルに潜入できたあかつきにはトラキアの姫を救出することを約束しよう」

 リディアは、自分の異父の姉であるステイシアのことも気にかけていたようだった。

 ロイは、しばらく黙って考えた。

 確かに、リディアの言う通りかもしれないと、ロイは思った。このままティナをここに残して、ステイシア姫の救出のために、自分がグランダル国に向かったとしたら、ティナはどうなるのだ?美璃碧姫となってしまったティナが、言葉も生活習慣も美土奴国とは異なり、親も兄弟も知人すらもいないこの国で、はたしてやっていけるのだろうかと、ロイは心の中で自問しながら考えた。

 そして、ティナを連れて行かなければ、ランドルの森を抜けることが難しいのも事実である。リディアがクベス王の暗殺に失敗して、ランドルの森に逃げ込んだときと同じ恐怖を味わうことになるだろう。たとえ、妖術によって引き起こされているとされる現象の一つ一つに、からくりがあるとは言っても、そのからくりが分からなければ、対処するのは困難で、ランドルの森を抜けられなければ、グランダル国に行くことも出来ず、ステイシア姫を救出することも出来ないのである。

 ロイには、さらに、もう一つ懸念していることがあった。自分がトラキアに残ったとしても、どうにもならないことであることは分かってはいたが、ゴルドバ将軍を失ってしまったトラキアが、迫りくるグランダルの海軍にどう応戦すべきかということである。もうトラキアには、軍全体を統率して指揮し、命にかえても国を護ろうという意志のある指揮官がいないのである。

 すると、ロイの思いを察したかのように、リディアがおもむろに懐からあるものを取り出した。

 「これは、メテルから預かったステイシア姫からの書簡だ。グランダルから伝書鳩を飛ばしてメテルに送ったらしい」

 ロイが手渡された書簡を開いて目を通すと、リディアが言った。

 「その書簡には、ステイシア姫の無事が記載されている。グランダルのレイ王子が、ステイシア姫を国外に連れだす手筈てはずを整えてくれているそうだ。明日の夜明け頃までには、グランダル国を出国し、ランドルの森に入るので、それまでに近衛師団の援軍をよこしてほしいとのことだ」

 「そうですか。姫様が無事でいてくださってなによりです。しかし、なぜ、グランダル国の王子が、トラキアの姫に力を貸すようなことをするのでしょうか」

 「詳しいことは後だ。レイ王子によると、グランダル軍は、もうじきトラキアに攻め込んで来るらしい。先遣隊は海軍ではなく、空軍なのだそうだ」

 「空軍?空で戦う軍隊ということですか?」

 「どうやら、そうらしい。グランダルは、艦隊でトラキアに攻め込む前に、トラキアへの上陸手段を確保するために、グルジェフ=ベルンスキーという科学者が開発した空を飛ぶ乗り物でトラキアに攻め込み、崖上がいじょう崖下がいかの海岸を占拠し、崖上から崖下へ何本もの長いつなを下ろして、後から来る海軍の船に乗船させた兵士たちを上陸させる計画なのだそうだ。ステイシア姫は、今回ばかりは、全軍を挙げて押し寄せるグランダル軍には太刀打ちできないであろうと判断し、霞寂カジャクという人物を探し、その人物に、聡瞑ソウメイという僧侶からの書簡を渡して、臥神という人物の協力を仰ぐようにと指示している。やはり、臥神の力を借りるほかはないようだ」

 「グランダル軍は、空を飛ぶ乗り物まで手にしていたのですか…。それでは、三方を崖に囲まれた難攻不落と呼ばれたトラキアといえど、防戦するのは難しいかもしれませんね…」

 ロイは、これまで国内を戦場にすることを許したことは一度もなかったトラキアが、初めて戦場と化し、これまでにないほどのおびただしい数の国民が、命を落とすことになりかねない事態に、戦慄の恐怖を感じずにはいられなかった。

 「とにかく、グランダル軍が攻めてくる日は近い。私は、これからティナを連れて、グランダルに向かうつもりだ。トラキアの事が心配であれば、その書簡に書かれているように、ステイシア姫の指示に従って臥神の力を借りることだな」

 リディアは、メテルから預かった、聡瞑という僧侶からの書簡もロイに手渡した。

 「臥神は、今、どうしているのですか?」

 「地下牢から脱出した後に、すぐに別れてしまったので分からぬが、奴は、迫りくるグランダル軍をせん滅する計画を遂行中のようだ」

 ロイは、やはり臥神は、計画通りに事を着々と進めているのだと感じ、もはやトラキアの運命は、臥神に託すしかないのだろうかと考え始めた。

 「ところで、ティナは、今どこにいるのだ?」

 リディアは、ティナを探そうと、ロイの許可なく学舎の中に入ろうとした。

 「待ってください。私も、あなたにお供します」

 ロイは、リディアを引きとめて言った。

 リディアは、その言葉を待っていたかのように立ち止まった。

 「では、ティナを連れて行くことを許可してくれるのか?」

 「はい。やむを得ません。エドもランドルの森に行きたいと言っているので、一緒に行ってもらいましょう。彼には、美璃碧姫との通訳をしてもらうつもりです」

 ロイは、客間に戻って、クロードに、リディアから渡された聡瞑からの書簡を手渡すと、トラキアに残ってメテルを救出する予定の近衛兵たちに、霞寂を探し出してその書簡を渡し、臥神の協力を仰ぐように指示するように命じた。そして、残りの近衛兵たちと、これからグランダルへ向けて出陣すると告げた。


 その頃、トラキアの海沿いの崖のふちに築かれた防壁路では、ラモンの指揮で、トラキア軍が臨戦態勢を整えていた。

 西側の空から、いくつかの飛行物体がトラキアを目指して飛んでくるのが発見されたのである。それは、ラモンが臥神に初めて会ったときに見た気球という乗り物と同じもののようだった。グランダル軍が遂に攻め込んで来たのである。

 しかし、闇夜に紛れて浮遊する気球は、臥神が乗っていた気球とは異なっていた。ラモンが見た臥神の気球は、球体の下部で火が燃やされ、球体自体が淡く輝いて見えたが、グランダル軍の気球には火は使われていないようだった。そのため、夜空を浮遊していても、すぐには発見されずにトラキアに近づくことが出来たのであった。

 ラモンは、すぐさま弓兵きゅうへい隊に指示し、矢で気球を射落とそうと試みた。しかし、気球の浮遊する高度が高すぎて、矢は全く届かなかった。

 グランダル軍の気球は、高度を保ちながら、ゆっくりと防壁路に近づき、上空から油を次々とき始めた。

 「火攻めだ!全員退避!」

 ラモンが大声を上げて、防壁路に配置していた兵士たちに指示を出すと、上空の気球から、火の着いた松明たいまつが投下された。

 瞬時に当たり一面が火の海と化した。

 すると、近くの無人島に潜伏していた海軍中隊の船団が現れ、トラキアの崖下がいかの海岸に向かって進み始めた。

 「何だと!?すでにあの島がグランダル軍に占拠されていたのか!?」

 ラモンは、アマラ神殿でのグランダル軍との戦闘や、国の一大行事である闘技試合、ゴルドバ将軍の葬儀などで、軍の関心がそれらに向けられている間に、重要な防衛拠点の一つである無人島がすでにグランダル軍に占拠されていたことに、今になって初めて気が付いた。

 しかし、それは、後の祭りであった。

 降下し始めた一部の気球から、長いつなが海軍兵士たちに向かって下ろされ、船上で長い縄梯子なわばしごの先端を持った兵士が、その綱につかまり、吊り上げられていった。

 その兵士が、縄梯子の先端を崖に固定すると、海岸に上陸した海軍兵士たちが、縄梯子を登り始めた。他の数機の気球から吊り上げられた兵士たちも、同様に、次々と崖に縄梯子を掛けていき、それを崖の頂上まで繰り返していった。

 崖下がいかの海岸では、警護にあたるトラキア兵と、人海戦術で来るグランダル軍の兵士たちとの戦闘がすでに行われていた。

 トラキア軍は、燃え盛る火の海を避けながらも、崖の上から投石を行い、縄梯子を登って上陸しようとするグランダル兵に応戦した。

 しかし、一旦縄梯子が崖に掛けられてしまうと、投石に当たって落下して命を落とす兵士たちの数よりも、縄梯子をつたって崖を登ってくる兵士の数の方が圧倒的に多く、グランダル兵は、なだれ込む軍隊蟻のように、次々に上陸してトラキア軍に攻撃し始めた。

ラモンには、なす術がなかった。

 「ラモン参謀、ここはひとまず退却して、第二のとりでで態勢を整えましょう」

 次々と襲いかかるグランダル兵に応戦していたアシュベル少将が、ラモンに駆け寄って進言し、部下に用意させた馬にラモンを乗せて退避させ、退却の合図の太鼓を打ち鳴らすように部下に指示した。

 崖の上陸路を確保し始めたグランダル軍は、上空の残りの気球も降下させ始め、さらに縄梯子を掛けていった。


 「臥神殿、気球が高度を下げました。今が矢を射る時かと」

 崖の上の防壁路の陰に身を潜めて、いしゆみを構えて待機していた従者たちの一人が、気球に狙いを定めながら射撃開始の合図を待った。

 「まだだ。南南東の風がもうじき吹く。それまでは待つのだ」

 臥神は、羽扇うせんを扇ぎながら、火矢を射る最適の時期を待っていた。

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