想念の鎧 ― 忍び寄るニームとの戦い ―

@satoru_rinjo

妖術に守られた森

第1話 敗走

 陰湿いんしつな空気の漂う暗く深い夜の森の中を、一人の少女が疲れ果てた様子で馬にまたがり彷徨さまよい歩いていた。彼女の名はリディア。母親を殺したクベス王を討つためにグランダル王国の城に独りで潜入したが、王の暗殺計画が事前に察知されていたのか暗殺は失敗に終わり、クベス王の放った討手うってに追われていた。

 幼少の頃より武術や戦術をたたき込まれ、戦場で生き残るためのあらゆる手段を学んだ彼女にとって、多勢たぜいに追われる状況下でも、応戦しながら逃げ切ることは決して難しいことではなかったが、グランダルの兵は執拗しつように彼女を追い回し、たった一人の若い娘を追うには多すぎると思われるほどの数で彼女を追い続けたため、さすがの彼女も体力が持たず、馬をせて美土奴ミドーヌと呼ばれる隣国の東洋の国に逃げ込んだのであった。

 しかし、隣国とはいえ、そこは周辺の西洋諸国の人々がめったに足を踏み入れることのない未知の国であった。かつては、美土奴ミドーヌ国から許された、森の中の交易路や森の外れの海岸沿いの交易路を、商人が他国との交易のために使うことはあったが、美土奴国を覆い隠すようにしてグランダル王国とトラキア公国の間に広がる「ランドルの森」と呼ばれる森の奥にまで入ることは決してなかった。もし道を誤り、森の奥に入り込んでしまうと、森に住む魔物に襲われて命を落とすか、生きて帰って来られたとしても、精神に異常をきたしてしまうと信じられていたからである。リディアもそのことは知っていたが、だからこそ討手うってくのには打ってつけであり、そこに身を隠すしかないと考え、森の中に逃げ込んだのである。

 リディアは、ランドルの森を抜けて南東に向かい、生まれ育ったグランダル王国を離れて、母親の故国であるトラキア公国を目指すつもりであったが、グランダルの討手を振りきった後も安堵あんどは出来なかった。意を決して魔物が住むと言われる森の中に逃げ込んだものの、もし本当に魔物のような未知の怪物に遭遇したとしたら、どのように戦えばよいのか分からなかったからである。彼女の学んだ武術、戦術は、人間を敵と想定したものであり、魔物を想定したものではなかったため、彼女の持つ武具で太刀たち打ち出来るのか、太刀打ち出来ない場合、この不気味な森を守ると言われる魔物から逃げ切ることが出来るのか、想像すると不安がよぎるのを禁じ得なかった。

 また、美土奴ミドーヌ国には蠱業まじわざと呼ばれる妖術を使う妖術師が住んでおり、異国びとの来訪を好まず、侵入者は必ず妖術によって行く手をはばまれ、逃げ帰らぬ者は命を落としていた。これまでに何人もの商人が道を誤ってランドルの森の中に迷い込み、命を落としたことがあったため、今ではよほど稼ぎのよい交易でない限り、グランダルの商人は命をかけてまで交易路を通って交易をしようとはしなかった。しかし、商売がたきが減れば仕入れた物の価値が高まり、高く売れるとあって、欲に目がくらんだ命知らずの商人は、護衛のための傭兵を雇い、森の中の交易路を通って他国へ向かうこともあった。ときには傭兵のみならず、グランダルで名高い呪術師を雇って美土奴国に入国する商人もあったが、東洋の謎の力を操る妖術には呪術師でさえなすすべがなく、何人もの商人が命を落としていた。そのため、今では商人さえもその交易路を使うことはなくなり、森に迷い込んでしまう者はいなくなっていた。

 そんな森の中に逃げ込んだ彼女もまた、自然の脅威や魔物、あるいは妖術によって創り出された、襲いかかる得体の知れないものに苦しめられることになるのであった。


 リディアが森の中に逃げ込んでから、すでに三日が過ぎようとしていた。グランダルの討手に追われている間は気付かなかったが、森の奥へと入り込み、周囲から討手の気配が消えて初めてその森の異様さに気が付いた。未知の国の中にある闇夜の森の、暗く静まり返った独特の空気が彼女にそう感じさせていたのかもしれないが、この森は確かにこれまでに訪れたことのある他国のどの森とも違うと直感的に感じていた。

 彼女の今いる場所は、今までに見たこともない多くの植物が繁茂し、有棘ゆうきょくつる植物がく手をはばみ、周囲の視界を遮っていた。また、葉から強烈な腐臭を発している植物もあった。それが、食虫植物のように虫などを誘い込むために発している臭いなのか、あるいは、人の死肉を喰らう化け物のような植物が発するものなのかは、リディアには分からなかった。しかし、森の奥へ逃げ込むにつれてグランダルの討手の追跡が止んだことを考えると、入ってはならない場所に入り込んでしまったということは明らかだった。


 リディアは、どの方向へ進めばよいのか思案しつつ、とりあえず、その不快な腐臭のする方向を避けながら馬をゆっくりと歩かせ、周りの状況を確認していった。

 すると、頭上から何か小さなものが落ちてきた。肩に落ちたときにはすぐには気付かなかったが、それは、ゆっくりと彼女の首筋に移動し、ぬめぬめとした不快な粘液を肌に残しながら何かが体をくねらせるように動いている。彼女はすぐにそれを手でつまんで首から離そうとしたが、すぐには離れなかったため、無理やり引き剥がした。そして、月明かりの下で目を凝らして確認すると、それは山ヒルの一種のようだった。恐らく、振動や、彼女の呼気、体温などを感知して、血を吸うために木の上から落ちてきたのだろうということは彼女にも分かったが、その後まさかそれが大量に頭上から降って来ようとは想像もできなかった。

 山ヒルは、獲物を前にして待ち切れぬかのように、次々と樹上から落ちてきた。

 兜をかぶってはいなかったため、頭上に落ちてきた山ヒルは、頭髪の中に潜り込み、肩に落ちた山ヒルは、首筋だけでなく、服の中にまで入り込んで体に付着し、血を吸い始めた。リディアは、必死にそれらを摘まんで皮膚から引き剥がしたが、あまりにも数が多すぎたため、きりがなかった。

 山ヒルは彼女の馬も襲い始めた。そのままにしておいても、しばらくすれば山ヒルは満腹になって、勝手に皮膚から離れて地面に落ちて、物陰に隠れることはリディアも知っていたが、それは彼女の知っている一般的な山ヒルのことである。美土奴国の見たこともない山ヒルが同じとは限らない。毒を持っていることもあり得ると不安を覚えたリディアは、馬を走らせ全速力でその場を駆け抜けた。

 山ヒルの来襲が止む場所までたどり着くと、先ほどの有棘ゆうきょくつる植物などのない、ややひらけた場所に出た。リディアは馬を止め、体に付着した山ヒルを一つ一つ摘まんで地面に投げ捨てた。

 服の中に入り込んだものがやっかいだった。いつまた討手に襲われるとも限らず、身の安全を確信できる場所まで逃げ切るまでは、鎧を脱ぐわけにはいかなかったからである。

 彼女の鎧は、布製の下地にいくつもの小さくて薄い金属板を縫いつけた、比較的軽量の鎧だったが、軽量の鎧といえど、防具としての実用性を保つために金属板を使用しているため、それなりの重さがあり、女であるリディアの体には決して軽いとはいえない鎧であった。これまで、そんな鎧を身にまとってグランダルの討手に応戦しながら逃げてきたのである。重さで体力を消耗してしまうのであれば、いっそのこと脱ぎ棄てたいと思っていた。それにより、万が一、敵に斬り込まれた場合は死を意味することになるかもしれないが、森の中では機動力がむしろ重要になると考え、ここからは機動性をとることにした。服の中に入り込んだ山ヒルを取り除かなければならないという理由からも、彼女は自分自身を納得させた。

 リディアは周辺を警戒しながら馬を下り、携帯していた武具と革袋などをおろし、鎧を脱ぎ棄て、体中に付着した山ヒルを取り除いた後、馬に付着した山ヒルも丁寧に摘まんで投げ捨てた。そして、改めて自分の皮膚が露出した部分を確認すると、痛みこそほとんどなかったものの、山ヒルに咬まれた跡は、鋭利な刃物で削り取られたような切り口となって、赤く腫れ、今の彼女には毒のないことを祈るしかなかった。


 リディアは、討手に発見されることを警戒して脱ぎ捨てた鎧を繁茂する草の中に隠し、再び武具と革袋を携帯し、馬にまたがった。これまでとは比べ物にならないほど身軽になり、重い鎧などかえって無い方が身を護りやすいと勇ましく馬を歩かせ始めると、今度は、背後から何やら不思議な音が聞こえてきたため振り返ると、彼女の目線よりやや高い位置から、黒い影のようなものが、木々の間を縫うようにして、ものすごい速さで彼女に向ってくるのが見えた。夜の暗闇の中ではそれが何なのかは分からなかったが、蛇のような細く長い姿のようだった。しかし、蛇とは異なり、それは信じられないほど大きく、しかも宙を舞っているようだった。体をうねらせながら飛翔する東洋の伝説の龍のようにも見えた。

 まさか、伝説の生き物か!?いや、そんなことなどあるものか。龍などという生き物は想像上の生き物にすぎぬ。では、森を守る魔物か!?それとも妖術か!?

 そう考えながら、再び馬を走らせてとにかく逃げた。しかし、その魔物のようなものは、執拗に彼女を追いかけてきた。

 妖術による幻影かどうかは、こうすれば分かるはずだ。

 リディアは馬の手綱たづなから両手を離すと、左手で背中の弓を、右手で腰の矢筒から矢を取り出し、馬から振り落とされないようにあぶみに乗せた足を踏ん張り、両脚のひざで馬の腹を力いっぱい挟み込んで、振り向きざまに矢を放った。しかし、矢はその魔物の頭のような部分をすり抜けてしまった。

 やはり幻影か。

 そう思った瞬間、その魔物は速度を速め、彼女に襲いかかってきた。

 仮に実体のない幻影であっても、命を奪われないという保証はない。とにかく安全な場所を探して逃げなければならなかった。

 リディアは馬を走らせたが、魔物の速度には勝てなかった。実体のない魔物であれば、どのように戦うべきか全く分からなかったが、とにかく彼女は手綱を引いて馬の向きを反転させ、腰の剣を抜いて応戦態勢に入った。しかし、魔物は彼女を威嚇するだけが目的であるかのように、彼女の前方で方向転換し、体をくねらせるようにして上昇し、彼女を見下ろすように滞空し始めた。

 すると、虫が敵を威嚇するときに発する威嚇音のような音が聞こえてきた。リディアは、月明かりを頼りに、目を凝らしながら魔物を見つめた。なんと、それは蜂の大群であった。しかも、猛毒の針を持つキラー・スティングと呼ばれる夜行性の最も危険な蜂で、威嚇音が聞こえたら速やかに逃げなければ命はないと言われる蜂であった。

 蜂の大群なぞとまともに戦えるわけがない。

 そう思ったリディアは、再び馬の向きを変え、全速力でその場から逃げた。蜂の大群はなおもリディアを追いかけてきた。とにかく今は逃げるほかないと必死に馬を走らせていると、彼女の右手やや後方の遠方から、鳥の羽音がかすかに聞こえてきた。その方向に目を向けると、全身の白い鳥が、ひとまわり小さい鳥を追いかけるようにして飛んでいるのが見えた。

 暗闇では分かりにくかったが、追われている鳥は鳩のようだった。その白い鳥は、猛禽類の鳥が獲物を捕えるように鳩を鷲掴わしづかみにして、そのまま飛び続けた。その少し後方には、白い鳥と同じ大きさの黒い鳥が飛んでいた。そして、それらの鳥の飛ぶ方向に、リディアを追いかけるようにして彼女の馬と並走する馬影があった。

 白い鳥は、その馬を追いかけるように後方から近付き、騎手が後方を見ぬまま右手を軽く上げると、その開いた掌にそっと鳩を置くようにして渡した。馬はそのまま走り続けていたが、白い鳥は、騎手に鳩を渡すと、どこかへ飛んで行ってしまった。

 そして、後を追うように飛翔していた黒い鳥は、騎手が鳩を掴んだまま差し出した右腕にまった。騎手は、右腕を曲げて地面と平行の状態を保ちつつ、黒い鳥を留まらせたまま、リディアとの距離を保ちながら馬を走らせ続けていた。気付かれぬように馬の馳せる音を何らかの方法で消し去ってリディアを監視しているようであったが、あの騎手が蜂を操っているのかもしれないと思ったリディアは、騎手の方に向きなおして走った。

 すると、気が付かれたことを悟った騎手は、逃げるようにして方向を変え、腕に留まっていた黒い鳥を放った。

 リディアが騎手を追い始めると、後方からの蜂の大群はいなくなってしまったが、その蜂の大群と代わるかのように、次は、先ほど放たれた黒い妖しげな鳥がリディアを襲ってきた。

 それは、からすのようだった。しかし、普通の鴉とは異なり、獰猛どうもうわしのように滑空して激しくリディアに襲いかかり、彼女が剣を抜くと彼女から離れ、すぐさま方向転換して再びものすごい速さで襲いかかってきた。

 騎手にとって、頭上後方からの攻撃が非常に応戦しにくいことがその鴉には分かっているのか、常に彼女の後方に廻り、間合いを十分に詰めると、足元から彼女の頭上に向けて何かを放った。リディアが振り向きざまに剣を振り抜いてそれを切り裂くと、ぬめり気のある液体が飛散した。

 しまった、と思ったが時すでに遅く、彼女の服には油がこびりつき、それと同時に先ほどの白い鳥が火のついた松明をくちばしでくわえて戻ってきた。

 鳥が火を恐れずに火責めなどという芸当ができるのか!?

 そんな疑問が脳裏をかすめたが、油にまみれた服に着火してしまっては命を落とすことになりかねないため、とにかくその場は逃げるしかなかった。

 すると、主人をうまく逃がすことに成功したためか、鳥たちは彼女から遠ざかり、どこかへ飛んで行ってしまった。


 あの騎手が噂に聞く美土奴ミドーヌの動物や蟲を操る傀儡くぐつと呼ばれる妖術師だったのだろうか。だとすると、やはり、この森から早く抜け出さなければ、森に迷い込んだグランダルの商人のように、本当に命を落とすことになるかもしれない。

 リディアは、馬を止めて辺りを見渡した。自分が一体森のどのあたりにいるのか全く見当がつかなかった。腰の革袋から地図を取り出してみたが、森の中では目印になるようなものは何もなく、地図上でも自分が今どの辺りにいるのかを確認することは出来なかった。今いる場所を知るための手掛かりは何かないものかと考えながら、夜空を見上げてみたが、生い茂る木々の葉の隙間から月明かりが時々こぼれる以外は、空すらあまりよく見えなかった。しかし、今の彼女にとって空の月や星だけが方角を知る唯一の手掛かりなので、再び馬を進ませて、空を見上げることのできそうな場所を探した。


 その時である。突然、馬が苦痛の悲鳴のようないななきを発して倒れ込んだ。突然のことだったため、リディアは落馬して地面に叩きつけられた。

討手うってか!?

 リディアはすぐさま上体を起こして態勢を整え、低い姿勢を保ちながら辺りに目を見張り、次の攻撃に備えた。突然馬がやられて倒れるなど、矢を放たれたとしか考えられなかったが、馬の体には矢は刺さってはいなかった。

 何が起きたのだ!?

 事態が把握出来ぬまま、矢の一斉射撃に備え、気絶した馬の陰に身をひそめて息を殺しながら、次に取るべき行動について考えを巡らせた。

 馬の脚からは少量の血が流れていたが、幸い傷は深くはないようだったので、まだ馬は走れると思い、人差し指と中指の間に親指を挟み込み、親指の先をわずかに出した状態で、馬の首を軽く殴打した。馬の意識が戻ると、馬をすぐに立たせて、傷を負った脚とは反対側の馬の腹を、地面と平行に横向きになりながら、両腕と両脚で抱き込むようにしてしがみついて、馬を走らせた。もし矢が放たれたのだとすれば、馬が傷を負った側の向こうに敵が潜んでいるはずなので、そちら側からの攻撃を避けるために、馬の傷とは反対側の腹に隠れて馬を走らせたのである。

 馬は主人をまもるために痛みをこらえて走った。しかし、彼女の案じた攻撃はなかった。

 しばらく馬を走らせてその場から離れると、討手が潜んでいる気配は感じられなかったため、リディアは馬を止めた。辺りを警戒しながら馬の腹から下りて、馬の脚の傷を確認しようとしたその瞬間、再び馬がいななき、地面に倒れた。次は反対側の脚に斬り傷が刻まれていた。傷は鎌のようなもので鋭く斬られた跡のようだった。

 投剣などの飛び道具が使われたのであれば彼女も気付くはずである。仮に気付かなかったしても、その飛び道具がどこかに落ちているはずである。彼女は辺りを見廻したが、そのようなものは何も見つからなかった。

 すると今度は、リディアの左脚に鋭い痛みが走った。一瞬よろめいたが、すぐに態勢を立て直して応戦態勢に入り、辺りを見渡した。左脚から温かい血が流れ落ちるのを感じる。まったく気付かぬうちに、彼女の脚も鋭利な刃物で斬られたかのように、鋭く斬り込まれていたのである。

先ほどの妖術師が再び現れたのではないかと思い、周囲に鋭い視線を向けて、息を殺しながら気配を感じ取ろうとしたが、人の気配は全く感じられない。

 一体何が起こっているというのだ。魔物が現れたのであろうか。いや、姿には全く気付かなかった。すると、妖術師が気配を消しながら妖術で鎌風を起こしているのだろうか。だとすると、鎧を脱ぎ棄てたことがあだとなってしまったかもしれない。

リディアは後悔の念と共に、目に見えぬ敵の恐怖と闘いながら、どう身を護るべきかを考え始めた。

 脚ばかりが攻撃されるということは、もしかすると攻撃は地面から行われているのかもしれない。

 そう考えたリディアは、痛みをこらえながらも、すぐさま跳躍して近くの木の枝をつかみ、一回転して枝の上に飛び乗った。そして、地面に倒れ込んだ馬に視線を向けると、月明かりに照らされた馬の体には、さらに斬り傷が増えていた。

 あのまま、あそこにいたら、私も斬り刻まれていたかもしれない…。こんな恐ろしい森は一刻も早く抜け出さなければ…。

 馬はもう助からないと思ったリディアは、木から木へと飛び移り、その場から必死で逃げた。

 馬を失い、進むべき方向も分からぬまま森の中を逃げ回り、魔物とも妖術とも分からぬ襲い来る敵から逃げ切ったときには、腰に携帯していたわずかな水と地図を入れた革袋さえ失っていた。


 地面からの攻撃はもうないだろうと思ったのは、彼女が崖の谷底を流れる川の上に掛けられたり橋を渡り終えてからのことだった。もし地面の中に魔物か何かが潜んでいたとしても、地上に姿を現さずに対岸の崖まで移動することは出来ないと考えたからである。

 しかし、彼女に安堵する余裕は与えられなかった。今度は、対岸の森の中から、激しく燃え盛る炎に包まれた、伝説に聞く火炎龍のようなものが襲ってきたからである。

 見えぬ敵から逃げ切った安心からか、油断をしていた彼女は、炎から身をかわしたものの、左脚に怪我をしていたため、崖の岩のこけに足を滑らせて谷底に落下してしまった。そのまま、真っ逆さまに谷底の川に落ちたが、幸い川の水深は浅くはなく、命を落とすことはなかった。しかし、体を川底に強打してしまったため背中や肩に痛みが走った。

 痛みをこらえながらも、水面に向かって必死に泳いで上昇し、水面から顔を出して息継ぎをすると、川の流れを確認し、流れに身を任せながら、徐々に岸の方へと近づいて行った。

 対岸にたどり着き、濡れた衣服が重かったが、何とか岸に這い上がろうとすると、追い打ちをかけるかのように、今度は、上流から大量の水が怒涛どとうのように流れてきた。

 これも妖術の仕業なのか!?

 これまで長い間雨が降らず、グランダル王国の人々は旱魃かんばつに苦しめられているというのに、隣国の美土奴国で、どうやってこんな洪水を引き起こせるというのだ!?

 そんなことを考えたのも束の間、押し寄せる水流に逆らって逃げる体力はもはや彼女にはなく、そのまま濁流に飲み込まれてしまった。

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