第320話 視察の日々と嬉しい報せ
五月も終わりに近づき、アールクヴィスト大公国の独立まで残り三か月を切ると、ノエインが自ら動くべき仕事は少なくなる。
各所の開発・整備の実務を手がけるのは臣下や領民たちであり、それらの作業を視察し、実務トップの臣下たちと話し、領民たちに声をかけるのが今の主な役目だ。
そしてこの日、ノエインは領都ノエイナの周囲に広がる農地のうち、アールクヴィスト家の所有する区画の視察に向かっていた。
アールクヴィスト家の抱える農地は広大だ。ノエインが新たに大公位を得るにあたり、その面積はさらに拡大され、領全体の農地の二割を優に超えている。
ノエイナの外はもちろん、屋敷の敷地の中にもある程度の面積の畑を備え、安全な環境で領主一家や使用人たちの食料を生産できるようにしてある。
それだけの農地となれば、耕作する労働力も膨大になる。新参者も併せれば農奴だけで百人近く、金で雇っている小作農も合わされば三百人に迫る。それでも人手が不足し、労役での納税希望者を集めて農作業に従事させることもある。
「新しい奴隷や小作農が来たばかりだし、ザドレクも今は大変な時期だろうね」
「でしょうね。まあ、あいつなら問題ないんでしょうが」
馬車を出す距離でもないので徒歩で農地に向かいながら、ノエインは護衛役のペンスとそんな言葉を交わした。ペンス以外にも数人の親衛隊兵士が護衛につき、マチルダももちろんノエインの傍に控えている。
領主家の農地に勤める数百人の農奴や小作農を監督する総責任者は、かつてノエインに買われた奴隷であり、今は解放されて従士となったザドレクだ。
管理する民の人数で言えばノエインの臣下の中でも指折りの立場にいるザドレクは、農務長官となるエドガーとも密に連携しながらアールクヴィスト領の農業を支えてきた。あまり表舞台には出てこないが、まさに陰の功労者と言える。
ノエインたちが農地に到着すると、ザドレクはそのど真ん中で――農奴を殴っていた。
周囲には既に散々殴られたらしい農奴や小作農が何人も転がっており、抵抗しようとしたのか、取り押さえられている者たちもいる。領主家の農地で働くほとんどの者が手を止めて集まっているらしく、ちょっとした騒ぎになっていた。
「……忙しいときに来ちまったみたいでさぁ」
「だね。ちょうど教育中かな?」
それを見たノエインたちは、特に驚くことも慌てることもなく歩み寄る。今は新規の移民や奴隷が入り、領主家の農地に勤める人員も増えている。言うことを聞かない新参者に監督者が力づくで「教育」するのは、それほど珍しい光景ではない。
「ザドレク様、アールクヴィスト閣下がお越しになりました」
「全員、アールクヴィスト閣下に礼!」
補佐役の一人がノエインに気づいてザドレクに声をかけると、ザドレクは殴っていた農奴の襟から手を離して周囲に怒鳴る。
ザドレクと平民たち、そして農奴たちが、それぞれの身分に合わせた礼の姿勢をとる。殴られて倒れていた者たちも意識はあったのか、顔を腫らしたままのろのろと礼の姿勢になる。
「閣下、お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ございません」
「気にしないでいい。ザドレクも、皆もご苦労様……教育中のようだったけど、彼らは何か失態を?」
ザドレクに反抗していたらしい農奴や小作農にノエインが視線を向けると、彼らは怯えたような表情になる。
「はっ。新参者の一部が『なぜ獣人に上から命令されなければならないのか』と強硬に反発し、聞くに堪えない暴言を吐いたため、立場の違いを教えておりました」
それを聞いたノエインは、他の者には聞こえない程度に小さく息を吐いた。
ザドレクは虎人で、彼の下で働く古参の平民労働者にも何人か獣人がいる。獣人が高い地位に立つのは、彼らへの差別感情が一般的なロードベルク王国ではあまり見られない体制だ。
今までも移民を入れるたびに、こうしたトラブルは少なからず起きていた。
「そうか……反抗したのは、この殴られていた者と取り押さえられていた者、併せて十人くらいかな?」
「直接反抗したのはこの十一人です。他の者も程度の差はあれ態度が悪かったので、全員に分からせる意味もあって集めておりました」
「なるほどね」
頷きながらノエインが反抗していた者たちに近づくと、彼らの顔から血の気が引く。彼らもまさかこのタイミングで領主が来るとは思っていなかったのだろう。
まるで死刑執行前の罪人のような絶望的な表情で地べたに座っている彼らを前に、ノエインは――自らもしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
「……君たちも不安だろう。怖いだろう。見知らぬ土地に来て、未知の価値観に触れて。可哀想に」
慈愛に満ちた優しい声をかけられて、反抗していた者たちは一様に驚きを見せる。
「ロードベルク王国では獣人を差別するのが一般的だ。それは君たちのせいじゃない。そういう社会で生きてきた君たちが獣人を下に見たのは、仕方のないことだろう……だけど、ここは他の貴族領とは違う。ここでは普人と亜人、獣人の間に優劣はない。君たちはそれを、今ここで学ばなければならないんだ」
ノエインは立ちあがり、今年になって移住してきた新参の農奴と小作農を見回す。
「君たちには選ぶ自由がある。この地の価値観を受け入れることで、アールクヴィスト家当主である僕の絶対の庇護を得るか。それとも『獣人は下等な存在だ』というこれまでの価値観を守るか。好きな方を選んでいい……ただし後者を選ぶのなら、僕はこの地の秩序を守る者として、君たちを罰しなければならない。厳しい罰を与えなければならない」
言いながら、ノエインは傍らのマチルダに視線を向け、微笑んだ。
その行動を見て、察しのいい者はまた顔を青ざめさせる。獣人への差別感情を露わにした自分たちが、獣人奴隷に寵愛を与えて傍に置いている領主からどう見られるか。想像するだけでもぞっとすることだろう。
そんな反応を確認しながら、ノエインはまた新参者たちに向き直る。
「君たちは僕の奴隷、あるいは僕の民だ。僕は君たちを庇護し、幸福を与え、それを守りたい。だからどうか、僕に君たちを愛させてほしい。僕が君たちに慈愛を以て接することができる選択をしてほしい。僕が言えることはそれだけだよ」
半ば茫然とする農奴と小作農たちを前に、ノエインは今度はザドレクの方を見る。
「面倒を見る農奴や小作農が増えて、農地の面積もさらに広がって。君には苦労をかけるね、ザドレク」
「滅相もございません。閣下よりいただいた務めを果たすために、全力を尽くすのが私の喜びです」
淀みなく答えて忠誠心の高さを見せるザドレクに、ノエインは満足げに笑いかけた。
「さすがは僕が絶対の信頼を置く優秀な従士だ。君に任せておけば、アールクヴィスト家の農地は安心だよ」
領主から直々に「絶対の信頼を置く」と言葉をかけられるザドレクを見ても尚、露骨に彼を軽んじようとする者はいないだろう。ノエインの発言には彼への心からの信頼はもちろん、そんな意図も込められていた。
「それじゃあ、視察を始めていいかな?」
「はっ。農地を回りながらご説明させていただきます……全員、速やかに作業に戻れ! お前たちは傷を洗ってからだ! アールクヴィスト閣下の農地を血で汚すなよ!」
ザドレクが怒鳴るのと同時に、農奴と小作農たちは走って自分の担当する農地に散っていく。先ほどまで「教育」を受けていた者たちは、ヨロヨロと井戸まで歩いていく。補佐役の古参労働者たちもそれぞれの監督する区画に散る。
農作業が再開された中で、ノエインは農地の現状報告や、収穫スケジュールをはじめとした今後の作業計画の説明をザドレクから受けていった。
・・・・・
「……やっぱり間違いありませんね。ご懐妊です。ノエイン様、クラーラ様、おめでとうございます」
六月の上旬。鑑定の魔道具でクラーラの体を診た医師のリリスが顔を上げ、クラーラと、隣に寄り添うノエインを見て言った。
「そうか……やったねクラーラ。ありがとう」
「ふふふ、またあなたとの子を産むことができるんですね。嬉しいです」
クラーラの手に自身の手を重ねてノエインが微笑むと、クラーラは慈愛に満ちた表情で微笑みを返し、腹部に手をあてる。
数日前からクラーラが以前妊娠したときと同じような症状を訴えたため、ノエインは屋敷にリリスを招き、彼女を診てもらったのだった。
結果は予想通り。二度目ともなれば最初のときのように驚いて舞い上がることはないが、それでも喜びは計り知れない。夫婦二人で、静かに幸福を噛みしめる。
「……では、私はこれで失礼しますね。今後の定期健診などのお話は、また後日にさせていただきます」
「ありがとうリリス。ご苦労様」
ノエインたちに気を遣ってか、リリスは家令のキンバリーに案内されて早々に退室していく。
そして、部屋にはノエインとクラーラ、そしてマチルダと、その膝の上に抱かれたエレオスが残る。
「次は男の子と女の子、どちらでしょうか」
「楽しみだね……エレオスに弟か妹ができるのか」
両親の視線を受けたエレオスがきょとんとした表情で首をかしげると、マチルダが優しく語りかける。
「エレオス様はお兄ちゃんになるのですよ」
「おにーちゃん? ぼくが?」
この夏には三歳の誕生日を控え、最近は物心もついてきたエレオスだが、自分が「お兄ちゃん」になるという感覚はまだピンと来ないらしい。
不思議そうな表情のエレオスに、ノエインたちは笑顔を零した。
「でも、お腹に子供がいるならクラーラは仕事を控えめに……」
「もう、また気が早いですわ。まだ妊娠して一か月くらいしか経っていないんですから、当分は働かせてもらいます。建国の前後はあなたも忙しいんですから、私がお支えしないわけにはいきません」
「……そうだよね、ごめん。つい」
出産の予定時期は来年の春だ。アールクヴィスト大公国の独立に伴うあれこれがひと段落するまでは、クラーラも十分に動ける。
「この子のためにも、いい国づくりをしないとね」
「ええ、頑張りましょう」
「私もお支えさせていただきます」
新たな始まりを前にした縁起のいい出来事を、愛する女性たちと我が子と一緒に喜びつつ、ノエインは一層気を引き締めた。
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