第148話 アールクヴィスト領の日常⑤妻たちの場合

 従士マイが責任者を務めるアールクヴィスト領婦人会は、王国の他の地域ではおそらく見られない、この領に特有の組織だ。


 その実態はアールクヴィスト領で暮らす女性たちの互助組織であり、出産や子育て、その他家庭生活における若い女性の悩みを、より上の世代の女性が聞き、助言や手助けを行っている。


 また、新しく移住してきて不安を抱えている新領民の女性たちと、他の領民たちの交流の場を作るような活動も定期的に行ってきた。


 難民としてこの地に流れ着き、本来なら家庭のことで頼れるはずの親や親戚のいない者が多いアールクヴィスト領では、この婦人会は女性たちの大きな支えとなっている。


「――それじゃあ、今週の助産婦の担当表はこれで。連絡をお願いするわね」


「分かりました、早速行ってきます」


 婦人会は領主ノエインから活動予算を与えられている公的な組織であり、今では小さいながら事務所となる建物もある。


 手伝いの領民女性が連絡業務のために事務所を出ていったのを見送って、仕事がひと段落したマイはふうっと息をついて椅子に座った。


 人口が増え、その平均年齢の若い領都ノエイナには常に何人もの妊婦がいて、赤ん坊は深夜だろうと早朝だろうと生まれるときは生まれる。本来そういうときは親などの伝手で産婆を呼ぶものだが、ここではそういった伝手のない女性がほとんどなので、助産経験者がいつでも駆けつけられるようにシフトを作るのも婦人会の仕事だ。


「マイさん、お疲れさまです」


「ありがとうジーナ」


 マイにお茶を差し出してくれたのは、まだ赤ん坊の娘サーシャを背中におぶったジーナだ。


 婦人会は責任者のマイと従士の妻であるジーナ、ミシェルを中心に運営されており、日中はこの三人のうち最低でも誰か一人は事務所に詰めておくようになっていた。


「ヤコフくんは本当にいい子ですねえ。うちのサーシャもあの子くらいお行儀よくてお上品に育ってほしいわぁ」


 ジーナがそう言いながら目を向けたのは、部屋の隅で静かに絵を描いて遊ぶマイの息子、ヤコフだ。マイが出勤する日はこうして事務所に連れてきている。


 今年で三歳になるヤコフは、母のマイから見ても年のわりにおとなしくて利発だった。


「大丈夫よ、ラドレーさんとあなたの娘ならきっといい子になるわ」


「だといいんですけど……とりあえず今のところは、あの人のちょっと大雑把な言葉づかいをこの子が覚えてしまわないか心配で」


「ああ、それは確かに……そうね」


 頬に手を添えて悩ましそうに言うジーナに、マイも苦笑しながら同意した。せっかく(というのもラドレーに悪いが)父親にあまり似ず可愛らしい顔に生まれたサーシャが、「へい、問題ねえです」のような言葉づかいをするところは見たくない。


 仕事の休憩がてら二人で雑談に花を咲かせていると、事務所の扉が開く。


 入り口に立っていたのは、バートの妻ミシェルだった。


「ミシェル、今日は休みのはずじゃ……何かあったの?」


 嬉しそうな、しかしどこか泣きそうな顔をしているミシェルが心配になってマイは尋ねる。


「……あの、さっきセルファース先生の診療所で、鑑定の魔道具で診てもらったんですけど、」


 うるうると目を潤ませながら話すミシェル。鑑定の魔道具は病院や診療所では一般的なもので、体が平常かどうか、平常でないならどこにどんな異常・変化があるかをある程度詳しく調べることができる。


「そしたら、私、妊娠してるって……バートさんとの赤ちゃん、妊娠してるって言われました……!」


「ほ、ほんとに!? よかったじゃない!」


「ずっと頑張ってたものねえ! おめでとう!」


 ついにぽろぽろと泣き出しながら、しかし笑顔で報告するミシェルに、マイもジーナも駆け寄って祝福の言葉をかける。


 交際ゼロ日で電撃結婚したこともあり、しばらく甘い新婚生活を楽しんでいたミシェルとバートだが、昨年の後半からそろそろ子どもを作ろうと励んでいたという。


 しかし、領主ノエインの陞爵もあって渉外担当のバートの仕事も忙しくなり、月の三分の一から半分ほどは家を空ける生活が続いていたためか、なかなか成果が出ないと悩んでいたのだ。無事に懐妊したことが分かって、思わず涙するのも無理はない。


「それで、生まれるのはいつ頃になるの?」


「えっと、先月にはまだ鑑定で分からなくて、今月に分かって、だいたい妊娠3か月目から鑑定に引っかかるらしいので……順調にいけば九月か十月頃になると思います」


「そう……よかったわね。バートも喜ぶでしょうね」


「は、はい。早くあの人にも教えてあげたいです。ちょうど今は仕事で領外に行ってて、帰ってくるまであと二、三日かかると思いますけど……」


 少し残念そうにミシェルが苦笑する。


「あらぁ、それじゃあ今は家で一人なのね。もし心細かったり、不安になったりしたらうちにご飯でも食べにいらっしゃい。何なら泊まっていって」


「そうね、一人でいるより誰かと賑やかにしてた方がお腹の子にもいいでしょうから。うちもいつでも大歓迎よ」


「ジーナさん、マイさんも、本当にありがとうございます。ぜひそうさせてください」


 三人でミシェルの懐妊を喜び合っていたところで、ふとマイは開けっ放しの事務所入り口を見る。


 と、そこにはいつのまにかマチルダが立っていた。ジーナとミシェルも気づいてそちらを見る。


「……いえ、私は懐妊報告ではありませんよ」


「「ぶふっ」」


「言われなくても分かってるわよ。真顔で冗談言わないでよ」


 いつもの無表情のままそう不意打ちしたマチルダにジーナとミシェルは吹き出し、マイは呆れ顔でそう返す。マチルダはノエインに人生を捧げているし、普人と獣人で子どもはできないので、彼女が妊娠の報告に来ることはあり得ない。


「私の耳だと外まで話が聞こえていましたが、おめでとうございますミシェル……それと、こっちが本来の用件ですが、ノエイン様の署名済みの書類控えを届けにきました」


 そう言って書類を置き、早々に帰ろうとするマチルダを、マイは呼び止めた。


「ちょっと待ってマチルダ、最近は顔を合わせることも少なくなっちゃったし、せっかく来たんだからお茶くらい飲んでいきなさいよ。私たちもちょうど休憩の時間だったし」


「……ですが」


「何、ノエイン様から早く戻って来いって言われてるの?」


「いえ……逆に、事務所でマイと会うのなら少しゆっくりしてきていいと言われましたが」


「ならノエイン様のご厚意に甘えなさいよ。急いで帰らなくてもノエイン様は逃げないわ」


「……では、お茶一杯だけ」


 マチルダが頷く頃にはジーナが追加で二人分の椅子をガタガタと運んできて、そのまま四人で軽いお茶会に突入する。


 お喋りに花を咲かせるその様をちらりと見て、事務所の隅で手持ちサイズの黒板に絵を描いて遊んでいたヤコフは、ふんす、と小さく鼻を鳴らした。


 おんなのひとはいつもいつもにぎやかだ、と少しばかり彼が呆れたことを、誰も知らない。

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