第87話 領地強靭化① 学校設立

「あなた、お仕事中にすみません……学校の指導計画をまとめ終わったので、お時間のあるときに見ていただいてもよろしいでしょうか?」


 執務室で書類仕事に勤しんでいたノエインのもとにやって来たのは、彼の妻であるクラーラだった。


「もちろんだよクラーラ、お疲れ様……仕事の休憩がてらに今から読ませてもらおうかな」


「ではノエイン様、お茶をお持ちしましょうか? クラーラ様もよろしければ」


「ありがとうマチルダ、お願いするよ」


「私もいただきます、ありがとう」


 アールクヴィスト士爵家に嫁いですぐに、クラーラはノエインに「領都ノエイナ内に学校を設立してはどうか」と提案してきた。さらに、自分がその責任者となり、教師も務めたいと希望した。


 学校と言っても、平民の子どもたちを週に数回、半日ほど通わせるだけもの。教育期間は半年から一年ほどで、学ぶ内容も読み書きや算術など基礎的なことが中心だ。それでも、領の次世代の知力を底上げできるのは大きい。


 学問への造詣も深いクラーラならば、アールクヴィスト領初の学校の責任者には適任だ。ノエインは直ちに彼女の提案を了承し、ある程度具体的な指導計画を考えてもらうよう頼んでいたのだった。


 それから2週間ほどで仕上がった指導計画に、マチルダの淹れてくれたお茶を飲みながら目を通すノエイン。


「……うん、いいね。基本的な読み書きや算術はもちろんだけど、各部門の専門知識がある人を教師として招くっていうのもいい考えだよ。彼らにはもう話を?」


「ええ、もちろん通してありますわ」


 クラーラの指導計画には、自分が教師として基本的な読み書きや算術を教えるだけでなく、農業担当のエドガー、医師のセルファース、高等学校で学んだクリスティなどから各自の知る専門知識の基礎を教えてもらう案も含まれていた。


 彼らには既に話を通し、各々の仕事に支障がない範囲で教壇に立ってもらうことを了承されているという。


「そっか。2週間でここまでまとめあげるなんて……クラーラは凄いよ」


 正直言ってここまで見事にやってくれるとは予想していなかったので、ノエインは素直に賞賛する。


「ほ、本当ですか……私、あなたのお役に立てていますか?」


「もちろんだよ、すごく頼もしい。領民の識字率が上がると、領の発展速度も上がるだろうからね。クラーラのおかげでアールクヴィスト領はまた成熟するし、領民も僕も幸せになれるよ」


 基礎的な読み書き算術だけでなく、初歩とはいえさまざまな分野の知識を領民たちが共有しておけば、アールクヴィスト領はより洗練された社会を築けるはずだ。


「えへへ……嬉しいです」


「よかったですね、クラーラ様」


 クラーラははにかみながらそう言い、マチルダと目を合わせると笑いあった。視察の日の一件以来、この2人は本当に仲がいい。


「ケーニッツ家にいた頃も学校を作ってみてはとお父様に提案したことがあったんですが、『豪商や豪農たちが納得しないから』と断られてしまったんです」


「まあ……そうだろうね。社会の上層部に長くいる人たちからすれば、下々の人間が賢くなるのは面白くないんだよ。自分たちの立場を脅かされるかもしれないからね。富裕層の支持を失わないためにも、アルノルド様も動けなかったんだと思うよ」


 自分たちが知識人階級であり続けるために、下層民には馬鹿でいてほしいと思う人間は意外と多い。ロードベルク王国で誰でも入れる公共の学校がほとんどないのはそういった社会背景もある。


 ノエインが学校設立に踏み切れたのも、新興の領地であるアールクヴィスト領にはまだ既得権益層と呼べる存在がいないからこそだ。スキナー商会のフィリップなどは、読み書き計算のできる人員がもっと欲しいらしく学校設立をむしろ支持している。


「世の中は複雑なのですね……」


「そうだね。幸いこの領にはそういうしがらみがないから、新しい試みにも取り組みながら発展させていこう。学校設立もその重要な一歩だから、引き続きよろしくね」


「はいっ」


・・・・・


 クラーラは指導計画の作成などでは存分に力を発揮してくれている。しかし、まだまだアールクヴィスト領内の勝手が分からず、社会経験の少ない彼女一人では色々と限界もある。


 そのため、ノエインは従士長ユーリに校舎建設などの手続き面をサポートさせていた。


 鉱山技師のヴィクターに鉱山開発を任せたことで、ユーリはレスティオ山地での監督業務から完全に解放された。以前よりも時間的な余裕があり、おまけに従士長として領内のことに精通しているユーリはクラーラの補佐に最適だった。


「この調子だと、来月には開校できるかな」


「そうだな。冬の農閑期は授業を多めに入れれば、来年の春には最初の生徒の教育を終えられるだろう」


 着々と進んでいく校舎の建設現場を視察しながら、ノエインはユーリとそう言葉を交わした。


 一度に学ぶのはせいぜい数十人なので、校舎と言ってもその建物は一階建ての小さなものだ。敷地だけはそれなりに広く取り、人口とともに学ぶ人数が増えても校舎を増築して対応できるようにしている。


「それにしても、領地の強靭化のために最初に取り組むのが学校設立とは意外だったな。即効性はないだろう?」


「だからこそだよ。成果が見えてくるまで年単位の時間がかかるからこそ、できる限り早く進めておきたいんだ……戦争が起きれば、その余波もあって数年は国内が混乱するだろうから。そんなときに知恵のある領民は多い方が心強い」


 ユーリの問いかけに、ノエインはニヤッと笑う。


「なるほどな。長い目で利点を考えたらまず人を育てるのが最善ということか」


「そういうこと……ところで、学校について領民たちの反応はどう? 生徒は集まりそう?」


「ああ、概ね好評だ。この領は税が少ないし、ジャガイモがあるおかげで生活に余裕のある家が多いからな。各世帯の長男を中心にそれなりの人数が集まると思うぞ」


 普通、学校や私塾があってもそこに子どもを通わせる余裕のある家は少ない。これも富裕層が教養を得てますます栄え、貧困層が貧しいままとなる一因だ。


 しかし、アールクヴィスト領ではジャガイモ栽培によって普通よりも少ない労力で十分な食糧を生産でき、さらに鉱山開発で儲けているノエインは税率を国内の平均より低くしているので、領民の生活はより楽になっている。


 おまけに学校の運営費はノエインが予算を出すため、子どもたちは無料で通うことができる。領民たちもそれならばと、我が子を学校で学ばせることを決意してくれたらしい。


「それならよかった……滑り出しは順調だね」


「ああ、そうみたいだな。後は成果が出るのをゆっくり待つだけか」


 学校設立の準備が問題なく進んでいることを確認し合いながら、ノエインとユーリは建設現場を離れた。

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