氷の貴公子

私の左手は、この馬車の持ち主と思われる目の前の美しい青年の右頬に添えてあるまま。

そして、その私の左手は、彼の右手で上から包まれている。


「……!!?」

声にならない悲鳴を上げつつ、私は上半身だけ後退りした。

男性への耐性もあまりないというのに、これはあまりに心臓に悪い。


けれど、彼がようやくといった風情で口を開き、

「しばらく、このままで……」

と低く澄んだ声で呟くのを聞いたら、こくこくと頷くほかなかった。


はじめは氷のように冷たかった彼の頬に、温かさが戻ってきた。けれど、私の左手も血が集まったかのように熱くて、どちらの温かさなのか、よくはわからない。


(……あ、だんだん、「空っぽ」じゃなくなってきた)


はじめ彼の頬に触れた時、さっき白い仔犬に触れた時のように、「空っぽ」のような感覚があって、不安になった。けれど、今はもう大丈夫、そう感じた。

アルスの回復薬が効いてよかった……!


慣れない状況に慌てつつも、きっと、私がほっとしたのが伝わったのだろう。まだ私の左手を離さないまま、目の前の青年が私にふわりと微笑んだ。


夢でも見ているのかと思うような、それは美しい笑顔だった。


この人が助かってよかったと、心から神様に感謝したくなるような。


「えっ……。あの氷の貴公子と呼ばれるリュカード様が、女性に対して、わ、笑った……?」

後ろで従者が目を白黒させていることに、私はまったく気付いてはいなかった。


***

ようやく、私の左手が解放された。


「君には命を助けられた、礼を言う。私はリュカード、ディーク王国の者だ。……君の名前は?」

「私は、アリシアと申します。隣国のアストリア王国より参りました」


馬車の座席を勧められ、お言葉に甘えて腰を下ろすと、それを見計らったかのように、仔犬が私の膝に飛び乗ってきた。

頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めている。


リュカードと名乗った彼は、その様子を見て、私に尋ねた。

「その犬は、君の飼い犬か?」


私は首を振る。

「いえ、さっき知り合いました。お弁当をあげたら、懐かれたみたいで…。一緒にディーク王国まで崖を登ろうとしていた、同志です」


仔犬も、そうだと言わんばかりのしたり顔をしている。


彼は驚いたように目を見開いた。

「なぜ、君みたいな若い女性が供も着けずにこんな崖を……?ここは魔物も出る。無事にディーク王国に辿り着く可能性のほうが、低いくらいじゃないか」


私は、少し躊躇ったものの、実家を追放され、ここに来た経緯をかいつまんで話した。


彼の彫像のような顔にだんだん怒りの色が現れ、さっと頬に赤みが差したのを見て、言わなければよかったかとも思ったけれど。


「泊まる場所も決まっていないのなら、我が家に客人として泊まっていかないか。君は命の恩人だ、ほかにも協力できることがあれば何でもしよう。約束する」


「本当ですか!?お会いしたばかりなのに申し訳ないですが、拾っていただいて、助かります」


私はようやく心から笑うことができた。

かなり図々しいのは自覚しているけれど、この申し出は、本当にありがたかった。何せ、本当に身一つで、小さな荷物だけで来たのだ。先の見通しも立たずに心細かったところに、渡りに船とはまさにこのことだ。

でも、一つ確認しておかなければ。


「あの、この子も一緒でもいいでしょうか?」

膝の上の仔犬を指差す。


「ああ、もちろん構わない。それに」

彼がまた笑った。男性に言うのは失礼なのかもしれないけれど、まるで花が咲くような笑顔で、ほうっと見惚れてしまう。

「君たちに会っていなかったら、まず俺たちは生きていない。どちらかと言うと、俺たちが拾われたようなものだ。何も遠慮はいらない」


彼が少し神経質そうな目で仔犬を見ていたような気がして、犬が嫌いか心配だったけれど、杞憂だったようだ。

この子と一緒に、お言葉に甘えよう。


馬車は、ガタガタと揺れながら険しい山道を進んで行った。

ディーク王国に向かう道のりでは、その後魔物に遭遇することはなかった。

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