第32話 幻影宮殿①
ペレウスは少しだけ様子を窺うつもりで下宮に足を踏み入れた。フェイトンを放置してまで例の二人を追うなど馬鹿げている。だが彼はウィーン本部で見た幾つもの遺体と意識不明のドーナー本部長、警備員、そしてカトと呼ばれた男について、何としても情報を掴みたかった。アルファルドの提案に乗るべきか躊躇していた。失われたミラ博士の「提言」を貸し与えてくれたにも拘らず、アルファルドは余りにも信頼に足らない相手に思われたのだ。
宮殿内部はかなり乾燥していて、潜めた靴音や衣擦れさえも響き渡る気がする。今では照明の役割しか果たさない携帯電話を掲げると、広間の暗がりには様々なポーズをとる彫刻群がぼんやりと浮き上がった。カトと警備員がこの下宮に侵入したのは確かだが、聞こえるのは空調の機械音とも静寂特有の耳鳴りともつかない音だけである。ペレウスは数歩中央へ進み入って周囲を見渡し、諦めて引き返そうして思わず歩みを止めた。
それはそこにあるはずの無い彫刻だった。「水瓶を抱くエレクトラ」像は、フィデリオ夫妻の仕事仲間が二人の事業拡大を記念して特注した作品なのだ。彫刻はエレクトラ神話を愛するフィデリオ夫人に大変喜ばれ、また一家の経済的成功の証として、ピリオ山を望む海沿いの小さな別荘に置かれた。
気がつくと、ペレウスはピリオ山別荘の居間で、アップライトピアノの椅子に腰かけていた。前板越しにイレクトロが居間へ入ってくるのが見える。今より大分若いイレクの頬と瞼は赤く腫れ上がっているが、ペレウスは腕や腹など見えない箇所には、もっと沢山の怪我があると知っている。これは昔経験した出来事だから。イレクトロがイギリスの大学に入学した年だ。
「イレク、その顔どうしたんだ。」
ペレウスは記憶通り弟に近づき、その傷をまじまじと見た。イレクトロはそっぽを向いて呟いた。
「顔は母さんだよ。」
イレクは兄に事の顛末を話した。以前より彼はこの別荘に滞在する度に、近所に住む同年代の少年たちと遊んでいたが、何人かとは反りが合わなかった。その一人が素封家の孫とかで、徒党を組んで嫌がらせをするという。今日も些細な対立から始まり、家族を侮辱されたイレクは相手を突き飛ばした。すぐさま乱闘になったものの、イレクトロは性格と生育環境に似合わず、相手を全員打ち負かしてしまった。それを知ったフィデリオ夫妻は、喧嘩相手の家へ陳謝して回っているという。ペレウスは溜息をついて諭した。
「母さんは母さんで少し考えて欲しいが……。暴力は絶対だめだよ。それに俺たちは普段ここに住んでいるわけじゃないから、ある程度は大目に見てやらないと。」
「兄さんの悪口を。」
ペレウスは呆れたように言い返した。
「まさかそんなことで怒ったのか。俺と面識も無い人間の言葉を真に受ける必要は無いだろう。」
イレクはバツが悪そうにしている。兄の名誉を守るために喧嘩をした弟を説教するのは気が引けるが、安い挑発に乗って手を出すのは本人の為にならない。
「イレク、正直俺だってむかつく相手を殴りたい時はある。だが実際にそうするのは別の話だ。それに無暗に怒りを相手に押し付けても、相手は絶対に態度を改めないよ。単なる悪意の応酬にしかならない。」
「それは分かってるけど……。」
ペレウスは単純かつ明るい口調で諭した。
「お前が好んで殴る奴じゃないのは知っているさ。多少の事に動じなければもっと良い。もう二度と繰り返さないよう努力しよう。何かあれば俺が話を聞くよ。」
そしてイレクが部屋を出ると、この記憶は終わる。本人の反省は勿論、両親の厳しい制裁と喧嘩両成敗的な雰囲気によって、この事件は忽ち落着に至るのだった。
だが眼前のイレクは一向に歩き出す様子がない。
「イレク……?」
「無理だ。」
「何?」
「そんなの無理だって言ったんだ。皆僕を見損なったと言ってるよ。母さんもそう。僕を留学させたのだって、僕が近くにいると周囲に迷惑がかかると思ったからだよ。」
「お前がイギリスに行けたのは優秀だから。俺に言わせるな。」
いつの間にかイレクは大人の姿に変わっている。彼はにやりと笑って言った。
「ふっ、兄さんもそう。昔より大分暗く、よそよそしくなった。それも僕のせい。」
「よそよそしい?まさか。」
「僕が困らせるからだろ。だが僕は約束をずっと守って来た。感情を隠す努力、平然と構える努力を。」
「知っているよ。」
「だが一方でこうも思うんだ。自分の気持ちを表現できないとは、つまり自分を騙しているって事じゃないのか?」
「そうかもしれない。だが誤魔化しが間違っているとは限らないよ。怒りや嫌悪は、仮令どんな表現方法を用いても、結局相手を傷つけるものだ。ならその気持ちを隠すのも、一つの選択肢だと思わないか?」
「他人を傷つけないために、内面に押し込めるってこと?」
「ああそうだよ。社会で生きる上では必要な事だ。」
イレクはへらへらと笑った。
「そんなの無駄な努力だよ。押し込め続けるなんて不可能だ。見返りの無い努力、水泡に帰す努力を繰り返させられると、人間はどうなると思う?兄さんはそれを自分と弟に強いている。」
ペレウスは呆れて反論した。
「水の泡だと?馬鹿な事を。お前はウィーンで活躍し、上級委員に選ばれ、モデラ委員長にも信用されただろう。もしどこかで癇癪を起したら、絶対に得られなかったものばかりだ。」
「だが兄さんは?」
兄は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに自嘲的な表情を浮かべた。
「俺なんかただの窓際職員だ。兄が恥ずかしいだろうが、こればかりはどうしようもない。」
「…………。僕がどういう意味で尋ねているのか、貴方にはわかるはず。」
ペレウスは視線を落とした。
「いいや、分からないよ。」
すると突如イレクは鬼の形相でペレウスに掴みかかった。後ろから羽交い絞めにされ、視界がぐらぐらと揺れる。
「イレク!いい加減にしろ!!」
エレクトラが虚ろな白い目で兄弟を見つめている。イレクは嗚咽混ざりに言葉を零した。
「僕の感情は嫌悪し軽蔑すべき悪だ。分かっているよ。だからって僕はいつも自分を恥じ、心を隠さなくてはならないのか……?」
紅潮していた頬から血の気が引いていくのを感じる。ペレウスはイレクの言葉の意味が分かっている。本来物事には良も悪もない。イレクトロの感情も同じだ。善悪や正誤などの区別は、いわば物事を善悪という言葉で表現した時に生じるのであって、対象自体に何らかの差があるわけではない。言葉で形取る以前には、全ては渾沌の中にあって善悪の別無く、正誤の別無く、自他の別無し。善悪の別無し、正誤の別無し、自他の別無し。…………。
ペレウスの脳裏には、ディオニシア・アンティゴノスの姿が浮かんだ。これは彼女の言葉だ。その言葉によって、ペレウスは彼女の人生的態度を知った。だがディオニシアの精神が彼女の身体を弱らせ、遺伝的体質が精神を蝕んでいると察知しながら、ペレウスは年長の友人として、もっと単純に生きよとは助言できなかった。
そしてペレウスは弟に対しても同様の過ちを犯し続けている。嘗てイレクは、独りでは到底堪え難い事実を言葉で形取り、兄に示して共有したいと願った事があった。だが兄は見て見ぬふりをし、何事もなかったかのように振舞った。弟が自分を殴っても当然の仕打ちだ。
ふと湿気を感じると、途端に呼吸が楽になったので、ペレウスはごほごほと噎せて宮殿広間の床に座り込んだ。イレクトロの姿もエレクトラ像も見えない。ペレウスが困惑していると、間の抜けた声が聞こえた。
「まだ何か用かあ~?」
後方の壁に凭れ掛かっているのは警備員だ。
「逃げておいてその言い方は無いだろう。加えて人間に手出しするなど言語道断だ。」
カトはいつの間にかペレウスの前に立っていた。彼はペレウスを見下ろして言った。
「委員会の人かな。何か恐ろしい光景を見たのだろうが、気にする必要は無い。このシャウラは周囲に幻覚を見せられるのさ。それだけの話だ。」
「幻覚?それって―――。」
カトは相手を制止して言った。
「一先ず庭園に出ると良い。ここの空気が問題なんだ。当然僕の指示を聞いてくれるだろうね。」
ペレウスは紫がかった霧らしきものが周囲に立ち込めており、更に床が水浸しになっていることに気付いた。
「オレの宮殿から無事に出られると思うなよ。」
「お前のじゃないでしょ。」
カトはペットボトルの口を開け、円弧状に振りまいた。シャウラが呆れた様子で抗議した。
「おいおい正気かよ!ここは美術館だぞ?このヴァンダルめ~!」
カトは空中に零れた水に素早く手をかざし、ゆっくり横に引き抜く動作をした。彼の手中には水でできた長い鎗が形作られていく。
「お前が気にする必要は無い。元通りにする見込みはある。」
カトの投擲した鎗は、何本にも枝分かれしてシャウラの周囲を囲み込んだ。シャウラの周囲に立ち込めていた濃紫色の霧は、主人の姿を覆い隠し、彫刻群が動き出してカトの前に押し寄せる。だがカトは一歩も動かず、周囲の水溜まりから次々と出現する無数の鎗を、仄白い群衆の中に次々と打ち込み続ける。
「これは……。」
「君はこっち。」
カトはまだその場に立ち尽くしていたペレウスの襟首を掴み、庭園に繋がる扉へ引きずり出した。顧みると、宮殿全体が水流と紫霧の充満する異様な雰囲気で包み込まれている。すると轟音と共に扉という扉から大量の水が溢れ出した。カトは両手に持った水鎗で、水と一緒に流され出たシャウラの体を何度も空中に放り投げ、軽やかな足取りで庭園中央の噴水に進んだ。シャウラは体を突かれる度にうめき声をあげたが、最後はギャッと声を上げて噴水の縁へ前のめりに倒れた。
「そうだ、ウィーン本部襲撃は誰の命令か聞かせてもらおう。」
「誰の命令でもねえよ!」
カトはペレウスの方を振り向いた。
「おや君、まだいたの。ここは危ないよ。」
「無視するなあ!」
カトは一人合点した。
「はあ、思えばわざわざお前に尋ねる必要もないか。」
「なんで。さっき教えてくださいって懇願したでしょ。」
「してないよ。ではさようなら!」
「ちょっ、おい!!!!」
カトは超然とした表情で拳を空に突き上げた。俄かに暗雲が巻き起こり、大粒の雨となって降り注ぐ。水飛沫による息苦しさと視界の悪さで、とても立ってはいられない。ペレウスは何一つ状況が理解できない中で、ただ一つ明確に感じ取れる事実に戦慄した。あの警備員が今正しく水の鎗に穿たれ死んでいくという事実である。
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