Ⅱ マンフレッド
第30話 イゾルディナ
アテネ・シンタグマ広場南に位置するトライデント・ホテルは、国内系ホテルチェーンであるトライデント・リゾート・グループの旗艦に当たる。そのラウンジで開かれたパーティで、エンマ・モデラは軽妙なピアノ曲を背景に、鬱々とした気分で談笑の輪を眺めていた。中心にいるのはタキ・カレニコスである。
タキとエンマの関係は、エンマの結婚を境に恋人から愛人となった。彼女も良家の子女、完全な恋愛結婚など期待していなかったが、漠然と将来タキの妻になるのではと思っていた。両親もその夢想を汲み取ってくれるはずで、それゆえ昨年父が齎したイレクトロ・フィデリオとの縁談は、エンマにとって正しく晴天の霹靂だったのだ。だが自分より夫の将来を慮ったとしか思えないこの縁談においても、彼女は敢えて父の意向に反しなかった。それは決して彼女が主体無いからではなく、両親の提案を受け入れることの方が、自身の恋愛が結婚に結実するよりも優先されるべきだと考えたからだ。事実イレクトロは非の打ちどころがない青年に思えたし、方やタキが自分に未練を抱く素振りを見せるのも悪い気がしなかった。
しかし結婚して一年にも満たないというのに、霹靂は再び彼女の鼓膜を震わすこととなった。エンマが夫に対し漠然と抱き始めた不信感は、彼女にとって甚だ屈辱的な真相へ辿り着かせるに至った。
そんな時、ウィーン本部でのイレクトロの上司でもあったリゲル・サンドラ北京本部長の訃報を聞いて、エンマは妙に感慨深い気分に浸っていた。リゲルが二か月ほど前からアテネ市内の病院で療養しているとは知っていたが、「友人」を甲斐甲斐しく見舞う父の姿を見るに、容体が芳しくないとは到底思えなかったからだ。
まだ調査共有委員会が軌道に乗り始める前、年に数度ウィーンへ出張していたモデラ氏は、決まってレン通りにある菓子店のマジパンを幼い一人娘への土産とした。理由は単純、ウィーン本部からハブ駅へ向かって歩くと、鮮やかなショーウィンドウが目に留まるからだ。ただそれは家族への土産の中では群を抜いていたので、子煩悩モデラ氏もウィーン出張の時だけは割合自信をもって帰宅できた。
ある日ウィーン本部の友人が父を訪ねる事になり、エンマは母の言いつけで客間のテーブル拭きをしていた。いつも通りなら父たちは客間で2時間ほど歓談する。そしてエンマがお茶の追加を尋ねに行くと、モデラ氏は客間の家具は娘が磨いたと説明する。客人は同僚の令嬢に感謝と労いの言葉を丁重に述べ、彼女の無邪気な質問に答えてくれるというのが一連の流れである。このような日をエンマはいつも楽しんでいたが、今日は格別である。何せ菓子の街から来るのだから。
友人リゲル・サンドラは不思議な金色の瞳が印象的で、やや高く柔和な声色もまた特別に感じられる淑女だった。年齢は父親と同じ30代後半だろうか、文字通り道行く人が皆振り返る美貌である。エンマは父母と共に玄関で彼女を歓迎した瞬間、自分が思い描いた通りの大人の女性であることに喜び、彼女から失礼と思われないよう用心深く観察した。それによって発見した特徴の内、少女が最も気に入ったのは、笑う時に口に手を当てる仕草だった。
リゲルは家に上がるのが申し訳ないからと、友人家族をベナキ美術館近くのカフェに誘った。モデラ夫人が疲労を理由に丁重に断ったため、結局モデラ父娘とリゲルが午後の散歩に出かけることになった。エンマが丹念に磨いたテーブルが客人の目に触れる機会は失われたが、何ということもないのだった。
午後のひと時はエンマにとって満足いくものだったに違いない。だが彼女は具体的にどう過ごしたのかよく覚えていない。結局、その後エンマがリゲルと会う機会は二度と訪れ無かった。一方エンマがリゲルについて特段父に尋ねることも無かった。ただエンマは偶像がしていたように爪を磨き、体を細らせ、地声よりも高い声で喋り、笑う時には口に手を当て続けた。こうしてリゲルの特徴はエンマの象徴になった。
つまりエンマにとってリゲルとは、本人如何というより憧れる大人の象徴として重要だったのだろう。問題は、それらがいずれも表層的な特徴に留まっているということだ。それはエンマが外面や体裁に固執する性格に育ったことと無関係ではない。
先日もそうだ。新聞リゲルの訃報を知り、エンマは父の心境を案じて実家へ赴いた。だが父が一言も話題に出さなかったので、エンマは慎重に選んだ慰めの言葉を言わず終いだった。今日も父は当然のように墓地へ赴き葬儀を取り仕切っているが、何か手伝いができるかと尋ねることもしなかった。タキとの関係は言うに及ばず、幼少時の思い出も自分の結婚でさえも、彼女は満足な言動を起こせたことがないのである。これから先もずっとそうだろうと思うと、彼女はひどく投げやりな気分に陥るのだった。
エンマはもちろん娘として父母を心から敬愛している。しかし彼女が優れた両親とその愛情に見合う大人に成長したとはとても言えなかった。夫イレクトロの瞞着を知り、タキとの不倫関係を続けるうちに、彼女の言動は次第に攻撃的な性質を帯びるようになった。エンマの言動はより神経質で派手になり、妙に不愛想な態度をとる場面も増えた。
そのような変化はタキや両親を密かに心配させ、イレクトロからは完全に無視されたが、エンマに新しい人間関係を齎した。今日のパーティーの主催者もそうだ。
「エマ、今日は来てくれてありがとう!でも心ここにあらずって感じね?」
両親以外は彼女の事を英語風の名前で呼ぶ。
「いえ、何でも。ジュリエット、今日はお招きいただき本当にありがとう。」
「急に誘ったから来てくれるとは思わなかった。嬉しい。」
ジュリエットはオリーブ色の髪を弄りながら、フレンドリーで単純そうな笑顔を浮かべた。
「タキ以外に知り合いはいるの?」
「いいえ。特には。」
タキはファッション誌の撮影アシスタントだが、風景写真の専門家となる夢をまだ諦めていない。彼は自分自身の将来展望の不確かさこそが、モデラ夫妻がエマと自分の関係を見て見ぬ振りして縁談を進行した原因だと考えていた。そしてその「見て見ぬ振り」が、夫妻のタキに対する身に余る配慮だとも理解していた。だがエンマから夫について「相談」を受け、面識の無い夫に怒りを覚えた時、彼は悩みに悩んだ挙句、結局自分からエンマの両親に談判する勇気は持てなかった。勿論傷心するエンマと距離を置くことなどできない。自分の将来も愛する人も叶わないどころか、タキは最も中途半端かつ不名誉な状況に陥っていた。
そのタキにとって、ジュリエットはまさしく恩人である。事の始まりは昨年の冬、ジュリエットは自身の経営するギャラリーで彼の個展を開催してくれたのだ。そしてタキがアテネ市主催の五輪記念写真集の担当カメラマンに採用されたのも、誰も明言しないがジュリエットの口添えがあったらしい。今日のパーティはその祝賀会兼慰労会でもあった。
「それで、また何か悩み事?」
「いえ、別に……。」
ジュリエットは大きな目をぎょろつかせた。
「そうだ、実は今日のパーティ、本当はコロナキ・ホテルで開きたかったのよ。でも調査共有委員会の改正条約がどうのこうので結局会場を借りられなかった。」
「そう、私は委員会と無関係だけど、なんだか申し訳ないわ。」
ジュリエットはエマとタキの関係を知る唯一の人物である。恩と弱みの優位を自認しているのか、或いは生来の性格なのか、ジュリエットには高慢で試すような発言が多かった。
「あらら、無関係って事は無いでしょう?」
「まあ、そうかもしれないわね。」
「最近何かと話題に事欠かないものね。リゲルとかいう偉い人が亡くなったのもニュースで見たし。」
「ええ……。」
ジュリエットは相手がわずかに言葉を濁したのを見逃さなかった。
「もしかして知り合い?」
「父の、よ。人が亡くなったのだから、家で話題に上るのも当然でしょう。」
「確かに重要よね。人間の死が歴史を作るって、モデラ委員長も言っているもの。」
「聞いたことないわ。普段父とはあまり話をしないの。」
エマは早く話を切り上げたいと焦った。ジュリエットはどんな話題であろうと相手の神経を逆撫でするような発言をする。それが父の話題では堪ったものではない。
「こんな話を知っているかしら。昔、とても権威ある男が実娘の不貞を糾弾し、娘は自ら死を選んだ。でも彼女は誰もが認める善良で純粋な心の持ち主で、不貞行為は悲恋の結果と言えなくも無かった。完璧主義の父親さえ指摘しなければ、きっとなあなあで済んでしょう。だけど叙述家はその事件を記述する際、「糾弾の事実」だけを根拠に彼女を淫婦と表現した。そして彼女は後世姦淫の象徴になったわけ。」
エマはジュリエットの口から不貞や父親の単語が出るたびに慄き、会場の誰かがこの話に聞き耳を立てていて、タキと自分の関係と重ねるに違いないと恐れた。
「委員会と何の関係も無いじゃない。それに……タキとのことは自分でも悪い事だと重々承知しているから、わざわざ皮肉にしなくて結構よ……。」
ジュリエットは手をひらひらと振った。
「「悪いこと」?善悪も倫理も所詮昔の人の幻想、その本質を吟味しないまま今に受け継がれているだけよ。そんな曖昧な幻想が、自分を正当化したり他人を貶めたりする程の根拠になり得ると思うの?」
「何が言いたいのか分からないわ。」
「そう怒らないで。あたしが言いたいのは、彼女が善人になるか淫婦になるかは、本人の美徳悪徳とは無関係で、ただ個人に対し限りなく無責任で恣意的な記述によって決まるものだってこと。それが「歴史」になる。これについてモデラ委員長はどう考えているのかしら。」
「父の考えを私が知るわけがないでしょう。それに本当にお願いだから、余り話題にしないでもらえる?」
ジュリエットは鼻で笑った。
「ところで今のように考えると、貴方のお父様の試みは奇矯だと思わない?調査共有委員会は現代的問題の淵源となる歴史解釈等の対立に話し合いの場を設け、中立の名の下に共通見解の成立を以て解決とする。彼らは過去を説明した無責任で意図的な言葉を取捨選択して、世界中を同じ過去に結び付けようとしている。そんなことをして何になるっていうの?」
エマは得意げに言い放つジュリエットに苛立った。
「……無意味と言いたいのかしら。でもあなたに一言で片づけられるほど単純な話でもないわ。」
「へえー、そうなの?」
ジュリエットは下品な笑みを浮かべた首を大袈裟に傾げた。エンマはどうにか怒りを抑えて、問題児を優しく諭すような口調で説明した。
「別に委員会が何もしなくとも、誰かによって常に歴史は選択されているのよ。違うかしら?それに委員会は話し合いの場を用意するだけ、歴史自体が父たちの好き勝手になるなんてありえない。今現在どの歴史に拠るかは、結局今それを選択できる強者に委ねられている。だから委員会はより中立的な立場から、皆が納得できる話し合いの場を設けようとしているのよ。無理とか無駄とかは関係ない。態度の問題だから。曄蔚文博士の「提唱」を読めば分かる事ですけどね。」
ジュリエットはふんふん頷きながら言った。
「あたしも読んだ。彼は自国史の研究者だったけど、自国の研究水準よりも、かつて中国大陸を植民地化した列強諸国の方が遥かに高い事を問題視した。だからかしら?特に若い頃の曄蔚文の論文からは、「記述によって自己を他者に把握される感覚」に対する強烈な拒絶の意思を感じる。記述を生業にする人は、決まってペンは剣よりもーって言うわけだけど、確かにその通りよね。ある刺殺事件が記述される時、事件は既に記述者の所有物なのだし。たとえ事件を生んだ加害者の手からですら、記述者は当然のように奪い取る……。」
ジュリエットは猫撫で声でさらに言い聞かせた。
「でもね、ペンが何処にでもあるように、それは何処ででも起きたこと。ここ50年のギリシャだって、そういう問題と無縁ではなかったでしょう?」
「つまり何が言いたいの?何か説教されている気がする。」
不愉快さを隠さないエンマの問いに、ジュリエットは全く悪びれない表情で答えた。
「エマには難しかったかしら?例の「総論」を出す時点で、委員会の活動は「過去」を選択し記述できる者の無意識的な傲慢に過ぎないってこと。」
エマはジュリエットに詰め寄り大声で詰った。
「傲慢!?父たちは自分の使命をちゃんと理解している!途上国や紛争地域で、父が現地の人に頭を下げて歴史のアーカイブ事業に加わって貰っているのよ! 彼らは見向きもしてくれないし、先進国出身のボランティアに至っては役立たずの邪魔者扱いする人もいる。今役立つ技術や医療、教育の方はもちろん重要よ。それにあなたの言葉を借りるなら、歴史に関心なんて持たない方が、記述者である先進国にとって都合の良い場合も多いでしょう。でも曄蔚文さんも父も、それでは駄目だと思っている。無責任だろうと傲慢だろうと、自身の歴史を自らの意図を以て記述する、その意義を理解し助けたいと思っているのよ!!」
エマは興奮した調子で一通り喋り倒した。周囲はしんと静まり返っている。まもなく雑音が戻り始めると、正装姿のタキが血相を変えて飛んできた。
「エマ、大丈夫か?」
「え、ええ。ごめんなさい、本当に……。」
「いや構わないよ。ジュリエットも?」
「どうもカレニコス君。楽しんでる?」
「ジュリエット、彼女を揶揄うのもほどほどにしてあげてください。」
「ごめんごめん。モデラ委員長のご令嬢と話せる貴重な機会を無駄にできないでしょう。」
「勘弁してくださいよ。」
「私……。」
熱弁を顧みて赤面する恋人に、タキは親切な微笑を向けた。
「大丈夫、誰も気にしてない。俺が言える立場じゃないが、君のお父さんは尊敬すべき人だと皆分かっている。でも君が心配だよ。少し外の空気を吸おう。ジュリエット、すみませんがちょっとの間抜けてもいいですよね?」
「もちろん。あたしも言い方が悪かったわ。お父様を軽んじるつもりは全然ないの。ごめんね。」
「いえ、私こそ、場を白けさせて本当に申し訳ないわ。」
「エマ、行こう。」
タキはエマの肩に手を添えて歩き出したが、会場の扉を抜けた辺りでエマは足を止めた。
「ジュリエットは気を悪くしたに違いないわ。私たちの弱みを握っているのに……。」
「まさか、さっきのような場面で不機嫌になる人じゃないよ。だが君が大声で話すなんて珍しい。いや、初めて見たか。」
「自分でも驚いたわ。ジュリエットがああいう性格だって知っているのに、ついむきになって話過ぎてしまう。」
「俺もだよ。方法は最悪だが、彼女は相手の話を聞きだす事に長けているのかもね。」
「でもさっきは目立ちすぎたわ。私たちの関係がばれたら……。」
「堂々としていれば大丈夫だ。まさか今日の君を誰かが「無責任に」書き留めるとでも?」
実際タキの言う通り、エマの心配は完全に杞憂だった。二人が出て行った会場では、再びドゥーセの編曲が雰囲気を和らげ、ラウンジはすぐさま元通りである。いつも不真面目な主催者が見知らぬ誰かを怒らせるなど正に茶飯事、記述どころか誰の記憶にも残るまい。
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