第25話 アルファルドの館
「あらら、インク切れだ。ペン借してもらえる?」
ペレウスはカバンのポケットからイレクの「ペリカン」を差し出した。アルファルドは4,5度回してふむふむ言うと、ズヴェスダ宛の手紙と同じ典雅だが怠惰な字を並べ始めた。
ミラ博士
曄蔚文博士
李魁博士
セルゲイ・コブリーツ氏
「ズヴェスダ」
エクイタス・モデラ委員長
リゲル・サンドラ元北京本部長
楊何業上級委員
李奇代表
ペレウス・フィデリオ新北京本部長 及び
弟イレクトロ・フィデリオ上級委員
フェイトン・イエ
マリアン・コブリーツ
アルファルド
「まずフェイトン君がここへ来たのは、曄蔚文博士の意思だ。君が偶然コブリーツ邸に行くと知った彼は、大変回りくどい方法で我々にファイルを送り、なおかつ君の保護を任せた。なぜって彼はもう身動きが取れる状態じゃなかったから。……そうだ、まだお悔やみを言っていなかった、気が利かない奴で申し訳ない。博士のこと、心から哀悼の意を示したい。」
アルファルドはまるで聞き手の存在を無視した口調で、用心深く耳を傾けていたフェイトンですら、相手が祖父に追悼の言葉を述べたとすぐには気づかない程だった。一拍置いて彼は琥珀色の双眸を見上げた。
「恐れ入ります。それで、このファイルと祖父の死には関係があるのですね?つまり改正条約について書かれているのでしょう?」
アルファルドは一人離れた椅子に座るカラーを一瞥して言った。
「まあ落ち着いて。それはファイルを解読処理すれば分かることだ。ところで20日の会見で司会をしたペレウス君に聞きたいのだが、改正条約によって何が変わるのかな。」
アルファルドは品定めでもするようにペレウスにペン先を向けた。無礼な行動に思う所がない訳でもないが、ペレウスは努めて淡々と答えた。
「主に加盟主体の拡張と、総論の周知方法の強化です。前者は具体的に言えば国家という加盟資格の撤廃です。後者についてはインターネット関連条項が追加されます。尤も運営の大元となる大綱の内容自体は現行のものと変わりません。むしろ大きな変化というのは―――。」
「「条約改正に伴う所謂主要先進国を含む加盟国の増加」だと。所謂と付けたのは嫌みじゃない。生憎主要な先進国とかいう珍奇な概念に縁遠くてね。」
「それを皮肉と言うのでは。」
マリアンはぼそりと呟いた。彼は一応敬語を使うものの、アルファルドとは相当打ち解けた関係に見える。
「ともかく不思議なことに、誰に聞いても口を揃えて同じ事を言うんだ。あはは、まるで刷り込みされたみたいで不気味だなあ。フェイトン君、その電子ファイルをこちらに。」
フェイトンは電子アルバムをそっとテーブルに置いた。
「ありがとう。私も詳細は知らないが、これは軍事的な目的の下で試作された携帯用通信機らしい。なんでも特殊な設定が施されていて、同じ機器同士で独立した通信が確保されるとか。」
「祖父の知人が作ったと言っていました。」
「そうか。彼は幅広い交友関係の持ち主だったからね。例えば私とか。」
「ですが肝心のファイルの内容が読めません。文字化けなのでしょうか。」
「それはそうだ。さっきも言ったけど、これは特殊なソフトを使わないと解読処理できない。でも大丈夫、それを設計した人間がここにいるから。」
アルファルドはマリアンに機械を渡した。彼は決まりが悪そうに言った。
「別に僕が作者だという必要ないのに。」
ペレウスは突然の展開に呆気に取られた。
「え、ちょっと待て、君が?すごいな。」
「すごくはない、趣味の範疇を出るものじゃないし。単に僕は言語学専攻で、特に得意なのがC言語ってだけ。君だってピアノが弾けると態々僕に言わないだろ。それと同じだよ。」
「同じではないだろ……。」
「あはは、まあそういう訳で、連絡手段を設けるに当たり、ハードを博士が、ソフトをマリアンが用意したのさ。中身を読まない限り詳細な情報までは分からないが、このファイルは改正条約に関する機密事項だ。曄蔚文博士や私たちは、改正条約の成立を阻止したいと思っているのさ。」
ペレウスは驚いて言い返そうとしたが、彼より先にフェイトンが口を開いた。
「じゃあその事が露見したから、祖父は殺害されたのですか?」
「私はそう考えている。そしてそれはリゲルも同じだ。彼女も協力者だったから。」
「リゲル本部長は病死だと……。」
途端にカラーが恐ろしい剣幕でペレウスを睨みつけた。
「貴方は死んだ時の状況を見たの。それとも誰かの言葉を鸚鵡よろしく繰り返しているわけ?」
「カラー、抑えてくれ。彼は―――。」
何か言いかけたマリアンは、アルファルドに制止された。
「ペレウス君、カラーが無礼な態度を取って申し訳ない。彼女はリゲルと特に親しかったんだ。アテネをとんぼ返りして彼女の葬儀に参列した位だ。君の眼にどう映るか知らないが、私は何も妄想をまき散らしているわけじゃない。もちろん君が口を開けるだけの雛鳥でない事も承知しているよ。」
「……いえ、私こそすみません。完全に失言でした。ですが曄蔚文博士が条約改正に反対しているとは、俄かに信じがたいと思います。」
フェイトンはおずおずと尋ねた。
「すみません、僕もペレウスさんと同じ意見です。祖父はモデラ委員長やリゲルさんと一緒に改正条約を推し進めていると思っていました。」
「初めはそうだった。だが途中から変わったんだ。」
「では祖父を殺害したのは、祖父の心変わりを見抜いた改正推進派の人という事ですか?……モデラ委員長なのでしょうか?」
「実行犯ではないと思う。ただ彼が完全に無関係とは考え難い。」
フェイトンは顔を蒼くして言った。
「信じられません。モデラさんは祖父の事を大変気にかけてくださいました。モデラ委員長は犯罪を見過ごす人ではないと思います。もちろん李奇君…李奇代表も。」
ペレウスも続けて言った。
「私もそう思います。モデラ委員長は常々博士を組織運営上の師と仰ぎ慕っていたように見えました。」
「そうか。君らの考えを端から否定する気はない。だがより詳しく経緯を説明する必要がありそうだ。まずは博士たちと私の関係から、ね。」
アルファルドは囀るように軽やかな調子で話し出した。
「……この館の調度を見れば分かると思うが、私はそれなりに大富豪だ。知り合いも多い。曄蔚文博士もその1人だった。私の金ではないが、調査共有委員会には何度か寄付をしたことがあってね。委員会は長らく深刻な資金不足だっただろう?曄蔚文はお礼がしたいと連絡を寄越してきたんだ。」
「ではその時に祖父とお会いになったのですか?」
「ああその通り。最初は私の思想を探っている様にも見えたな。だが私が正真正銘の有閑貴族だと知ると、人畜無害な厭世家に色々話してくれたのさ。更なる寄付を募る算段だったのかな。」
「寄付についてはお礼のしようもありません。まだ財政難は続いていますから。」
「だがそれも改正条約成立と共に終わるだろう?出費も増えるだろうが、それ以上に新規加盟国からの拠出金が爆増するからね。しかも揃いも揃って金持ち国家ばかりだ。まあその話はあとで。私が彼と会ったのはその2、3回きりで、1989年に彼が帰国して以後は顔を合わせる機会もなかった。」
フェイトンは自分が大学に入学するまで、1,2泊程度の国内出張を除き祖父が一度も家を空けなかったのを思い出した。
「一方で私はリゲル本部長とも面識を得た。そして2年前、彼女からある話を聞いたのだ。」
リゲルは自分たちの推し進める改正条約が乗っ取られると相談してきた。聞くに、もともと曄蔚文、リゲル、モデラたちが共有してきた計画に第3者が介入し、委員長であるモデラに取り入っているという。委員会としての行動に限界を感じた彼女は、委員会外の協力者としてアルファルドを選んだ。
「私は私にできる事をした。つまり「第3者」が誰なのかを調べた。結論から言うと、その人物も私と似たり寄ったりな性質の持ち主だった。」
「つまり時間を余したお金持ち、ですか?」
彼はフェイトンの言葉に頷いた。
「君なかなか言うねえ。まあそんなところ。」
「すみません。ですがなぜアルファルドさんに協力を依頼したのでしょう。」
「簡単簡単。私が博士と面識があって、とても裕福で法律を破ることに何の躊躇もしない、などなど。」
「最後は堂々と言っちゃだめですよ。」
マリアンの言葉に、彼はお互い様でしょと言い返した。
「曄蔚文とリゲルは外出も儘ならないほど厳しい監視下に置かれていた。そうなることを見越して用意した非常時の連絡手段がその機械だ。2台の機械と専用のソフトが入ったコンピュータの間だけで成立する秘匿された通信、とでもいうのかな。1台を受け持った曄蔚文博士は、本当に重要な時に備えてご令孫に託した。反対派とも賛成派とも完全に無関係だが、学生として割合自由な行動ができ、自分の思考の痕跡を読み取れる存在として。」
「リゲルが入院してからも彼は1人で調べ続け、先月遂にファイルの元となる情報を入手した。」
「アテネで、ですね。」フェイトンが付け加えた。
「ああ。それが露見したから君たちは追われたのだと思う。中国人だというから、きっと楊何業か李奇の一味だろう。さっきの拠出金の話ではないが、中国は改正条約後の委員会において、なかなかのイニシアティブを執るらしいから。」
アルファルドはペレウスを凝視したまま言った。
「まあ創設理念を提示したのは中国人だから、当然といえば当然かな。そして当の「提唱」者は、孫から謎の偽訃報を聞いて自分の死を覚悟した。」
「じゃあ僕の電話が……。」
「そうじゃない。」
カラーの言葉は短く淡泊だが、傲慢で冷笑的な態度は影を潜め、口調には思いやりが滲んでいる。
「まあ曄蔚文博士の最期は私の想像でしかない。なんたって直接連絡を取っていないから。連絡を担っていた御仁とは念のため連絡を控得ているが、彼も曄蔚文の死に深い衝撃を受けているだろう。」
「連絡を担う方?」
アルファルドは非常に美しい微笑みを湛えた。まるで世界に少しの頓着も持たないような清々しい顔で、彼は名前を二重線で結んで言った。
「そうだ、私にこの話を伝えたのは李魁博士さ。」
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