第23話 協力関係

 イレクトロが退出すると、廊下の少し先に李奇が立っているのが見えた。イレクは可能な限り冷ややかな表情で言った。

「李奇代表、まだモデラ委員長にご用事が?」

「いえ、特には。ただ「協力者」を見て、どうにも理解が追い付かなくて。」

「そうですか……。」

「やはり彼女たちが委員会に協力する理由が分かりません。」

「同感です。改正条約のためという話ですが、問題はユリアがなぜ改正条約に執心するのかでしょう。」

「あの言葉の濁し方から想像するに、モデラ委員長も分からないのでは。彼女の目的を探らないと。」

「李奇代表がですか?」

李奇は手振りでイレクを促した。李奇は廊下の突き当りを曲がった所、非常階段から屋上に出た。

「こんなところ、勝手に入って大丈夫なのですか?」

「今の所誰かに鉢合わせたことがないので、大丈夫かは分かりません。中国代表が喫煙室を探して徘徊するのもという理由で教えてもらいました。」

徘徊はともかくアテネ本部のセキュリティ不備では?イレクの心配を他所に、李奇は悠長に曇天を眺めている。

「アテネ本部は喫煙家に厳しいな。建物の外に出れば、街中至る所に吸い殻が落ちているのに。……おひとついかがです?」

李奇はイレクに紙巻たばこを差し出した。

「いえ、私は……。この匂いは?」

「オスマンサスです。」

「珍しいですね。」

「実は私の父が昔ブレンドしていた物を真似た物で。」

「李魁博士が?」

イレクが意外そうに聞き返すと、李奇もまた驚いた様子で尋ね返した。

「ええ。父の名前をご存知でしたか。」

ユリアの衝撃で感情が高ぶっているからだろうか、イレクは相手に伝えるつもりの無かった事実を口にしていた。

「もちろん。「提唱」の執筆者というよりも、個人的に尊敬する学者として。私の研究も博士の分野と割合近くて、英訳された論考だけですが大体読みました。中でもやはり『ストーン・シティ』には大変感銘を受けました。」

「そうですか。そんな事、ここに来て初めて言われたな。……よろしければおひとつどうぞ。」

「ええ、ありがとうございます。」

湿潤な香りの中で李奇の口調はどこまでも淡泊である。だがイレクの目にも彼が内心喜んでいると見て取れ、自然と葉巻を受け取ろうという気分にさせた。

 李奇はイレクが火をつけ終わるのを待って言った。

「イレクトロさんはどう思われますか?」

「「協力者」の目的を探る、ですか。正直今するべきとは思いません。今は脅迫状に集中しましょう。」

「それはもちろんです。でも私は敢えて同時進行するべきだと考えています。私は所詮部外者なので、アテネにしろ北京にしろ委員会の内部情報は把握していません。ですがモデラ委員長たちは中国を改正条約成立後の重要なパートナーと位置付けています。それに関しては、有益な情報を提供できると思いますよ。」

「有益な情報?」

李奇は窺うような視線を寄越した。イレクがどこまで知っているのか見定めているようにも見える。

「貴方が知らないのも当然ですが、9月の改正条約は単なる条文上の変更に止まりません。私はそれがユリアの目的と合致しているのではと思うのです。」

「改正内容は調査対象の拡大と総論の周知方法改善の2点だけのはずです。」

李奇は頷いた。

「それはあくまで表向きの話。モデラ委員長はまだ貴方にその詳細を明かしていませんが。ただ条約改正の経緯に関する疑問、先ほどのユリアやモデラ委員長の言葉を合わせるに、私には彼女の目的に関して一応見当がついています。それを確かめるために協力して欲しいのです。」

「「見当」ですか。ですが目的を明らかにしてどうするのです?」

「彼女は改正条約成立後の委員会運営にも口出しする可能性があります。何もかもユリアたちと方向性が合致すればいいですが、そうでなかった場合、彼女の「感動」は大変な脅威になるでしょう。」

「それは確かに。だから予め彼女の方向性を見極めようという話ですか。ですがなぜモデラ委員長は私に改正条約の詳細を隠しているのでしょうか。」

すると李奇は独り言のように声を低めて言った。

「一番は、貴方が私たち中国人に反感を持っている事を懸念なさったのだと思います。さっきも言った通り、条約改正には私の母国が深く関係していますから。或いは貴方のお兄様と楊何業の関係を疑っているのかも。ご存じと思いますが、モデラ委員長は楊何業に強い不信感を抱いていますから。」

「ペレウスも疑われているのですか?」

「それはまあ。楊何業の息の掛かった人間だと思われているのではないでしょうか。尤も私個人は、彼が本当に何も知らないまま推薦されたように思いますが。」

「どういうことです?」

「楊何業は部下を信用しないからです。彼は下手に自分の手の内を知る人を任命するくらいなら、重要なポストには全く無関係の人を宛がう人間です。後はペレウスさんと何度か打ち合わせをした印象でしょうか。戸惑いになっていましたよ、純粋に。」

「では楊何業上級委員はどういうつもりなのでしょう。私に中国人の発想は分かりかねますが、李奇代表は同郷としてどう思われますか?」

李奇は苦笑した。

「私と楊何業にあるのは、上級委員と国家代表の利害関係だけです。正直彼の行動には恨みが多い。彼は度々「提唱」の論理に反した行動を取るから。」

「彼が私の兄を推薦したのも、「提唱」に反した意図に基づく行動でしょうか。」

「分かりません。ペレウスさんの経歴ならどこかの本部長に推薦されでも不自然ではありませんが、やはりやや突飛な印象を受けたのは事実です。」

「そうですか。」

「ただ私も彼の人事には賛成しました。」

「え?」

 李奇の指先からは灰の塊が落ちた。

「彼の大変真面目で慎重、かつ自己評価の低い性格には、個人的に高い評価を下しているので。ご本人の性格がその善良さに気づかせないのは残念ですが。」

「高い評価?それこそ初めて言われました。」

驚くイレクに、李奇は淡々と説明し始めた。

「同列に考えるのは失礼でしょうが、私も少なからず思い当たるのです。自分の思考が自分に二の足を踏ませる、それに彼がどれ程辟易しているか。そして明るく単純な市民生活において、それに類する苦悩が軽視され理解されえない事も。損な性格ですが、私は自信過剰にならずに慎重な決断ができ、なおかつ間違いだと思った時に引き返せると自負しています。職業柄重要な決断を下す立場にありますから。自賛に聞こえるでしょうが、自然と私に似た人を信用したいのです。」

李奇は話しながら自分の饒舌さに驚き、イレクは李奇の言葉を素直に喜んだ。兄にこのような評価を下す人間は殆どいなかったからだ。李奇は熱弁を濁すように尋ねた。

「ところで、なぜ貴方ははお兄さんの人事に反対したのです?」

イレクは突然質問を振られて一瞬呆気にとられた。

「私は……、いや、兄が何か悪い事態に巻き込まれるのを心配して。だってペレウスは古代ギリシャ考古学が専門ですよ?なのにいきなり北京本部長とか、どう見ても不自然でしょう。」

それを言うなら、リゲルは中東の古文献学者である。その程度の曖昧な理由で、イレクはあれほど頑迷な態度を取ったのか。李奇は不思議に思ったが敢えてそれを口に出そうとは思わなかった。

「確かに不自然です。ユリアの目的を探れば、楊何業の推薦意図も分かるかもしれません。彼も表向きは大いに改正条約を支持しているので。そうなれば、ペレウスさんが問題に巻き込まれていないかも調べられるでしょう。協力していただけますか?」

「ええ、そういう事なら。私にできる事であればですが。」

 李奇は一息ついた。一先ず協力関係の成立とみてよさそうだ。

「さっきも申し上げた通り、モデラ委員長はまだ真相を貴方に伝えていません。ただ遅かれ早かれ知るはずの事ですし、私が今明かしたところで大きな支障にはならないと思うのです。イレクトロさんがお知りになりたければ、私は打ち明けるつもりでいますが……。」



 8月26日。イレクが委員長執務室を訪れると、モデラは開口一番忌々し気に尋ねた。

「君はお兄さんがアテネから直接北京に向かうと言ったな。だが彼はスロヴェニアに滞在していて、更には曄蔚文博士のご令孫と共に姿を晦ましたらしい。」

イレクは眼を見開いて聞き返した。

「え、そうなのですか?」

「楊何業上級委員と李奇代表の部下が、フェイトン君を探していたのは知っているだろう?その途中で偶然見かけたそうだ。この建物で彼を一番知るのは君だ。それにフェイトン君個人と面識のある数少ない職員でもある。彼が何のつもりなのかすぐさま調べてくれ。」

「兄に何かあったのでしょうか?」

「私が聞きたいよ。だが北京本部のリゲルが急死し、北京在住の曄蔚文博士が殺害された今、新北京本部長にしては余りにも不用心ではないか?それに直接上下関係に無いとはいえ、彼は君という上級職員に虚偽の報告をしたことになる。」

「そのような事はありません。」

「ではそれを証明しなさい。中国は不案内だろうから、李奇代表の手を借りると良い。」

 イレクは李奇の名前を聞いてぎくりとした。彼と秘密を共有し、ユリアの周囲を嗅ぎまわっている事が看破されたと思ったからだ。だがイレクが頷くのを認めると、モデラは忙しない態度で彼に退出を命じるだけだった。

 イレクは身支度を済ませると、急いで無人の自宅アパートに戻った。自室のパソコンを起動し、彼は早速クレジットカード会員サイトにログインした。それはペレウスのカード情報だが、ペレウスは弟による不正ログインの事実を知らない。利用詳細を見ると、彼は確かに航空券と列車のチケットを予約している。おそらくこれでリュブリャナに向かったのだろう。彼は密かに複製した兄のアパートの鍵を手に取り、念入りに身なりを整えると、薄っすら陽炎が浮かぶ道をネア・スムルニ地区へと急いだ。

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