秋 寒い雨Ⅰ
さらりとした涼しさを纏う時季を迎えると、すっかり陽の沈みが速くなり、夕食前だというのに山の向こう側へと消えていく。窓辺から覗く宵闇には何も映る気配もないまま、細やかな音だけが途絶えず響いてくる。二、三日前から降り続いている針のような小雨によるものだ。やわらかな遠音は不思議と湿り気を感じさせず、何処か乾くような重みがあった。
「ああもう、今日は冷えるわね」
台所に現れたマーガレットが、耐え難いと言わんばかりに薄手のショールを肩まで引き上げた。数日前までは薄手の長袖一枚で事足りていたのに、雨空が引き連れて来た冷感が一気に体温を奪っていく。冷え果てた指先を、無意識に擦り合わせた。キッチンストーブに近い作業台の隅に座れば、夕餉の支度をしていたジョシュアがすぐさまミルクティーを差し出してくれる。
「お疲れ、メグ。これでも飲んでゆっくりしておくれ」
マーガレットは礼を言うと、湯気の立ち昇るカップからゆっくりと口に含んだ。喉奥へと通り抜けたのはふくよかな香り。甘くてうっとりする気分と共に、心身が温かみでほぐされていく。
「珍しい味ね……。数種類のスパイス入りかしら?」
「東の異国の飲み物だよ。ヤギのミルクを使う場合もあるみたいだね」
「へえ、あったまるし、寒い時には打ってつけだわ。これなら冬越えもバッチリね」
「最近は何かと忙しそうだし、気分転換も兼ねてね。商談はまとまりそうかい?」
「そうね、目ぼしい取引先のリストアップは出来たわ」
マーガレットは機嫌良く微笑むと、手に抱えていた書類入れを開いた。一枚ずつ捲って、リストに目を通していく。
「地熱都市プロパス、商業都市クックリア、聖草都市エルベルト……ぜーんぶ七大都市から。うふふ、上顧客の匂いがぷんぷんするわ」
ジョシュアもつられるように口元を綻ばせる。
「君の努力が大きな花を咲かせたのかな」
夏の最中に大がかりな解呪の事件があった。
天空都市の奥部にて、黒い装束を纏った輩が二か所に分けて甚大な呪いをかけた。
呪いはたちまち侵攻し、被害は軽症者も含めて百人以上は超えた。その半数以上は重体患者であり、解呪師でもあった。人員不足の中であっても解呪は速やかに行われ、その日の内に収束した。
犠牲を最小限に抑え、その多大な貢献を果たしたのが辺境伯領キャンベル家の独自の解呪法だという。まことしやかな噂として、国中に知れ渡るのはあっという間だった。
噂の要たるは、キャンベル家のお家芸、
解呪師の総本山、天空都市の下において類い稀な実力を発揮させた得体のしれない技術。奇天烈で、異端で、それでいてその力強さは折り紙付きとくれば、誰しも興味を示さないわけがない。
全国の至る所から数多くの関心が寄せられ、噂の真偽を確かめに、キャンベル家には書簡または電話で問い合わせが続いている。
電話窓口担当のリーンは、普段は役割の少ないのもあってか鳴り続ける電話に喜んで応対していた。少女が来るまではマーガレットが行っていた役割だったので、気を削ぐことなく研究に没頭できて非常に助かっていた。
穏やかな秋の風が流れてくると共に、キャンベル家には客人が度々来訪するようになっていた。
リーンがメモをした客人リストに今一度目を通し、その情報にマーガレットは思わず片眉をひそめた。明日に来訪予定の客人の、在住都市の名が気にかかったのだ。
「……魔法都市サザンベル?」
そんな街は国の何処にも在りはしない。遥か遠い異国の名なのだろうか。だとすると、噂の流れ方が妙に早い。何処かで耳に入れたような気もする。本でとりとめもなく目に入れた程度の、それくらい当てのない記憶だった。
「お伽話の街の名前だね」
マーガレットの独り言を拾ったジョシュアが言葉を返してきた。
ああ、そういうことか――リスト名とも照らし合わせ思わずため息をつくと、枠外に『イタズラ電話』と書き込みを入れる。
「月魔女シリーズだったかしら、昔は良く読んだわ。大魔女ルナリアが隠居を決め込んでひっそり暮らしてたところに、魔法使い見習いの子供たちが推しかけ女房よろしく転がり込んで、様々なトラブルを起こすのよね」
「面白かったよね。特に双子のツイン・ベイリーフがなかなか曲者で」
「ワンダー・マッシュルームの話は特にやばかったわね。師匠の大魔女はおろか、国の王様や女王様巻き込んで全員食中毒とか……最後って首刎ねられたんじゃなかったかしら」
「そうなる前に逃げたんじゃなかったかな。確かそれが最後の巻だった筈だし」
『今もどこかで彼らはひっそり生き続けている』――そんな締めくくりだったとジョシュアは懐かしそうにしていた。
「ジョシュの愛読書なんて初めて聞いたかも」
「愛読書なんてものじゃないけど、この時代になっても魔法使いがいるかもしれない、なんてわくわくさせてくれるのが良かったのさ」
「レトロでレアな人種だものね。実際にいるのはどうでも別に結構だけれど、厄介を運んでくるのだけはごめんだわ」
捕縛した後、国中に蔓延していた呪いは一度も発症することなく、それに付いて回る噂の死神も一切姿を見せなくなった。つまりはこの術師が諸悪の根源であると結びつけるのは自然な流れで、余罪を追求するまでは、当面沙汰が降りないのも当然の運びだ。
けれども、何処か胡散臭い――とマーガレットは感じている。
後日に報ぜられた公式通達に、
更に不可解なことに、ヨークラインが解呪を施した筈の最高法師アークォン枢機卿が、術者の呪いによって死亡した。遺体は生前の遺言通り、死の穢れを生まぬ前に速やかにと、事切れて間もなく内々に弔われたという。
学徒区に猛威を振るった呪詛返しは、恐らく
兄は渋い顔のまま、他言無用は枢機部からの厳命、公開された情報だけが真実だとしか漏らさなかった。
けれど今後は極力警戒するように言い渡し、領民にはしばらくキャンベル領内からはなるべく出歩かないこととした。人と物資の流れを把握しやすくするため、領境付近の村とは頻繁に連絡を取り合っている。
キャンベルの領民やフラウベリーの要たるサマーベリーに撒き散らされた呪いも正体不明の輩で、十中八九
反対に、力を極限まで振り絞ったプリムローズは、秋口を越しても未だに全快とは言えなかった。
おかげでこっちも少々厄介になりそうだと、マーガレットは少なからず頭を悩ませている。鬱屈さを滲ませる夜の雨音を聞きつつ、温かなミルクティーで暖を求め続ける。
ガシャン、と向かい隣りのリビングから物々しい音が響いた。
ジョシュアの表情が、いつになく硬くなる。
「メグ。まずは、頼めるかい?」
「……しょうがないわね」
つい面倒そうに口零し、ゆるゆると腰を上げた。
何かが火の着く瞬間は突然で、けれど分かりきっていた必然だ。些細な火種の積み重ねが相まったら最後、燃え広がってどうすることもままならない。
*
雨音は一層硬くなる。リビングの大きな格子窓に絶え間なく叩き付けていく。
「――は?」
テーブル越しに向かい合う少女から零れたのは、底冷えする声音。何処までも昏く、重い。
つららのように鋭く凍てついているのは口調だけではない。ランプの薄明りに浮かんだ紅玉の瞳の色も、少女の心うちまでもが、その冷ややかさに染められている。
「今、なんつった。嬢ちゃま」
つめたい眼差しを真正面から注がれるリーンは戸惑っていた。
プリムローズがどうしてこんなにも怒りに塗れているのか、ちっとも分からなかった。
「もう一度、言って。あたしの聞き間違いかもしれないから」
「あ、あの、
「くそ忌々しい古ぼけ天外魔に敬称は無用」
ぴしゃりと訂正が入って、リーンは硬くなった身を更に強張らせた。
「その、
「うん。どうしたって?」
「手当てしてしまって……」
「どうして」
「だ、だって、苦しそうだったから。どうにかしてほしいって、頼まれちゃったから……」
――ねえ、雪のお嬢さん。君の力でなんとかならない?
そう、身体の不調を訴えられ、困っていたから。弱りきった声を聴いて、どうにかしなくてはと思った。
あの時は街で異変が起こっているのに何も出来ない自分が歯痒くて、だからこそ今、自分に求められることを、出来ることをやろうと強く思ってしまったのだ。
それが、誰かの不都合になるなんて、まるで考えもしなかった。
「馬ッ鹿じゃないの」
プリムローズが蹴り上げたのはローテーブルだった。その拍子で端に置かれたティーカップが落下し、破音と金切り声が同時に響き渡る。
「せっかくあたしが仕留めてやったのに! どうしてそんな不審者を無遠慮に治しちゃったりするわけ? 嬢ちゃまの頭ん中の花咲き具合は一体どうなってるわけ?」
「ほ、本当にごめんなさい! あんな酷いことをする人だとは知らなくて……」
「だから治したってわけ? 酷い人に見えなかったから素直に同情したってわけ?」
「ごめんなさい……プリムに迷惑かけるなんて思ってもみなかったの」
「ふうん?」
背筋を丸めるリーンに、プリムローズは鼻先だけで笑った。
「ごめんで済むなら
ひたすらに冷徹な声を注がれて、リーンの目の奥が熱を持つ。
「プリムー、そのへんになさい。いくらなんでも言いすぎよ」
開け放たれていた扉を二度ノックして、入口に佇んでいたマーガレットが呆れた表情で口を挟んだ。
「悪気があってやったつもりじゃないんだし、この子を蚊帳の外へ押しやったのがそもそもの原因でしょ」
ヨークラインの判断の下、黒い装束を纏う怪しい人物がいることは伏せられていた。リーンが
「リーンに情報共有をしなかったあたしたちが言えた義理じゃないでしょ」
「しなかったのはにいちゃまのせいだし、蚊帳の外にしたのはねえちゃまよ。あたしじゃないもん」
「屁理屈ばっかこねないの。思い通りにならなかったからって、リーンに当たるのは筋違いよ。あんたの怒りの矛先は、今何処に向いているつもり?」
目をすぼめたマーガレットの淡々とした言葉に、プリムローズはぐっと口をつぐんだ。途端にぶりかえしたような咳を一つ二つするが、見られたくないのかツンと顔を背けてリビングを後にしようとする。
「あの、プリム、本当に……」
「許さないから」
リーンが言い募ろうとしたが、プリムローズは冷ややかな眼力でそれ以上の言葉を封じ込めた。
「嬢ちゃまのばか。……ばかばかばかの、すっとこどっこい!」
そう吐き捨てると一目散にリビングから飛び出していき、やがて階段を駆け上がる音が続いた。
リーンは俯いて、床に散らばったティーカップの破片に視線を降ろした。白磁器に描かれた模様は、幼い少女の名と丁度同じの小花柄だった。
「一緒に片付けましょうか」
マーガレットが優しく声をかけてくれるので、リーンはすんと鼻をすすってからゆっくり頷いた。
ばら撒かれた破片を雑袋に押し込み台所の隅に置きやれば、マーガレットはやれやれとため息をついた。
「あの様子じゃあ、当分下には降りてこないわね。ジョシュ、後でプリムの部屋に食事を持って行ってくれる?」
「了解。どうやら逆鱗に触れてしまったようだね」
苦笑するジョシュアは、それならばと作業台に三人分の食事を並べ始めた。全員が揃わない食事の場合、台所で済ますことはしばしばあった。
さっそく温かなスープから手に取ったマーガレットは、パンを浸しながら申し訳なさそうにぼやく。
「ごめんなさいね。あの子、めちゃくちゃ苛立ってるのよ。積もりに積もったフラストレーションが、あなたの言葉が引き金になって爆発したってだけだから」
具沢山のトマトスープ、塩サバとポテトのハーブグリル、キノコと魚介類のマスタードマリネ。目の前には今日も美味しそうなごちそうが並んでいたが、リーンは席についてもうなだれるばかりだ。
「……うん、機嫌が良くないのは分かってたわ。それでも私にはいつも優しかったから、余計にどうしちゃったのか本当に分からなくて……」
雨の降り始めた数日前から特に塞ぎ込んでいたようだった。外に出られないことが不満なのか、妙にそわそわしていて、家の中ではいつも誰かと共に過ごしていた。
今日はリーンに声をかけ、一緒に内職でもしないかと、いつもは施錠されている治療室に手招いてきた。窓際の作業台で、
多種の薬品が練り込まれたインクを用いて、紙札や羊皮紙に、見本を元にして一枚ずつ書き起こしていく。不慣れなリーンはカーボン紙で幾何学模様を写し、上からなぞっていった。
プリムローズは見本すら見ずに、白紙の上に迷いのない線を描いていく。家では手持ち無沙汰にしていると、刺繍やレース編みをしていたり、こうした手先の器用さを垣間見せる。その割にはあまり好きでやっているようでなく、特技で生かす風でもないのが不思議なところだった。
リーンがやっと十枚程こしらえる頃には、立派な束になったものが隣にいくつも鎮座していた。
ジョシュアにそろそろ休憩しないかと声をかけられ、リビングで二人だけのお茶会を楽しんでいた。その時世間話の一つとして、
「そう、メグのことを優秀な技術屋さんだって言ってたの。それが嬉しくて、つい言葉にしちゃって……」
「あらやだ、悪党とはいえご長寿魔法使いのお眼鏡に適うなんて光栄ね」
マーガレットは満更でもないと、口元を快く緩めた。
「それが気に食わなかったんだろうね、我が家の小さなレディは」
「……あんなプリム、初めて見たわ」
苛烈な衝動を滲ませるのは度々あったが、面と向かって突き付けられたのは今日が初めてだ。そこまで怒らせてしまったのかと消沈しつつも、理解の及ばない戸惑いがそれを上回っていた。
「
ようやく食事に手を付け始めたリーンの近くに、ジョシュアはパンを一切れ差し出してきた。悲しげに眉を寄せて、己の分もよそう。
「あの
「ああ、ブチ切れて
マーガレットがしかめ面しつつ、肩をすくめた。
「反撃された際に怪我しちゃったけど、それは大したことないって言ってたわね。……兄さんに散々叱られたのが堪えたのかしら」
サマーベリー解呪の負荷が予想より深刻だったことも含めて、事態を重く見たヨークラインからは本格的に外出禁止令が出されていた。屋敷周りの庭の散策は許されていたが、ジョシュアの目の届く範囲でのいわゆる監視付きの身の上だった。
「そこはジョシュも珍しく譲らなかったわね」
「不調を黙っていたのはさすがにいただけないからね。まあ、ヨークは把握していたみたいだけど」
「ま、体力回復するなら大人しく寝転がってるのが一番なのよ。咳もまだ止まらないみたいだし」
「で、でも、プリムにとっては、外でのびのび動き回るのが一番気分が良くなるんじゃ……」
リーンがおずおずと口に出せば、マーガレットは苦々しそうに首をひねった。
「それも一理あるのよね~~。でも兄さんの采配はけして悪くないの。全快するまでは大人しくしてもらわないと」
窮屈な思いをさせているのは間違いないが、まだ幼い身体の負担を見過ごす訳にはいかないのが年長組の考えだ。
「何か他に、気分転換になることがあればいいのに……」
リーンは皿に寄せられたベイクドポテトをつつくだけした。やはり、あまり喉に通るような気分ではなかった。
「気にしなくて大丈夫よ。まだ、あなたへの罵りの辛辣度が低かったもの」
「え……あれで?」
「あれで。まだまだ序の口、甘口よ」
冷や汗を流すリーンに対して、マーガレットはケタケタ笑う。
「最後なんか『ばかばかばか』なんて、甘ったるい悪口だったじゃない。だから本当は、あの子もちゃんと分かっているのよ」
「気分を悪くさせてすまなかったけれど、レディのこと、どうか嫌いにならないでほしいな」
「きらいになんて……」
むしろこちらが嫌われてしまった方なのにと、再びリーンは肩をしょげさせた。
「間が悪いのよ。容易に外には出られない、身体は不調続きでままならないしで、それに――」
マーガレットは何処か苦り切った表情で、台所の小さな窓辺を見やった。さあさあと細やかな遠音が絶えず響いてくる。
「……今日は、寒い雨が降っているから」
しんとした声音が、温かな食事を囲む中で妙に影を落として響いた。
リーンが思い当たる節もないまま首を傾げれば、マーガレットは誤魔化すようにからりと笑ってみせる。
「ま、嫌な思い出でもあるんじゃないかしら?」
「メグは知ってるの?」
「さあ? あたしはあの子じゃないから、その冷えきった絶望をそっくりそのままってのは難しいわね」
淡々とした口調が、やけに干からびるようにさらりと流れていった。それとは裏腹の重苦しい言葉に、リーンはそれ以上何も言えなくなる。そろそろと、温くなったスープにようやく口を付けた。
マーガレットは雨粒が叩かれる窓へと再び視線をやった。望んで耳を澄ませているというよりかは、どうにも気になってしょうがないという体だった。いつもは穏やかな微笑をたたえるジョシュアも、今だけは口元を強張らせ、遠い眼差しで外を見つめている。
それは雨空続きでそわそわとしていたプリムローズと似通うものがあった。途方に暮れて佇むだけの、ままならない焦燥。
冷えきった絶望と言い表すその寒々しさを、皆が抱えているのだと思わせるには十分だった。
(……私には分からない、知ることのない、キャンベルの皆の絶望……)
二つの季節を渡り歩いていても、この家には捉えどころのない秘密がまだまだあるのだと、リーンは実感するのだった。
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