第22話 Noah
「二年ぶりか」
木と土で作られた門構えの前でルナはそう呟いた。
ルナの眼前に建つ日本家屋は二年前まで住んでいた高槻家だ。ルナがこの家を出てから二年間、一度も帰ってきていない。それでも取り壊されていないのは、土地と建物の名義がSBに変更されているからだ。まだ若いルナには帰る家が必要だろうと銀次が配慮した。
ルナは誰にも告げずにSBを出てきた。慌ただしい現状も理由の一つだが、言えば止められるのが分かっているからだ。
門を開けて中に入るとルナの予想以上に家屋は荒れていた。名前も知らない草が腰の丈ほどまで伸びていて、玄関の引き戸には蜘蛛の巣が張られている。ココは自分の居場所だと主張しているようで、ルナが鼻で笑う。
それから、背の高い雑草の隙間を抜けて庭へと回る。懐かしい縁側に木製の雨戸、当時よりも古ぼけたようにルナは感じた。
――――よくこの庭でおじいちゃんに遊んでもらったな。
十二年前、地下施設を抜け出したルナが初めて高槻次郎と会ったのがこの庭だ。
そして今度はその地下施設へと向かう、十二年前の記憶を辿って。
*****
ルナは蓋を開けたマンホールを見下ろしていた。
十二年前、外に出る為に開けたマンホールが中へ誘うように深く暗い地中へと続いている。
ルナは穴の中に据え付けられた梯子に足をかけて、ゆっくりと下水道へと降りた。そして、鞄からホルスターとベレッタ、そして懐中電灯を取り出した。ルナが持って来た装備はこれだけだ。
総理官邸、及び総理公邸から地下施設へ行こうとすれば警備の人間に必ず止められる。通行の許可が下りない限り下水道を通る以外に地下施設へ行く道はない。
降り立った下水道は湿気が高く、等間隔でライトが設置されているがそれでも薄暗い。どこまでも続くコンクリートの空洞はまるで丸く切り取られたようだ。ルナの足下には歩行用の足場と流れる下水。異臭がルナの鼻を刺激する。
――――ヒカルさんはきっとあの施設にいる。
そう思えば嘔吐きそうな匂いにも不思議と耐える事が出来た。ルナは記憶を頼りに薄暗い下水道を懐中電灯で照らして進む。
足音と水の音が反響する中、どこを見ても同じような景色に時間の感覚を奪われる。本当に地下施設へと近づいているのか、ルナは不安になってきていた。
しかしそれは杞憂に終わる。
コンクリートの壁が少し窪んでいてそこに扉があった。
――――ここだ。
ルナはドアを開けようと手を伸ばした。
「え?」
誰もいない下水道にルナの声が響く。肝心のドアノブが見当たらないのだ。
扉の四辺端には補強の為の幅20cm厚さ2㎝ほどのフレームが取り付けられ、それと同じ物が左右のフレームを繋ぐように扉の中央にも取り付けられている。さらに左側には金属製の太いアームの様なものが取り付けられていた。
「どうやって開けんだよ」
ルナはもう一度、この扉から出た時の事を思い出す。あの時、ヒカルは行き止まりの壁を押し込んでいた。それに、車の給油口のカバーも、裏側は似たような造りだった気がした。
――――つまり、引くって事?
ルナは扉の真ん中に走るフレームに手をかけた。ドアノブが無い以上、持てる所はココしかない。
「んん、んぅぅぅ」
掌で握るには厚さ2㎝しかないフレームは細すぎる。ルナは指先に力の全てを込めた。顔を真っ赤にしながら扉を引くとカチッと音がして、扉がルナの手から離れていく。
「あ、開いたぁぁ」
息を吐きながら言ったルナの指は小刻みに震えている。
ルナは恐る恐るドアを押して中を除く、見える範囲に動くものは無い。中に入ると十二年前は逃げる事に精一杯で気付かなかったが、思っていたよりもずっと部屋が多かった。
白い壁に囲まれた通路を進んで十二年前に自分がいた部屋に向かう。ガラス越しに見た小さな世界は殺風景で当時の面影は無かった。
十二年前の事件をきっかけにこの施設は公になり、閉鎖された。だから施設内の物が撤去されているのは当然だ。それでもルナはどこか寂しく感じた。
六年間過ごした部屋を後にして、ルナはかつてシーヴェルトが捕らえられていた奥の部屋に向かう。
そこに立つ女性の後ろ姿。くたびれたタイトスーツと黒いヒール。北条ヒカルだ。
前回会ったヒカルは十二年前と変わらない美しい容姿だった。しかし今は髪の毛先から半分ほどまで白髪になって、顔には少しシワが出来ていた。
「『ノア』ここはそう呼ばれていたわ。過酷な環境に陥っても人類が存続していられるように、進化への方舟なんだって」
ヒカルはそう言うと自分の前髪を触る。そして掌を眺めて自嘲気味に笑った。
「思ったよりも、飢えが早いわね」
「ヒカルさん……私を逃してくれた後に?」
「そうね。あの後、シーヴェルトの前まで連れて行かれた私はヴァンパイアにされたわ。それからは、人からもヴァンパイアからも隠れる毎日」
そこでヒカルは一度言葉を切った。
「自分で頭を撃とうとした。太陽の光を浴びようともした。けど……体が動かなくなるの。死のうとしても死ねないのよ。体中に巡ったヴァンパイアウィルスがこの体を守るみたい。でも私は誰かを殺したくない。だから血を飲むのを必死に我慢して耐えた。だけど、髪は白くなり、皮膚は萎んでいく。そして、限界に達すると我を忘れて目の前の人間を襲うのよ……私の意思に関係無くね」
「……そんな」
ルナは今のヒカルにかける言葉を知らなかった。
「死ねない私はおじいちゃんに助けを求めた。不憫に思ったのかおじいちゃんは輸血パックを手に入れてくれたの。そのおかげで人を襲わなくても生きていけた」
視線は白い壁に向けられているが、その瞳には高槻次郎の姿が見えているのかもしれない。ルナはそんな風に感じた。
「でも高遠は……あいつはそんなおじいちゃんを殺したのよ!」
ヒカルは徐々に興奮して声と体を震わせる。
「昨日、高遠は死んだよ? ヴァンパイアに殺されたって」
ルナの言葉を聞いたヒカルが目を見開く。でもそれは一瞬で、すぐに声を出して笑い始めた。
「は、はははっ……いい気味ね。ホントいい気味」
「ねえ、どうして高遠はおじいちゃんを?」
「そこまでは分からなかったわ」
ただ、と付け加えてからヒカルは続ける。
「昔はおじいちゃんがこの『ノア』の管理を任されていたのよ。そして、この施設の研究に疑問を感じてた。でも、公にしたところで政府がもみ消すのは目に見えていたみたい。その上お母さん達や私にまで危険に晒されてしまうのを恐れて公表出来なかったの。きっと高遠とも面識があったはずよ。もしかしたら、『ノア』の関係者と繋がっていたのかも」
「おじいちゃんが、ココで?」
「ええ。輸血パックやルナの戸籍を用意出来たのは、多くの政治家にコネがあるからよ。私が秘書になれたのもそのおかげ」
当時、高槻次郎は輸血パックや着替えをヒカルに与えたり、ルナが小学校に通えるように手を回したりと二人の為に奔走した。
「おじいちゃんの引退を機に、総理の秘書になった私が引き継いだの……いつかこの施設を公表して、政界でふんぞり返ってる非人道的な奴らを引きずり下ろす為に」
そこまで話してヒカルはまた、自嘲的な笑みを浮かべた。
「でも……結局、何も出来なかった」
ヒカルは俯き、両手で腕を抱え込む。先程からずっと体が震えている。
「おじいちゃんの事を調べる内にシーヴェルトは製薬会社を住処にしてる事が分かったの。まあ何処か、までは、分からな……」
「ヒカルさん……髪の毛が」
毛先から真ん中ほどまで白かったヒカルの髪の毛が頭に向かってその白さを増していく。ヒカルは震える体を必死で押さえつけながらも絞り出すように声を発した。
「高遠が死んだなら、もう私が、生きる意味もないわ。ルナ。もう、限界……なの。殺して……早く、私を」
そこで言葉が途切れる。そしてヒカルは顔を上げた。その光などない黒が混じった紅い瞳にルナが映る。
もう一度、殺してと叫びながらもヒカルは両手で床を叩き、勢いをつけてルナに襲いかかった。
ルナの右手が太股のホルスターに納めたベレッタへと伸びる。
ズブリと音を立てて、ヒカルの口元から血が溢れだした。ルナを抱き寄せるように両肩を掴み、その首筋に噛みついて喉を鳴らす。溢れているのはルナの血だ。その血を飲んだ事でヒカルの髪の毛は徐々に黒さを取り戻していった。
痛みから顔をしかめたルナはヒカルの背中に手を回す。この地下施設まで来たのはヒカルを殺す為だ。
「……できないよ」
けれど、固めたはずの決意は簡単に溶けてしまった。
ルナはベレッタを抜かずに、ただヒカルを抱きしめただけだ。
その言葉を聞いてヒカルは我に返る。口の中に広がっていた甘美な味は一瞬で鉄臭い液体に変わった。右手でルナを突き放すと、同時にルナの右太股のホルスターからベレッタを奪う。
そして銃口をルナに向けて睨み付けた。
「甘いわ、ルナ。ヴァンパイアを殺すのがあなたの仕事でしょ?」
「できないよ! 私はヒカルさんを救いたい! 殺して解放してあげようって……何度も何度もそう思った! でも……でも、やっぱり無理。ヒカルさんが大好きだから。私には、出来ない」
ヒカルは涙目になったルナから視線を外して左手を眺める。先程までとは明らかに違う手の感触に、少し神妙な面持ちを浮かべてから再びルナに視線を戻した。
「ルナには、背負わせてばかりね。ごめんなさい。……強く生きなさい」
そう言ってヒカルは笑う。その笑顔は涙に溢れていた。
渇いた発砲音と共にヒカルの頭が勢いよく横に動いた。ヒカルは自分のこめかみに銃口を付けて引き金を引いたのだ。
そしてヒカルは冷たい床に崩れ落ちた。
「ヒカルさん! 嫌だよ! ヒカルさん!」
ルナはヒカルを抱き寄せて何度も呼びかけるが反応がない。右手を伝う温もりはいつも浴びる返り血とは違ってルナに嫌悪感を抱かせる。
嫌だと泣き叫ぶルナの大きな声が響く。
しかし、それはすぐに途切れた。ルナが感じた後頭部への衝撃と鈍い痛みによって。
その場に倒れ込んだルナは薄れゆく意識の中で、傍に横たわるヒカルの手を握りしめた。
失われていくヒカルの体温のようにルナの意識もまた静かに失われていった。
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