土曜の十一時
ふだんの移動を自転車に頼っていると、久々に乗る市バスがなんともだるい。
だいたいが時刻表通りに来ないし、週末なんか観光客らしき人でいっぱいな上に、道が混んでてなかなか前進しない。
で、今日はその週末、土曜日で、私は早くもバスに乗ったことを後悔し始めていた。
やっぱり自転車にして、ホテルに停めさせてもらえばよかった。
このままでは約束の十一時に遅れてしまう。スマホを取り出し、
そうする間も、バスはじりじりとしか進まない。やっと停留所にきたと思ったら、そこでようやく小銭両替する人に、鞄の中何度もかき回してICカード取り出す人。もっと早く準備しといてよ!と見知らぬ人に怒りさえ覚える。
「なんや怖そうな顔してるやん」
ふいに、そう声をかけられ、私は傍目におかしい程の勢いでそちらを向いた。
「あっ、おっ、はっ、どうも」
情けないほど意味不明の挨拶は、おはようございます、と言いかけて、いやそんな早い時間でもないかと思い直したせいだ。
「久しぶりやな」
そう言って笑う
「は、お久しぶりです」
そやし向こうは最初っから久しぶりて言うてるやん。自分で自分につっこみながらも、なぜかこういう台詞しか出てこない。青木センパイは「どこ行くん?」と、いつのも少し眩しそうな目元で問いかけてきて、私は「ちょっと、約束してて」とお茶を濁した。
「俺これからバイトやねん」
バスが揺れて、青木センパイの肘が私の腕に触れる。もっと大きく揺れたらいいのに、と思いながら私はまた「バイトですか」と、芸のない返事。
「
「ホテルモンド?」
「そう。知ってる?」
「ていうか、今からそこ行くんです」
「何やお前、俺がバイトしに行くのに、自分は豪勢にホテルで飯食うんか」
「いや、たんに待ち合わせしてるだけで」
「待ち合わせて、あそこけっこう立派なホテルやで?誰と会うねんな」
「なんか、知り合い、ていうか」
私はあたふたしながら、うっかり口を滑らせた事を後悔していた。
「なんか知り合い、て何やねん。俺もついてって挨拶だけしていい?」
ダメです。とか、断っても全く大丈夫だろうに、私の中の邪な気持ちが、一分一秒でも青木センパイの傍にいたいという欲を優先させて「別に構いませんけど」とか、口走らせる。
さっきまで遅い遅いと思っていたバスは何故だかもう堀川御池にさしかかっていて、私は慌てて降車ボタンを押した。
韓国人らしいカップルに続いて、私と青木センパイはバスを降り、御池通りより少し下にあるホテルモンドへと歩き出す。なんか嘘みたい。このまま今日いちにち、二人でデートだったらと、一瞬の妄想を自分に許す。
「しかし九月になっても京都は暑いな」
「先輩は実家帰ってはったんですか?」
「お盆から先週までな。和歌山の方が南やけど、京都よりなんぼか涼しいで」
「海があるから?」
「そやなあ」
青木センパイは和歌山の先っちょの方、帰省するには電車とバスで六時間というエリアの出身だ。でも私はその辺境さ具合にワイルドなものを感じてしまう。
「
「はい」
「バイトとかして?」
「たまには」
「何のバイトしててん」
「コンビニとかです」
嘘、ではない。本当にコンビニで週三日。でもシフトに入ってたのは八月いっぱいで、九月は「ちょっと学校の関係で」という理由をつけて行ってない。
「ヒマやったらここのホテルの洗い場どや?」
「え?先輩と一緒に、ですか?」
だったらもう何があってもやる!いきなり私の胸は高鳴り始める。
「ていうか、俺の代わり。そもそも俺が友達の穴埋めに入ってるんや。高校のツレやねんけど、フットサルでアキレス腱切りよってん」
「そうなんですか」
一瞬の高揚が急降下。
「俺はずっとスーパーで品出しやってるし、ホテルと掛け持ちとなると、今はいいけど授業始まったらさすがにキツいしなあ」
ここで引き受けて、恩を売るというのも一つの手、なんだろうか。でもホテルの洗い場なんて、けっこう大変そう。
「基本的に土日やけど、団体とか入ったら平日の夜とかも出動。時給はまあまあ」
「すいません、土日はコンビニとかぶるんで、無理です」
嘘ばっか。速攻で断ってしまった。だって青木センパイと一緒に働けないんだったら、何やっても一緒だ。
「そやんなあ。ま、せっかくやし頑張って稼ぐわ」
青木センパイは屈託なく笑い、私は小さな罪悪感を抱えながらも、じゃあ土日のこの時間に、この辺りをうろうろしていたら、偶然のふりしてセンパイに会えるだろうか、いやバイト上がりを狙った方がいいか、と考えるのだった。
そんな煩悩まみれの足取りで、ホテルモンドのドアを抜ける。青木センパイは「ここ、表から入るの初めてや」などと言いながらついてきた。
ロビーに入るとひんやりした空気に包まれて、外の暑さが一気に遠のく。とりあえず十一時三分という微妙な時間で到着したけれど、と周囲を見回す。週末なのでやはり人の行き来が多いけれど、その中でただ一人別世界、という感じでソファに腰かけている女性がいて、それが桃子さんだった。
座ってスマホを見ている、というありきたりな行為なのに、すっきりと背筋を伸ばし、細身のサブリナパンツから伸びた足首を上品に揃えて、さあどうぞ写真にお撮り下さい、といった感じに隙がない。
なんだか声をかけるのが勿体ないというか、自分が関わることで桃子さんの保っている均衡を乱してしまいそうな気さえする。でも私が口を開くよりも先に、桃子さんは顔を上げてこちらを見ると手を振った。
「ハニーさん!」
その名前は駄目!と心の叫びが本気で漏れないよう、私は一瞬口を引き結び、それからざわめく気持ちを鎮めて「おはようございます」とあいさつした。
「本当に急なことでごめんなさいね」と言いながら立ち上がった桃子さんは、「あら、お友達もご一緒?」と青木センパイの方を見た。
「あ、いえ、この人は」
どう説明したもんだか、と思っていると、青木センパイは「バスで一緒になったんですけど、僕はここでバイトしてるんで、ちょっとついて来てみました」と自ら説明した。
この人の、こういう卒のなさというか、私みたいに口ごもらずに、まっすぐ相手に向かうところが、ああやっぱりセンパイ好き、と思わせてくれる。けれどよく見れば、まあ当然の事なんだけれど、青木センパイは満面の笑みで、要するに桃子さんの魅力にどハマりしているのだった。
「アルバイトは何時から?よければ一緒にお昼ごはん、どうかしら」
「すいません、今からすぐ入らないといけないんで。残念ですけど」
青木センパイは笑顔のまんまで頭を下げると、私に向かって「ほなな」と声をかけ、軽く肩の辺りを叩いてから、足早に去っていった。
私はもう、その手の感触を忘れまいと念じながら、センパイの後ろ姿を見送る。桃子さんは何か勘づいたかのように「ねえ、ハニーさんは彼と約束とかしていたんじゃないの?」と言った。
「いえ、本当に偶然会ったんですから、大丈夫です」
私がそう答えると、桃子さんはふふっと声を出して笑った。何だろう、その思ったのが伝わったのか、彼女は「ごめんなさいね、ちょっとムギさんとの会話を思い出しちゃって」と謝った。
「ムギさんとの会話?」
「あの人、今時の若い子って、何を聞かれても大丈夫ですって言うけど、あれって要するに、あたしに構うんじゃないよ、バーカって事でしょ?って」
「え?いや、大丈夫って、そんなつもりで言ったんじゃ、全然ないです!」
私は全力で否定した。
「大丈夫は大丈夫であって、ノープロブレムっていうか、それで全然大丈夫っていう・・・」
なんか理屈が通ってないけど、言わんとする事は伝わったらしくて、桃子さんは「いいの、それってなんだか、勝手に口から出ちゃうって感じの言葉でしょ?私も社会人になりたての頃は、あなた何でもすみませんで通しちゃうのねって、先輩に嫌味を言われた事あるもの」と微笑んだ。
「でも便利な言葉よね、大丈夫です、って。この一言で、互いの圧力がリセットされて、一息つける感じがあるじゃない?よかった、もうこれ以上やりとりしなくていいんだ、みたいな」
「はあ」
何と答えていいんだか、私はただぼんやり頷くしかなかった。ムギさんという人は、基本的に一人でしゃべり続けるから、こっちはただ相槌をうっていればいいんだけど、桃子さんとはそう簡単じゃなさそうだ。
「あらごめんなさい、そんな話してる場合じゃなかったわね。とりあえず、今日の予定なんだけど」と言いながら、桃子さんは再びソファに腰を下ろし、座らないの?という顔つきでこちらを見上げた。
大丈夫です、なんて言える状況でもないので、私は「失礼します」と隣に座る。一瞬だけど、柑橘系のコロンらしい上品な香りが鼻孔をくすぐった。
「まずはランチを済ませて、それからお買い物がしたいんだけど、ハニーさんこのお店ってどう行けばいいのかしら。ついでにこっちも回りたいの」
差し出されたスマホの地図を覗きこみながら、私は肝心な事が聞けずにいた。
丑の刻参り、どうするんですか?
もしかして、昨日のあれは何かの冗談だったのかもしれない。私が今日このホテルに来るよう言われたのは、ムギさんの代理として、桃子さんの街歩きのサポート要員に過ぎないのかも。
「そうそう、このランチのお店なんだけど、予約不可だから開店前に並ばないと駄目なの。今からバスで行って間に合うかしら」
「十二時開店でしょう?ここから銀閣寺の辺って、バスやと時間かかるし、間に合わないと思います」
「判った、じゃあタクシーにしましょう」
「え?タクシー?タクシーでランチですか?」
私がそう聞き返した時には、桃子さんはもう立ち上がって歩き始めていた。
なんかこう、時間をお金で買う感じ?わざわざタクシーでランチに出かけるという発想が、庶民の私にはちょっとクラクラくる。でもやっぱりムギさんの交友圏にいる人だし、東京の人だし、それもアリというか、桃子さんはそうすべき人なのだ。
私はもうすっかり丑の刻参りの事なんか置き去りにして、桃子さんから魅力的な女性かくあるべし、という行動様式を学ぶべく頭を切り替え、ちゃっかりと彼女と並んでタクシーの後部座席に収まったのだった。
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