第32話 ファイトクラブ 07
【バグス】の店内は騒々しかった。ずらりと並んだビリヤード台──ポケット:キャロム=4:1──の他、ダーツのマシンも数十台と多く、そのどちらも客で埋まっていた。店自体が一つの大きなホール上になっていて、個室がどこにも見当たらない。奥にあるであろうスタッフルーム以外は完全に開けた空間になっている。周囲で騒いでいる年齢も性別もバラバラの人間たちが全て仕込みでもないかぎり、待ち伏せや罠の可能性はないだろうと踏んだ。このような場所を指定してきたブローカーの方こそ、それを警戒していたように思える。約束の時間より30分早く店についた恵三たちは、客に紛れ込むため空いているポケット台を見つけてカウンターでキューをレンタルした。
「ナインボールでいいですか?」弥永が言った。
「ええ。と言っても、他にルールを知らないんですが」
先行/後攻を決めるバンキング──2回跳ね返って10cmのところで止めた弥永に対し、恵三の打ったボールはクッションのわずか1mm手前で静止した。
「では、お先にどうぞ」
恵三がブレイクショットを放った。2番と6番のボールがポケットインする。台を回って狙いをつけるのもそこそこに、手玉をショット=1番のボールが2バウンドで9番のボールに=そのまま押し出されるようにして9番がポケットイン=1ゲーム目終了。
目を丸くする弥永を促して次のゲームへ。2度目のバンキングで弥永はクッションの3cm手前で止めたが、今度も恵三はぴったり1mmで止める。ブレイクショット/2打目で手玉から一番数の少ないボールを経由して9番がポケットイン=2ゲーム目終了。
「えっ、え、ちょっと待ってください」珍しく慌てる弥永。「……もしかして、何かズルしてませんか?」
「ズルというか、いいソフトがあるんでインストールして使ってるだけです」
恵三はキューを脇で挟んで両義手を滑らかに動かして見せる。からかわれたことに気づいた弥永が笑いながら恵三の背中を音が出るほど強く叩いた。
「もう。ちゃんとフェアにやってください」
手玉をまっすぐ飛ばすことすらできずに恵三がきっかり5ゲームやり返された時、弥永にブローカーから連絡が入った。
『私のほうは着きましたが、いまどちらに?』
弥永が応答する。
「もうすぐです」
恵三はそれとなく店内を見渡した。自分たちの前に店にいた人間、後から入ってきた人間を全てマークしていたが、特段こちらに関心を向けてくる相手はいなかった。罠である可能性がさらに薄まる。それを伝えると、弥永は頷いてブローカーに言った。
「店に入りました」
『カウンターの一番右隅に座っています』
そこにいたのは、ブローカーから連絡がある直前に入店した男だった。襟元を開けたベージュのリネンシャツの男が、店内で唯一のバーカウンターの右端に座っている。
『仲間らしき人間が二人ほどいて、カウンターの方をそれとなくチェックしてやがる。最初から店に居たっぽいね』
ダーツマシン経由で店のシステムに潜り込ませていたスレッドから通信が入る。コントロールルームのカメラの映像と座標が恵三に送られてきた。向こうもそれなりの用心はしているようだった。問題は、本命はどれかということ──恵三は9番のボールを台の上でくるくると回してからスレッドに伝えた。
『店のセキュリティにカウンターの男が銃を隠し持っていると伝えろ』
『それで?』
『残った二人のうち、逃げた奴がいたらそいつが本物のブローカーだ』
『なるほどね。カウンターの奴はダミーってわけか』
『いくらなんでもそれくらいの用心はするだろ』
レンタルしたキューを返却する。セキュリティ担当から連絡を受けた店のスタッフがカウンターでカクテルを飲んでいたリネンシャツに詰め寄って店の奥への同行を求めていた。男は最初の方こそ憤って掴みかからんばかりだったが、騒ぎを起こしては不味いと思ったのか、最終的にはスタッフの指示に従って渋々その場を後にした。
カウンターの様子を窺っていた二人のうち、出入り口に近い方が足早に動き出した。ピンストライプのネイビースーツ。恵三の考えていたブローカー像とは真逆=ホワイトカラーとしか思えない身なり。どこかのいい会社の勤め人が仕事の終わりに立ち寄ったようにしか見えない。
「それじゃあ行ってきます」
弥永が手を振った。「打合せ通りにお願いしますね」
恵三は客の間を歩いて行って、この場から逃げ出そうとしているサラリーマンの進路を遮ってその肩を掴んだ。
「よう。初めまして【Q】さん」
口を開いて唇を震わせ、何も言えないでいる男の肩を抱いて、恵三は店の外まで連れ出した。入り口でたむろしている連中から距離を取って恵三は日本円がチャージされたトークンを無理やり握らせる。
「もう気づいてるだろうが、俺はあんたに連絡した奴の使いだ」
「決してだますつもりでは」
見た目通り柔弱そうな男の弁明を恵三は遮った。
「いいって。あれくらいの用心は当然さ」
「……そう言ってもらえると」ブローカーは渡されたトークンを控えめに持ち上げた。「その、これは?」
「前金というか、迷惑料だな。で、早速聞きたいんだが、こいつらに見覚えはあるかい?」
恵三が弥永から借り受けたタブレットを相手に向けた。そこには久瀬陽平の画像と、彼に嫌がらせをしていたチンピラどもの画像が映っている。
「一体何の話を──」
「つまり、仕事の話は嘘ってことさ。あんたに聞きたいことがあってコンタクトを取ったんだ。こういう与太者に顔が広いんだろう?」
ブローカーが助けを求めようと忙しなく顔を左右に向ける。恵三は肩に回した義手の出力を上げて、言った。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃないか。知っているかどうか聞いただけだろう? あんたの仕事についてどうこう言う気はないよ。別に俺は警察でも企業のエージェントでもないからな。そちらは知ってる、知らない、知っていそうなやつを知ってる、のどれかを答えてくれたらいい。割りのいいアルバイトだと思わないか?」
ブローカーはトークンを手のひらにインプラントしたデバイスに差し込んで中身を確認している。かと思えば、何かを探して手に持っていたダレスバッグの中を漁り始めた──非常に緩慢な動作で。そうやって時間を稼いでいれば、そのうち嵐が過ぎ去るのだと考えているように。
「お友達は来れないぜ」
相手の表情が強張る。通信を試みているに違いない。スレッドに伝えて店の出入り口をロックさせている。中にいる人間は閉じ込められた状態だった。残ったブローカーの仲間の一人が、今頃必死に出入り口を叩いているかもしれない。店内でパニックが起きるまでが勝負──それでもまだ口を開かない。タイムアップが迫ってくる。恵三は弥永の立てたシナリオに従ってハッタリをかけ続けた。
「あんたの格好、サラリーマンにしか見えないな。別に身なりを整えておかなきゃならないような仕事でもないだろうに。それとも本当にサラリーマンで、不良少年たちによからぬ仕事を斡旋してるのは、会社に黙ってやってる副業ってやつなのか?」
素性に関してあれこれ言われるのが効いたのか、ブローカーが泣きそうな顔で頭を振った。
「あなたはいったい何者なんですか?」
「私立探偵さ。後は自由に想像してくれ」
「……画像の彼らに見覚えはありません。私は単なる窓口の一人であって、こういう需要があると、さらに別の人間に伝えているだけなんですよ。本当に詳しいとすればその人であって、私じゃありません。いえ、もしかしたらその人もまた別の誰かに連絡を入れているだけかもしれませんが」
「それで手数料が何度も抜かれていくわけか。裏稼業も多重派遣とは恐れ入るね。それじゃあ、まあ、取りあえずそいつの連絡先や住所を教えてくれないか?」
ブローカーは首を横に振って拒否した。
「私の身が危険にさらされます」
「もう既に危険な状態だと思うんだがな。例えば、そうだな、俺があんたの外見的特徴を使ってどこの誰だか調べて、会社の方に一報を入れることだってできる。おたくの社員が、勤務時間が終わってからこんなことをしています、って具合に。はっきり言って面倒だし何の得にもならないからやりたくなんかないが。本当だぜ?」
ブローカーが何度も迷ったあげく、微かに震える手でバッグの中から取り出したタブレットの画面にいくつかの電話番号を書いた。恵三はブローカーの肩に回していた手から力を抜いて解放してやる。
「いや、助かるよ。ちなみにこれは興味本位なんだが、なんで副業を? 金に困って? いい暮らしをしてそうなのに」
「私は、これを、福祉活動だと思ってます。企業や政府機関によって製造されたのではない、個人間の交渉によって生まれたというだけで低質な教育しか受けられず、そのため定期的な収入を得る仕事に就くことができない人たちがいる。そんな彼らにも、こうやって収入を与えることができる」
まるで捨て台詞のように言い放ち、ブローカーは足をもつれさせながら走り去っていった。大事になるまでに店の出入り口のロックを解除し、弥永に成果を伝える。
『聞いてました? ボス』
『もちろんです。お疲れ様でした』
『福祉、だそうですよ』
弥永は、その笑顔がありありと目に浮かびそうなほど上品に笑った。
『吐き気を覚えますね。金銭を授受している時点で単なるおためごかしに過ぎません。さあ佐藤さん、あんな小悪党は放っておいて、我々は真の福祉活動に勤しもうじゃありませんか』
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