第323話 嵐の前の静けさ

「翔ちゃん。次の授業は理科室に移動だって。一緒に行こ?」


「うん。ちょっと教科書持ってくるから待ってて」


「はーい」


 今日も今日とて真珠ちゃんと時光のイチャつきを見せられて脳が破壊されそうな気分になってしまった。やっぱり小学校の頃からずっと好きだっただけに真珠ちゃんのことをどうしても諦めきれない。やっぱり、僕の中では真珠ちゃんは1番好きな女の子だし、他の女子を見ても全くと言っていい程心がときめかない。


 やっぱり、好きな女の子は目で追ってしまうし、その度に時光が自然と視界に入ってくるのがどうにもやるせない。2人が仲良さそうに話しているだけで心が痛むのに、それでも見てしまう。この状態が中学を卒業するまで続くのだろうか。なんだか憂鬱になってきた。


 こういう時こそヒカリちゃんの配信を見て癒されたいんだけれど、ヒカリちゃんも忙しいらしくあんまり配信頻度は高くない。僕としては、ヒカリちゃんが最推しなのは間違いないけれど、やっぱり配信頻度が高くない分他の配信者も見るべきなのだろうかと考え始めてしまった。


 そりゃ、理想は推しだけを追いかける生活をしたいけれど、現実は推しからの供給だけで現代社会のストレスを軽減できるほど、甘くはない。もし、今日ヒカリちゃんの配信がなければ完全に心が病んでしまうかもしれない。


 これは決して浮気ではない。彼女がいても夜のお店に行く人だっている。そうした人に比べれば他の女(男)の配信を見に行くのはかわいいものである。最推しがヒカリちゃんである事実は変わらないので、今日、部活が終わったら速攻で家に帰って新しい配信者を開拓しよう。



 帰宅した僕はパソコンの電源をつけて、とあるコミュニティの掲示板を開いた。ここには、特殊な嗜好を持った紳士……まあ、言ってしまえば女装子や男の娘と言った人たちを追いかけている人が沢山いる。僕としては、どうしても女性の配信者を見てしまうのはどうにも気が引けてしまう。もし、推している女性配信者に彼氏がいたって発覚した場合、僕の心の中の暴れ馬ユニコーンの暴走を抑えられる気がしない。だから、僕はこの界隈に足を踏み入れたのだ。


『暁さん最近投稿頻度落ちたねー』

『歌い手は喉の調子とかあるし、投稿頻度落ちる時はあるよ』

『暁ちゃん体調不良なの? 心配だなー』

『体調不良でも帰って来てくれるならそれで良いよ。全然待てる。しれっとサイレント引退されるとへこむ。貴重な両声類キャラなのに』


 なんだかコミュニティは暁さんという人の話題で持ち切りのようだ。


『最近は既存の配信者がVに転生することも多いから、暁ちゃんも今頃はVに転生してたりしてな』

『Vは宗教上の理由で見れないから、できれば暁名義での活動も継続して欲しいな』


 まだ話題が続いている。それだけこの界隈で人気がある人なのか。なんだかちょっと気になるな。ちょっと調べてみよう。


 暁さんが最後に動画を投稿したのは2週間前。それまでは、1週間以上間隔が空くことはなかったから、確かにファンが心配する気持ちもわかる。動画を開いてみよう。


 曲の前奏が終わり暁さんが歌い出す。僕はその歌声を聞いた瞬間……言葉には言い表せない感情が溢れてきた。もう、【好き……】としか言いようがない。末端のウェブ小説家とは言え、一応文章を書いている身としてここまで語彙力が落ちるとは思わなかった。これは、とても中毒性があって脳を麻痺させる危険な物質だ。いずれ、この歌声は世界中を魅了して少子化を加速させることになるだろう。


 あっと言う間に動画時間の3分34秒が終わった。世界にとっては、3分半程度の出来事だったかもしれないけれど、僕にとっては一瞬の時間だった。もっとこの歌声を聞きたい。そう思った僕は、暁さんの過去動画に手を出してみた。


 知っている曲はもちろん聞いてるだけでテンションが上がるし、知らない曲でも素敵な歌声で新しい曲に出会えた喜びで身を震わせる。正に至福のひと時だった。


 気づいたら、2時間くらい経っていた。これだけ長く歌を聞いたのは初めてかもしれない。これは確かに暁さんのファンが増えるのも納得な気がする。僕は再び例のコミュニティに戻り暁さんの素晴らしさを彼らと語りたい気分になった。


『今日のヒカリちゃんの配信凄かったねー』

『あの配信見れたのは幸運だった』


 なぬ! ヒカリちゃんの配信だと! 僕が暁さんの動画を見ている内に始まって、終わっていたのか。なんということだ。僕がヒカリちゃんの配信を見逃すなんて。ヒカリちゃんの生の反応が見れなかったのは残念だけど、アーカイブを見れば内容を把握できる。早速見に行こうか。


『でも、ちょっと事故でセンシティブな内容になったからアーカイブに残らないんだよね』


 え?


『成人だったらギリ許されたかもしれないけれど、ヒカリちゃんは未成年だからチャンネルの安全のために残さないのが妥当だった』


 え? ちょ、なにそれ。聞いてない。アーカイブに残せないほどのセンシティブって何? なんでそれを僕に見せてくれないの? お前らだけで楽しんで、ズルいぞチクショウ!


 これは、最推しがいたのにも関わらず他に浮気をしてしまった僕への罰なのかもしれない。でも……この罰はいくらなんでも重すぎないですかねえ。僕が何をしたと言うんだ。



 今日は、里瀬社長に呼び出されて事務所に行くことになった。なんでもコクマーお兄ちゃんのイベント用の新衣装を作るために、ママである私が駆り出されたのだ。


 打ち合わせは昼過ぎだったので、今日の昼食は事務所近くのお店にしよう。そこで時間を潰して時間になったら向かう方針を立てた。


「匠。例のナツハ君のその後の調子はどうだい?」


「ええ。琥珀君に訊いたところ、改善が見込まれているようですよ」


「そうかい。それは良かったな」


 里瀬社長がなんか無造作ヘアーにも程がある男性と一緒に食事をしている。一体何の話をしているんだろう。気になるからちょっと盗み聞きしちゃおっと。


「それにしても……幼馴染の彼女に実力を抜かされたから別れた……か。俺にはどうもその気持ちってのがわからないなあ」


 え? 今なんて言った? 偶然……だよね?


「先生は究極的にマイペースですからね。自分は自分。他人は他人って線引きをしっかりしていると言うか。そうしたメンタルの強さは全人類が見習うべきだと思いますよ」


「言っておくけど、匠の坊ちゃんよお。お前さんもそういう傾向あるぞ」


「そうですか? 俺は先生を追いつき追い抜きたいって一心でここまでがんばってきたんですけどねえ。俺がここまで育ったのは先生のお陰ですよ」


「嘘つけ。そんなリップサービスで誤魔化されないぞ。とっくに俺より社会的に高評価を受けている癖にまだ研鑽を辞めてねえじゃねえか」


「あはは。本気の先生に勝つまでは第一線を退いても基礎鍛錬は怠りませんよ」


「じゃあ、一生、本気で相手にしてやらねー」


 ぐぬぬ。そんな話はどうでもいいから、さっきの幼馴染がどうのこうのって話を聞かせて。里瀬社長。あなたは今誰と繋がってるんですか?


「まあ、先生のお陰で将来確実に伸びるであろうクリエイターに恩を売れましたからね。この関係を持てたのは大きいです。その報酬というかお礼代わりでここの会計は俺に待たせて下さい」


「そうかい? 悪いな」


「随分あっさりと受け入れるんですね。せめて、1回は断りませんか? 師や年上としてのプライドはないんですか?」


「老いては子に従えって言うだろ。弟子の恩返しは素直に受け取るのも師の努めだ」


 ピンポーンと店員の呼び出しのベルが鳴った。


「何の遠慮もなく追加注文する気ですね」


「匠も俺に遠慮されると気持ち悪いだろ?」


「確かに」


 結局、この後も2人からは追加の情報を聴きだせなかった。幼馴染の彼女に実力を抜かされて別れたって人。もしかして……もしかするの?

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