2-20 正義をかざして拳を捨てる

 まるで、黒いペンキを思い切りぶちまけたかのように黒く染まった世界。それがこの空間だけなのか、はたまた全世界全てを覆ってしまったのか、桜にはわからなかった。

 けれども、そんな桜でも唯一分かることがある。それは────。


「ッ! おい桜! 何をぼうっとしているッ! 奴はすべての生き物を殺そうとしているだ。お前だって例外じゃない。戦闘準備をしろッ!」


 桜の思考を遮るように、雪月が彼女に向かって怒鳴る。その怒りは至極真っ当で。周囲を漆黒で覆い、深い海のように青い光を放つ鎌を携え、こちらに爛々とした目を向けてくる。そんな存在が目の前にいる中で、物思いに耽る桜がおかしいのだ。

 だというのに、桜は反省するどころか、雪月の言葉をまるで無視し、化け物の方へ近寄っていく。


「ッ!? お、おい桜ッ! 聞いているのかッ!? 迂闊に近寄るなッ! いくらお前が力を持っているにしても、過信し過ぎだぞッ!?」


 そんな桜の行動に驚愕した雪月は、桜を止めるため、必死に静止を呼びかける。しかし、やはり桜はそんな雪月を無視し、化け物へ歩みを進めた。


「あはっ。何々? そんなに早まらなくても、ちゃんと殺してあげるよ? 貴方には恩があるし。だから……一思いに殺してあげるッ!」


 化け物は、無防備に自分に近こうとする桜を見て、愉快そうに口元を歪める。


 ザシュッ


 ────そして、手にしていた海色の大鎌で、桜の首を勢いよく切りつけた。


「ッ!? な、避け────」


 ────様に見えた。しかし、桜は化け物の攻撃を寸での所で身を屈めて躱したのだ。完全に油断していた化け物は、桜の思わぬアクションに、動揺する。

 そして身を屈めて攻撃を避けた桜は、そのまま止まることなく化け物へ高速で直進し、走り寄った。

 しかし、動揺している化け物は、桜の動きに一瞬反応が遅れ、全くの無防備の状態になってしまう。

 そして、迫りくる脅威に、化け物は咄嗟に目を瞑った。


 ガバッ


「ッ!? な、な、なななッ!?」


 ────しかし、化け物の想定した痛みが来ることはなかった。桜は化け物を攻撃しなかったのだ。それどころか、今しがた自分の首を容赦なく刈り取ろうとした相手を、強く抱きしめたのだった。


「ごめんね、空……ッ! 私、馬鹿だから、空の身に起きてる事とか、今の現状の全てを理解することは出来なかった……。でも、空が無理してるってことだけは分かるよ。……大丈夫。大丈夫だから。もう、何にも怖いことはないよ。痛いことも、辛いことも、我慢することもないよ」

「は、はぁ? 何、言ってるの? 私はもう、我慢なんかしてない。辛くもない……! 私は解放されたんだッ! 弱い自分からッ! だから私は……ッ!」

「解放された? なら、どうしてまだ戦おうとするの? 復讐なんてこと、しようとするの? 解放されたなら、もういいじゃん」


 桜の問いに、化け物は目を見開く。しかし、すぐに邪念を振り払うように首を振り、キッときつく目を細め、桜を睨みつけた。


「うるさい、うるさいうるさいッ! よくないんだよッ! 私を傷つけ、陥れた奴らもッ! 私を置いて逝っちゃう人達もッ! それを許す世界もッ! 私は許せないッ! 全部、全部壊してぐちゃぐちゃにしてやりたい……ッ!」


 そして思いの丈を思い切り桜にぶつけ、感情のまま、海色の大鎌を彼女に振るう。しかし、桜はそれでも化け物を離すことをせず、海色の大鎌が、背中に深く突き刺さる。だが桜はまるで攻撃の痛みなど感じていないかのように、表情を変えることなく化け物に語り続けた。


「それが、それが本当に空の望み!? 復讐して、全部捨てて死ぬことが空の望みッ!? 違うよね!? だって、空はいっぱい努力してきたんだから! 私は空の事を全部知ってるわけじゃないけど、そんな私でも空はすごいって思う! だからお願いだから自分の願いを捨てないで! 今度は絶対、守るから……ッ! だから……お願いだから死なないでよ、空ッ!」 

「ッ! わた、私は……ッ!」


 桜の叫びに、化け物──否。郡空は、迷ったように顔を歪め、視線を泳がせる。そして迷いの表情のまま、空は桜を涙目で睨みつけ、叫んだ。


「今更そんな事言われたって、もう止まれないッ! 私を止めるなら、私を超える強さで私を叩きのめしてよ! そして証明してよ! 口だけじゃなく、本当に私を守れるんだって……ッ!」


 空はそう叫んだ後、桜に突き刺さっている大鎌を引き抜き、強く握り直す。そして、大鎌をより一層強く握りしめ、再び桜へ振り下ろそうと構えた。


 ガキンッ


「なッ……!?」


 しかし、その大鎌が再び桜に突き刺さることはなかった。なんと、桜が大鎌を思い切り蹴り飛ばしたのだ。迷いのまま振り下ろされようとした大鎌は、予想外の反撃に耐えられず、呆気なく飛ばされてしまう。

 そして、桜は呆気に取られている空の両肩を勢いよく掴み、泣きそうな顔で、彼女に訴えかけた。


「絶対嫌だッ! 私はもう、空に傷ついてほしくない。体も、心も……ッ! 今更だろうがなんだろうが、これ以上空が傷つかないためならいくらだって、いつだって言うよ! それに、私がこの力を振るうのは空にじゃない。空を傷つける悪い奴に振るうッ!」

「~~~~ッ! どうして、なんでそこまでするのさ……ッ! 私は貴方を傷つけた。今だって、殺したくて仕方ないッ! なのに、なんで……」


 縋る様に、捨てられた子犬の様に、空は桜に問いかける。そして、桜はそんな空の問いに、迷うことなく満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと空から離れた。


「だって、私は空のヒーローだから! 空を守ることは当たり前だし、この状況だって、私が空を守れなかったことが原因なんだから、怒らないよ。寧ろ怒られて、疑われて当然だって思う。けど、信じてほしいッ! 私に、空の本当の願いを教えてッ!」

「……ッ。貴方は……桜は……どうしようもない馬鹿だよ……ッ! こんなに理不尽に傷つけられて、それを当然だと受け入れちゃってさ……ッ! でも、私も……馬鹿、なのかもね……。そんな桜を信じたいって……。受け入れたいって、思っちゃってるんだから……ッ! ……ねぇ、私、本当は死にたくない……ッ! 痛いのも嫌だし、普通に生きたい……ッ!」


 空の叫びを聞き、桜は笑みを浮かべたまま彼女を見据え、両手を広げた。


「あいあい、承知の助ッ! 私が空を全力で守るよ。だから、帰ろう!」

「あ……あぁ……うわぁぁぁぁぁぁんッ!」


 空は堰を切ったように泣き声を上げ、そのまま桜に突進し、思い切り抱き着いた。そんな空を、桜は慈愛の目で見つめ、優しく頭を撫でる。


 ────その瞬間、周囲を覆っていた闇が、剥がれ落ちた。まるで、空の涙と一緒に、世界へ溶けいくように、闇は晴れ、いつもの夕焼け景色が広がる。


「は、はは……。もう俺は常識が何か、わからなくなりそうだ……。反転リベリオン状態の化け物を、言葉だけで説き伏せるなんて聞いたことない……。倒したって、戻る確率なんて一%以下なのに……。お前はほんと、規格外にもほどがあるだろ、桜……」


 その一連の流れを遠目で見ていた雪月は、誰に言うわけでもなく一人、乾いた笑いを上げ、呟く。だがその呟きは、空の泣き声にかき消され、桜の耳に届くことはなかった。

 そして、空が泣き出して暫く経ち、まるで糸が切れたかのように彼女は膝から崩れ落ち、眠りについたのだ。




 そして、その場からいつのまにか戸倉柊夜が姿を消していることを、桜は知らないでいた。

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