第36話『あなたのことばかり』

 夕食を食べ終わってからおよそ2時間。

 今日の授業で出た課題がようやく全て終わった。3教科あり、どれもプリント1枚。そこまで難しくない。普段からきりのいいところで小休憩を挟むけど、こんなに時間はかからない。こうなっている理由は――。


『桔梗、ありがとう』


 花村から助けた直後に言われたお礼の言葉。

 初めてされた強くて温かい抱擁。

 至近距離で見せてくれた明るくて可愛い笑顔。

 時折、花村の一件直後の向日葵を思い浮かぶからだ。たまに、今まで向日葵が見せてくれた笑顔がどんどん思い浮かぶこともあって。自然と気持ちが温かくなる。


「どうしてなんだろうな……」


 花村から向日葵を助けられたからだろうか。

 抱きしめられながら、お礼を言われるのが初めてだったからだろうか。

 4月の終わり頃まではツンツンしていたけど、今は笑顔を見せることが多くなったからだろうか。

 はっきりとした理由は分からない。でも、向日葵のことを考えていると心地いい。バイトや勉強の疲れが取れて、体が楽になっていく。

 ――プルルッ。

 スマホのバイブ音が響く。確認すると、LIMEを通じて向日葵からメッセージあると通知が。さっそく見てみると、


『今日は本当にありがとう。また明日学校でね。早いけど、おやすみ』


 という内容だった。おやすみって言葉を送ってくれたのはこれが初めてだと思う。凄く嬉しい。頬が緩んでいるのが分かる。

 さてと、いつまでも既読無視のままではいけないな。


『また明日。おやすみ、向日葵』


 向日葵にそんな返信を送った。

 向日葵もトーク画面を見ているのか、返信を送った直後に『既読』のマークがつく。それから数秒もしないうちに、三毛猫がふとんに入って眠っているイラストスタンプが送られてきた。

 僕も三毛猫イラストのスタンプを持っているので、同じスタンプを送信したのであった。




 6月3日、水曜日。

 今日も青空が広がっている。昨日よりも雲が少なく、快晴とも言える空模様。日差しは暑いけど、青い空を見ると清々しい気持ちになれる。

 今日も撫子と一緒に登校。教室A棟の昇降口には……向日葵の姿はない。既に登校して教室に行っているのかな。

 撫子と別れて、僕は1人で2年1組の教室へと向かう。普段よりも早足で。階段はいつもはしない1段飛ばしで上がる。

 教室に入ると、向日葵は自分の席に座って福山さんや岡嶋、津川さん、冴島さんと一緒に談笑している。柔らかな笑みが可愛らしい。そんな彼女を見て安心した。昨日の夜から、幾度となく向日葵の顔が思い浮かぶけど、実際に見るのが一番いいと思う。

 僕が入り口近くにいるクラスメイトに挨拶したことで、向日葵達は僕が登校したことに気づく。みんな僕に向かって笑顔で手を振り、「おはよう」と言ってくれる。その際、僕の席に座っていた冴島さんは席から立つ。


「みんなおはよう」


 そう挨拶して、僕は自分の席に座る。

 スクールバッグから必要なものを机に出していると、誰かにポンと左肩に手を置かれる。手から視線を動かしていくと、その先には爽やかな笑顔で僕を見る岡嶋の姿があった。


「聞いたぜ、加瀬。昨日の放課後、元カレから宝来を守ったんだってな」

「一歩も引くことなく相手して、凄くかっこよかったみたいだね、加瀬君」

「それを向日葵さんが幸せそうに話していましたよ」

「だって、あたしを守ってくれて、元カレに二度と関わらせないって約束させたのが嬉しかったから……」


 いつになく甘い声で言う向日葵。僕と目が合うと、向日葵はとても柔らかな笑顔を見せてくれる。今までも可愛かったけど、今の笑顔は特別に可愛らしい。撫子と同じくらい……いや、撫子よりも可愛いかもしれない。

 あと、向日葵は岡嶋達に昨日のことを話したのか。花村と決着を付けられたことがよほど嬉しかったのだろう。


「昨日も言ったけど、加瀬君……ひまちゃんのためにありがとう」

「いえいえ」


 昨日、福山さんは部活帰りにサカエカフェへ向日葵を迎えに来た。向日葵からのメッセージで花村との一件について知った彼女は、お店に入るや否や僕の手をぎゅっと握ってお礼を言ってくれたのだ。お客様や他の店員の目もあったから、僕はちょっと恥ずかしかったけど。


「何度も言っているけど、また言わせて。本当にありがとう、桔梗」

「どういたしまして。向日葵が不安に思っていることが解決できて僕も嬉しいよ」


 あと、何度でも向日葵にお礼を言われることが凄く嬉しい。自然と頬が緩んでしまう。


「ところで、今日は普通に来たんだっけ」

「うん。いつも通りに来たよ」

「昨日のことがあったから大丈夫だとは思うけど、あの男に何かされたり、視線を感じたりしたことはなかった?」

「うん、なかった。学校に到着して、昇降口のところで1年生の女子生徒に告白されたけどね。いつも通り、その場で断ったわ」


 告白されて断ることが「いつも通り」と言えるとは。向日葵の人気が凄いと改めて思う。ただ、向日葵にとって告白されることがいつも通りでも、僕は胸がチクッと痛んだ。そして、断ったことに安心する。


「そっか。何事もなく、いつも通りの朝で良かったよ。安心した」

「桔梗のおかげだよ。ありがとう」

「……どういたしまして」


 向日葵の優しい笑顔……とても可愛いな。花村のことを解決できたから、こういう笑顔を見られるようになったのかな。そう思うと凄く嬉しくなった。そして、これからも向日葵の可愛い顔をたくさん見たい。


「そんなにじっと見つめられると照れちゃうよ……」

「ご、ごめん」


 向日葵の笑顔が魅力的だったから、つい見入ってしまった。

 少し視線を逸らすと、僕を見てニヤニヤする岡嶋や津川さんの姿が視界に入る。その瞬間、何だか気恥ずかしくなった。



 席の位置関係から、授業中に板書を写す際は向日葵の方を向かない。だから、今までは向日葵を見ないか、見たとしても一つの授業でせいぜい一度か二度くらいだった。

 でも、今日は……向日葵の顔が見たくなって、1時間目の授業から彼女の方に何度も視線を動かしてしまう。真剣な様子で板書を取る向日葵や、ぼーっと窓の方を見る向日葵もいいなと思えて。

 ただ、たまに向日葵と目が合ってしまうことがあった。僕が見ていることに気づいたときもあれば、僕が向日葵の方に視線を動かしたら向日葵が僕を見ていたときもあって。後者の場合、向日葵は目を見開き恥ずかしそうにすることもあったけど。ただ、基本的に目が合ったときには僕に優しく微笑みかけてくれた。

 そんなこともあって、いつも以上に学校での時間は早く過ぎ去っていった。



 今日も放課後はサカエカフェでバイト。

 しかし、向日葵はサカエカフェには来店しない。午後に百合さんからメッセージが入り、助っ人としてランジェリーショップでバイトすることになったからだ。百合さんと一緒に夜までバイトすると知ったとき、凄く寂しくなった。

 仕事中はまだしも、休憩中は向日葵のことばかり考えてしまって。向日葵と話すようになってから、僕がバイトしていると来店してくれることが多かったからだろうか。

 今日のバイトも残り1時間を切ったとき、副店長に頼まれて、お店の前の道路を掃除することに。

 ほうきとちりとりを持って従業員用の出入口から外に出る。

 その瞬間、昨日の花村との一件や、4月の終わり頃に男達から向日葵を助けたときのことを思い出す。内容は良くないけど、ここは向日葵にまつわる思い出の地だ。

 そういえば、昨日……花村に向日葵のことが好きなのかと問いかけられて、


『好きですよ。友人として』


 って即答したんだよな。


「向日葵が好き……か」


 そう口にした瞬間、ドクンと心臓が鼓動して、全身が急に熱くなっていく。

 向日葵に抱きしめられてお礼を言われた場所だからか、あのときのことを鮮明に思い出す。あのときの向日葵の笑顔は本当に素敵で。そう思うと、心臓の鼓動が段々と心地よいものに変わっていく。

 もしかしたら、僕は――。

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