第30話 僕は、怪文書に誘われ、そして彼女の決意を聞く。 ②
――こんな夜分遅くに申し訳ありません。
年代物の玄関灯が作り出す、黄色の濃い灯りの下。通い慣れた玄関先で、おずおずと頭を下げた僕を出迎えてくれたのは、僕の失恋相手、そのお母さんだった。
柔らかな目元の、いつ見ても笑顔の絶えない明るい人で、
「あら、いつでも良かったのに」
おいしかった? なんて、タッパーを手渡す僕の頭を、いつものように撫でてくる。
昨日の晩、我が家の食卓を彩った例の赤飯は、どうやら隣の家からのお裾分けだったようで、その入れ物を返しに僕は外へ出た訳だけど。
ここ数日、いろいろなことがありすぎて、少し疲れてしまったのだろう。精神的にも肉体的にも何というか、とても隣の家に行きたくなかった。
決して、アイツに会うのがイヤなわけじゃない。でも、ここ数日のうちで、いよいよ僕の存在が、彼女にとって重く煩わしいものになっているのではないのか。そう思えてならないのだ。
『こんな遅くに何の用よ、うっとうしいわね』
所詮は僕の妄想で、彼女がそういう事を言わないと信じているのだが、例えタラレバだったとしても僕の心を弱らせるのには充分で。
以前の僕なら、頭からアイツがこんなことを言うはずがないと、お気楽で素敵な勘違いをしていただろうけど、ここ数日で、立て続けに彼女は僕の奇行を目の当たりにしているのだ。いかに十年来の幼馴染みとはいえ、そんな奇妙なヤツ、邪険にあしらって距離をとろうと考えるのは至極あたりまえのこと。
……イヤだな、行きたくないな。
ポツリとこぼれた溜息は、自分のしでかした結果なのだけど。
でもこのまま尻尾を巻いてすごすごと退散し、結果タッパーを返さなかったとなると、間違いなく母親にお小言をくらう。それに、さっき受信した、妹からの奇っ怪なメッセージが気にならないかと言えば、もちろんそんなことはなくて。
うんうん唸りながらも、身体が覚えてしまっているのだろう。もしかしたら目をつぶっていてもたどり着くのかも知れない。無意識に動いた足が連れてきたのは、隣の家の前。そして、勝手に動いた腕は、隣家のピンポンを押していた。
しかもこの家の呼び鈴は音を鳴らすのに少しコツがいるのだが、そんなもの僕の人差し指はとっくにご存じのようで、ビガーと、言葉にしにくいマヌケで低い音が、こんな夜更けに申し訳ありません。機械的に客の訪れを知らせてしまう。
と、ここでようやく、僕は思案の海から舞い戻り我に返るのだけど、
「ちょうど良かった♪ 聞きたいことがあったのよ~♪ 」
用が済んだことだし、じゃあこれでと踵を返したところで、がっしりとおばさんに腕を掴まれ、あれよあれよと玄関のたたきまで引きずり込まれてしまった。
実の母親だからかな、こういう無軌道な強引さは、どことなくアイツに似ている。
しかも、心なしかいつも以上に爛々と、瞳を輝かせていらっしゃるのだが、何かよほど興味をそそられることがあったのだろうか。
おばさんが、こういう顔をするときはたいていアイツと僕、両方が返答に困り果てる事が多い。
やれ、好きなタイプだとか、もし告白するとしたらどんな台詞を言うのかとか、唐突にその想い人本人が隣にいる、そんなエゲツない状況で尋ねてきたりするもんだから、毎回誤魔化すのに苦労する。
しかも、質問の内容によっては当のアイツも身を乗り出して僕の言葉を待っている場面もあって、そういうときは心底やっかいなわけで。
『何よ、もったいぶっちゃって。早く言いなさいよね』
いつだったかは、告白のセリフ云々だったかな。言いよどむ僕に、我慢できないわと抱きついてきて。
きっと、僕がどんな告白をするのか、100%興味本位だろうけど、星が瞬くようなキラキラの両目で早く早くとせかし始めるもんだから、――でもまさか、この状況で『好きだ』なんて言えるはずもないだろう。
『……お前だったら、どう言うんだよ』
堪らず聞き返したのだけど、アイツも近距離で絡んできていたもんだから、僕の視線を間近で受けて、ようやくそこで自分がいかにこっ恥ずかしい質問をしていたのか気がついたんだろうね。
『どうって、あれよ。えっと、その……』
じんわりと頬を染め、悔しそうにへの字に口を結びこちらを睨みつけると、僕の肩に顔を埋めて一言だけぽつり。
『……ないしょ』
僕は僕で、肩で感じるアイツの体温に妙な気恥ずかしさを感じて、頬をかいた。
あのときおばさんが言い放った『青春ね~~~♪ 』と、何かを堪能したようなつやつやした笑顔を僕は忘れない。今思い出しても、とんだ赤っ恥である。
そして、今もまた、その時に近い表情をしているわけだが、今回は一体何に興味を持ったのだろう。
聞くのが怖い。でも、聞かないで帰るのはもっと怖い。
なぜなら僕が話半分で逃げ帰ったと仮定すると、間違いなく次は、僕の母親に話が行くのだ。そんなもの考えるだけでゾッと怖気が走る。
うちの母親もおばさんに負けず劣らずのお節介焼きの噂好き。今はまだ、おばさんが話したい内容をこれっぽっちも把握してないが、過去の記憶や経験から、きっと僕とアイツ関連だと相場は決まっている。
本音を言うと、勘弁してほしい。この失恋直後の精神的にズタボロな時期に、尾ひれに背びれ、胸びれまで付いたとんでも話なんて、耳に届いた時点で卒倒してしまいかねない。
『いよいよ彼女の美貌に我慢できず襲いかかって、コテンパンにフラれたらしいわね』
とか、絶妙に的を射た話を母親の口から聞かされてみろ、僕は勢いよく舌を噛み切ってその場で果てる自信がある。
でもだからこそ、僕はどんな辱めにあおうとも、おばさんの話を最後まで黙って聞くしかないのだ。
ますます艶を増すおばさんの含んだ笑顔が怖い。でも、聞くと決めたのだ、忘れた頃にやってくる惨劇を回避するために、僕は覚悟を決めた。
だけど、
「聞いたわよ~♪ ついにあの子とねんごろに――」
――そんな引きつった顔の僕を救ったのは、一枚の真っ白なタオルだった。
今まさに、何かを言いかけたおばさんの頭全部を、その一枚の奇跡が覆ったのだ。
そして、そのタオルが飛んできた方向、斜め後ろには、――思わず、頬が緩んでしまう。
いつからそこに居たのだろう。
僕の大好きな幼馴染みが、廊下側から玄関先にほんの少し顔を出して、隠れるようにこちらを見ていたのだ。
さっきまでアイツと会うのがどうのこうのと悩んでいたくせに、いや、ここは言い訳させてくれ。アイツがあんなにも可愛いのが悪いんだと。僕は彼女と目が合うと、控えめにだけど手を振ってしまっていた。
彼女も、わずかに顔を廊下の影に隠したが、少しだけ手を出すと、小さく手を振り替えしてくれた。
お風呂上がりだろうか、目元が赤いようだけど、先ほどの妹から来たメッセージは、やはり怪文書の類いだったのだろうね。どうみても、目の前のアイツは危篤という大事には見えなかったのだから。
「あぁもう。髪を拭いたヤツでしょ、これ」
濡れてるじゃないの、とおばさんが小さく吠えたもんだから、僕は「大丈夫? 」と声をかける。
「きっとアタシが誰かさんと仲良くしてたのが気に入らないのね。あぁヤだヤだ」
ほら、あの子って独占欲強いじゃない? 一体誰に似たのかしら。なんて、乱れた髪を手ぐしで戻しながら、おばさんは溜息をついた。
「……そんなんじゃないもん」
蚊の鳴くような声にもう一度、チラリと目を向けると、……どうしたのだろう。
「あの、なぜかアイツが泣きそうな顔で睨んでるんだけど……」
正直、投げ込まれたタオルでおばさんの話が中断したため、話の内容は、いまだにサッパリ。だけど、なんとなく理解できたことはある。廊下の影から睨みつける、アイツのあの苦々しい顔が、この話のろくでも無さを容易に物語っていたのだから。
きっと、彼女は強引にでもこの話をやめさせたいのだろう。でも、
「あぁ、あそこに居るのは気にしなくて良いわ。アレは、えっとそうね、……我が家の地縛霊だから」
昔の人は言いました。この親にしてこの子あり。まさに、目の前の二人にぴったりで、そんな不平不満を言わんとする娘を、この親は半ば強引に、かつ平然と無視。挙げ句の果てには、地縛霊扱いなのだから恐れ入る。
「でも、ホント、メチャクチャ睨んできてるし、なんか必死だけど」
まだ持っていたのか、アイツはおばさんに向かって、二枚目のタオルを叩きつけるように振り回している。
どうして彼女が物陰から出てこないのか不思議で仕方ない。だけどそれ以上に、無視し続けるおばさんと、必死な顔のアイツ。
「もうっ! あぁもうっ! だから、お母さんはあっち行ってよ! 」
そして届きそうで届かない二枚目の荒ぶるタオルが、どこかコミカルで、彼女には悪いが何だかだんだんとコントを見ている気分になってきた。
だけど、傍観を決め込んで加勢しないとあっては後が怖い。
「あの、……その辺で」
そんな僕の意味深な目配せに、
「気にしなくていいのよ。あのね。あの霊はとっても可哀想な子なの」
そして、アイツの頑張りなどもどこ吹く風で、おばさんの話は終わらない。
「生前はワガママで、泣き虫で、意地っ張りな子でね」
「やめてってば!! 」
彼女が今にも泣きそうな顔でよりいっそうタオルの動きが激しくなる。おばさんは少しだけ横にずれ、タオルとの距離を絶対的なものにすると、いよいよ楽しくなってきたのだろう。
「あぁ。あの子を大切にしてくれる、そんな良い人がいれば、あの子も成仏すると思うんだけど」
「もうっ! もうっ!! 」
身振り手振りで芝居がかる意気揚々としたおばさんの手前、非常に言いにくいのだが、でも、そろそろ手加減をしたほうが良いのでは。経験上、いよいよアイツが限界を迎えそうな気がして、
――そしてついに、その時がやってきてしまう。
「例えば、隣に住む同い年の男の子なんて、おばさん、超オススメしちゃう。あの子が快くウチの子を貰ってくれれば――」
ビキっと、『隣の男の子~』のあたりでアイツの顔が引きつった。きっと、僕なんかを引き合いに出され、彼女のプライドが傷ついたのだろう。ふざけんなと言わんばかりの勢いで、
「――やめてって言ってんのよ! クソババァ!! 」
アイツは、滅びの呪文を唱えてしまったのだ。
――あっ! バカっ!! 僕の脳裏をよぎったのは、その一言だった。
……その時、僕は確かに感じた。時が止まるのを。そして見た。おばさんの笑みが凍り付き、ゆっくりとアイツの方に顔を向けるのを。
ヒッと短めの彼女の悲鳴。その後すぐに聞こえてきた足音は、脱兎のごとくアイツが逃げたからだろう。
「……ちょっと、ごめんなさいね? 席を外すわ」
「……う、うっす。お気の済むまで」
こうなると、もはや誰も止められない。
過去、数度見てきたこの家の私刑執行開始である。
僕は知っている。こうなったおばさんは、マジで怖いということを。しかも、『ババァ』が禁句だということも。
つかつかと玄関のたたきを上がり、おばさんは、無言でアイツの居る廊下の影に姿を消す。そして、同じように駆ける足音の後、威勢良く聞こえてきたのはアイツの声で。
『――そっちが先にやったんじゃん! 』
『先にタオル投げたのアンタでしょうが! 』
『お母さんが余計なこと言うからでしょ! 』
『だいたいクソババァとはなんですか! 』
『ひぇえ! 暴力反対! 暴力反対!! 』
『悪いのはこの口ですか!? 』
『いひゃい! いひゃい! いひゃい! 』
『ごめんなさいは!! 』
『ごめんなひゃい! ごめんなひゃい! もういいまひぇん!! 』
ぎったんばったんどたばたと、見えないところで一方的な虐殺が行われていることは容易に想像できた。
こうなるとアイツが泣いて、試合終了。退散するにはちょうど良い頃合いだろうか。まだ、おばさんの話をこれっぽっちも聞けてはいないけど、逆に今の状況下で長居するのは迷惑だと思う。
きっとおばさんも頭に血が上って、またさっきみたいに話をする気分ではないだろうし、僕は、未だ姿の見えない二人に向かって、廊下側へと少し大きめの声をかけた。
「それじゃぁ、今日は帰ります」
あとは回れ右でこの場を後にするだけなんだけど、『あ、こら! 』おばさんの声のあと、どたばたともう一度誰かが駆けてくる、そんな足音がして――僕は、思わず息を呑んだ。
「待って!! 」
瞬間的にクラリと目がくらんでしまう。だって、
「お、お前! バカ! 」
だって、すらりと伸びた真っ白な手足がまぶしい、極端に布地の薄い格好のアイツが、僕の目の前に、その姿を晒しているのだから。
それはもはや下着だろう。ここまで無防備な姿を見たのは小さいとき以来か。恐ろしいほどに刺激が強すぎる。モデルのような体型の彼女がだ、しかも僕の本当に大好きな彼女が、あられもない姿で、そこに居るのだ。
「……行かないで」
僕はとっさに天井へと目線を切った。蛍光灯がまぶしく両目に光をたたき込んでくる。
ダメだ。いけない。非常に問題だ。頭の中が、整理しきれない。
「アタシ、言わなきゃ。……アンタに言わなきゃダメだから」
「っ!! 」
しかも、これがトドメと言うべきか。そんなアイツが抱きついてくるもんだから、僕は頭が沸騰してしまいそうで。
「なんでこっち見てくんないの? 」
彼女の鼻声が恐ろしく近い位置から聞こえてくる。そして、彼女の柔らかい身体が、僕の理性を挑発するかのようで、どこを見るとか見ないとか。スミマセン、決して今、そういうことではないのです。
「なんで何も言ってくれないの? 」
上を向いた僕の顔、その両頬に彼女の手の温もりを感じる。少し濡れた感じの手のひらは、震えていた。
「やっぱり、怒ってるよね……」
怒るとか怒らないとか、一体これはどうしたことだろうか。この状況は何なのか。場の展開が早すぎて、それでいて意味不明すぎて、脳みその処理がまったくもって追いつかない。
でも、彼女の声色が暗く沈んでいることはわかった。
自分自身、起承転結がごちゃ混ぜになった物語を読んだような、そんな難解さを感じながらも、それでも僕が、何よりも優先してしなければいけないこと。それだけはいつも理解しているつもりだ。
だから、僕は滾る煩悩を強引に沈め、ゆっくりと深呼吸――頬に感じる彼女の両手に、自分の手のひらを重ねる。
「別に、怒ってないよ」
「じゃぁ、なんでこっち見ないの? 」
「それは、その、だな……」
どちらかというと、今日一日で僕がしでかした珍騒動の数々から、怒る権利はそっちにあるのだけど、それなのになぜ僕が怒るのか。
いやはやなにがなにやら、どう言ったものかと少し考えを巡らせたが、よりいっそう押しつけてくる彼女の身体に、思考を遮られてしまって。
もうこうなれば、あれだ。ああだこうだとオブラートに包んでいる場合ではない。こんな時は、ど真ん中に正攻法でいくしかないか。
僕は天井を見つめながらゆっくりと息を吸うと、意を決して彼女の名前を優しく呼んだ。
その覚悟を決めたいつもと違う雰囲気に何かしら察してくれたのだろう。彼女の声色が変わり、向こうも僕の名前を静かに呼んだ。
わずかな沈黙の後、――僕はただ、一言だけ。
「頼むから、服を着てくれ……」
――数秒後、金切り声を上げうずくまる彼女と、そして、爆笑するおばさんの声がうっすらと聞こえてきた。
「大胆ね~~♪ ダーリンなら構わないってこと? どうせ全部見せるからって、――大胆ね~~♪ 」
「う、うるさいっ! 」
近距離でアイツの悲鳴を聞いたもんだから、派手な耳鳴りで、上手く話が聞き取れない。
いつの間にか姿を現した妹も、あきれ顔で。
「玄関先でその格好とか、痴女だね、痴女。どこに出しても恥ずかしくない立派な痴女だよ。いや、恥ずかしいか、生き様が」
「アンタもうるさいのよっ!! 」
晩酌中だったであろうおじさんも、ビール片手に騒ぎを聞きつけてやってきて、
「お父さんはまだ早いと思うなぁ。そういうのはしっかりと段階を踏んでだな」
「あのね、アナタは奥手すぎましたよ。アタシがどれだけ必死にアピールしたことか」
「え、そうかなぁ? 絶対ボクの方が、先にキミを好きになったはずだけど――」
「――あぁもうっ! どいつもこいつもうるさ~~~いっ!!! 」
蛍光灯が作り出す、電球色の淡い灯りの下。玄関のたたきに一家総出で、和気藹々。本当に仲の良い家族だと思う。
だけど、いよいよ夜も更けすぎた。さすがにそろそろお暇するべきか。身体を隠すようにしゃがみ込んだ彼女の方を見ないように、いまだ耳鳴りで揺れる頭のまま、皆に挨拶をすると、僕は飛び出すように外に出た。
「明日、……明日は絶対に言うから! 」
その間際、良く通る彼女の声に、僕は「おう、頑張れ! 」とだけ。アイツの方を見ずに、手だけ上げると、自分の家へと足を向けた。
……明日。そうか、あしたか。
――ほんの十メートルほどのわずかな帰り道。頭の後ろで腕を組み、夜空を見上げて、「あ~ぁ」とこぼれた自分の溜息に、苦々しく笑みをこぼしてしまう。
ふと、あの浮かぶ青白いお月様に、さっき見たアイツの綺麗な肌を重ねてしまい、ダメだダメだと頬をはたく。
そんなの、アイツとその想い人に失礼だろう。なんて、言ったそばから悲しくなるのは、いい加減慣れたいものだ。
「……明日かぁ」
そんなセリフしか出てこない僕を、不思議とあの星たちがあざ笑っているように見えて、くそったれ。……道ばたの石ころを軽く蹴りとばした。
本当にイヤになる。だってそうだろ。なにが、
「……なにが、がんばれだよ」
……もう、辺りは滲んで何も見えなくなっていた。
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