第28話 妹は、まぁ仕方ないかと、姉の背を押した。
目の前で、血の気の失せた顔が唇を震わせた。
どうしよう。そんな表情で、姉の目にはもう涙がいっぱいたまっている。もしかすると、今日一日の間でいくつかの心当たりがあるのかも知れない。ようやく自分のしでかしたことの重大さに気が付いて、押しつぶされそうになっているようだ。
でも、心当たりがあるのなら、それならなぜ原因を探ろうとしなかったのか。少しでも心配にならなかったのだろうか。もし逆の立場なら、兄ちゃんは絶対に放っておきはしない。でも姉は、そんな兄ちゃんの変化を気にもとめず、放置したというのか。
今日という今日は目の前のこの馬鹿に失望した。それにはっきりと確信した。このクズに――兄ちゃんはもったいない。
「まぁ兄ちゃんは、周りの事を第一に考える優しい人だからね。すぐにいい子が見つかるよ」
「やだ！ 」
「は？ 最低クソ女は黙ってなよ。自分と同じ見てくれだけの最低クソ男でも探して、そいつとよろしくやってれば？ 」
お似合いじゃん。アタシは肩に置かれた姉の手を感情のまま乱暴に払いのける。それがきっかけになったのか、いよいよ姉の瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
「ねぇ、どうして泣くの？ 泣きたいのは兄ちゃんのほうだよ。被害者面はヤメな。反吐が出る」
その涙も、今のアタシには効果がない。むしろ泣けばすむのかとイラつきを倍増させるだけ。アタシはどうにも許せなくて、姉の肩を突き飛ばす。
普段なら負けじと姉の手足が飛んでくる場面だが、今回だけは役者が違う。姉は力なくその場にへたり込んだ。
「兄ちゃんは良いヤツだからね。きっと、自分の気持ちが届かなくても付き合い方を変えたりしない。でも、心にはとんでもなく大きな傷を負ったと思う」
アタシは姉の前に座ると、一度深呼吸をして、言い放った。
「こんなどうしようもないヤツに、兄ちゃんはもったいないよ」
向かい合い、涙でグズグズになった顔で、姉は呆然とこちらの顔を見つめてくる。……さすがに少し言い過ぎただろうか。
いや、そんなことはない。
だって、今回ばかりはあんまりだ。酷すぎる。姉がどう泣こうが傷つこうがアタシはこの言葉を撤回するつもりはない。
「――ねぇ、どうしたらいい？ 」
だから、姉が血の気の失せた真っ白な顔でそう聞いてきても、何も答えてやるもんか。
「ねぇ、どうしたらアイツ許してくれるかな？ 」
震える姉の指がアタシの手に触れてきたけれど、アタシは視線をそらしたまま、徹底的に無視の構え。
「アタシ、嫌われたくない。他の誰にも、とられたくない」
でもバカみたいにしつこくて、そして、その顔がいよいよ鬱陶しくて、
「……自業自得じゃん」
触んないでよ。アタシは、冷たく姉の手を振り払った。
「なんで、……なんでそんないじわるするの……」
ポロリとこぼれたアタシの本音に、姉は堪えるように下唇をかんで、あぁこれは、もう限界か。ほら見ろ、今更泣くまいと手で涙を拭っている。
これは、姉が本当に反省したときのサイン。過去数回、兄ちゃんに酷く叱られた時くらいにしか見たことがない。
アタシは、……あぁそうかと、重く溜息を一つ。
この姿を見ればわかる。――たぶん、兄ちゃんの告白は突然だったんだ。
前触れはあったのかも知れないけれど、その辺のたぐいにニブイ姉である。
きっと不意打ちにも似た兄ちゃんの告白で頭がショートしたのだと思う。心底ベタ惚れの兄ちゃんから好きだと言われて、待ちに待った一言だったと思うし、以前から色々とああ言おう、こう言おう。様々な返答を用意していたのだと思う。
でも、いざという場面で不器用な姉だ。感情だけがフルスロットルで舞い上がっちゃって、だけど頭の中は真っ白に吹っ飛んで、同時に準備していた言葉は全て消し飛んで、あれよあれよと時間だけが過ぎちゃって。
だけど、だからといって甘やかしてはいけない。反省なんてして当然だ。なんせ悪魔のような仕打ちを姉は兄ちゃんにしたのだから。
アタシは今、怒っている。許せない。腹に据えかねているのだ。
だから、どんなに姉が悲しそうに泣こうとも、許さない。兄ちゃんとの関係がどうなろうと、今日ばかりは絶対に何があっても許してやるもんか。
だって、アタシなら耐えられない。
「……フラれたと思って、兄ちゃんいっぱい傷ついたと思う。それに、」
……ひとり、部屋で泣いてたかもしれないんだよ。
多分、それがとどめの一撃になったのだろう。
決壊したダムのように、姉の瞳からは涙が溢れた。そしてついには姉がアタシの胸に頭を置いて、そのまま声を押し殺し、背中を震わせて泣いてしまったのだから。
ふいに、今日何度目かわからない溜息が出て、はぁ。ホントにこの姉だけはもう、世話がやける。
本当は頬が腫れ上がるまで平手打ちをお見舞いして、いかに自分がどうしようもない人間なのか、淡々と朝まで説教してやろうかと考えていたのだけど、――でも、それももう無理そうだ。
いっつもワガママ言って困らせて、気に入らないことがあるとすぐ泣くし、毎回こんな姉、放っときなよと言うアタシに、兄ちゃんは、困ったヤツだよなと嬉しそうに笑うのだ。
そんなんじゃダメだよ。もっと厳しくしなよ。
兄ちゃんに何度そう言い聞かせたかわからないけれど、……結局アタシも、ひとの事は言えない。
「……ずるいって言われるでしょ」
どうやら、姉を取り巻く面々は、どうしようもなくこの生き物に甘いみたいなのだ。
そして、……あぁ、やられた。
ほぼ無意識のうちに姉の頭を撫でながら、Tシャツ越しに胸に感じるこの温かなものは、経験上、涙と――鼻水だ。
アタシをティッシュか何かと勘違いしているのか。この野郎、やりやがったなと苦笑い。
「お姉ちゃんは、酷いことしたよね」
姉はアタシの胸に顔を当てたまま、ただ力なく頷くだけ。
「兄ちゃん、すっごく可哀想だよね」
その形の良いつむじを見ながら、アタシはもう一度心を鬼にした。
「バカ、アホ、クズ、ワガママ、あんぽんたん。……今度ばっかりは、本気で嫌われててもおかしくないから。それは覚悟しなよ」
姉の手が、アタシの服を握りしめる。弱々しく聞こえてきた『ヤだ』の声色が、いよいよ姉の懺悔に聞こえてきた。
まったく、どうしようもない。毎回毎回溜息が出る。アタシは、これで最後だと自分に言い聞かせて、スマートフォンを手に取った。もちろん、その行動が意味するところはひとつしかない。
「……じゃぁ、今から兄ちゃんに返事しなよ」
がばりと姉は、泣き濡れたまま顔を上げた。嫌な液体をアタシの胸元から自分の鼻へと糸引かせながら、『そんな急に、困ります』と言いたげな表情を見せていた。だけど、いよいよアタシの無視も主演女優賞の域に達しているみたいだ。素知らぬ顔のまま二人の未来を左右する一文を、平然とスマホを操作し綴っているのだから。
そもそも姉の意見は聞いてないし、聞くわけがない。しかも今更ピーチクパーチク言い訳されても後の祭り。もうすでに見慣れた名前を選んで、短く一言メッセージを送ってしまったのだから。
とりあえず姉の顔にティッシュを押しつけて鼻をかませる。二度三度と、嫌な音を立てる隣でアタシは鼻水で汚れた服を着替えた。
「……ぺったんこ」
「ああん！？ 」
んだと、このやろう。
ホントにこの姉とだきゃあ、つくづくウマが合わない。
アタシの着替えシーンに何を言うかと思えば、一度本気で張り倒してやろうか。床に投げられたノートをむんずと掴むと、――家のピンポンが鳴った。
果たしてそれは未来への福音か、はたまた地獄への誘いか。
何も知らない姉は、こんな時間に誰かしらと、真っ赤に腫らした目のまんま相変わらず察しの悪いことを言っている。
――アタシは姉の頭を、丸めたノートではたく。
小気味の良い音の後、頭を押さえた姉に、スマホの画面を見せて言い放った。
「これが最後のチャンスと思いなよ」
画面を凝視した姉の、声にならない小さな悲鳴にも似た、きっとあれは断末魔か。そんな絞り出すような吐息のあと、階下の玄関から聞き慣れた声が聞こえてきた。
――姉の身体がびくりと跳ねた。
真っ青な顔でオロオロと、出来の悪いロボットのような動きで右ひだり。終いにはギクシャクとおぼつかない様子で意味も無く髪をいじる姉に、アタシは、もう一度ドシンと床を踏みしめた。そして、
「好きっていうだけじゃん」
はやく行け。
モジモジと、今更怖じ気づいたような素振りがいよいよ時間の無駄だと感じてしまい、アタシは姉の背中を押して、部屋の外へと追いやった。
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