第15話 アタシとコッペパンと美女と野獣と ②




 ――そして、今に至るわけなんだけど。


 「おう、先客か。まいったな」


 開けた大口を、ゆっくり閉じて、そのままアタシは言葉を失った。


 ……あ、やばい。


 とっさにスマートフォンを手に取り、大慌てでアイツの名前を探してしまう。

 でも、焦る指ではスマホを上手く操作できなくて、何されるかわかんないんだもん、相手からも目が離せなくて。

 どうしよう。泣きそうなんだけど、こんな時はどうするればいいんだっけ。……自分でもわかるほど、どんどん血の気が引いていく。

 なんせ、アタシの昼食を邪魔した相手。――過剰なまでに足音を立て、ズシズシと階段を上ってきたのは、ふぇぇ……。心の底から勘弁して貰いたい。見るからにガラの悪そうな、大柄の男だったのだから。

 着崩した制服と、首にだらしなく巻いたネクタイの色から、この男が上級生、二年生だとわかるのだけど、そんなことよりも、短めの髪に三白眼気味の瞳。誰かに殴られたのだろうか、右の眉尻と左の口角に絆創膏が貼ってあり、少し焼けた浅黒い肌や、見上げるほどに長身で骨太の全体像が、まさしく熊を連想させた。

 ど、どうしよう、いよいよ泣きそうなんだけど。アタシは恐怖感を募らせていく。

 もしかしなくても、今のアタシは絶体絶命なのだとわかる。

 なんせ、ここは最上階。一目散に逃げようにも、当然、背後の屋上へと続く扉はきっちりと施錠されており、どうあがいても素手であの南京錠を破壊できるとは思えない。かといって、残るひとつの脱出口――下へと続く階段は、今まさにこの不良によって通行止めなわけで。

 まずいまずいまずい。そもそも、アタシにとって、こういう輩は恐怖の対象でしかない。なんせ昔から、この手の人間に不思議と絡まれるのだ。

 ただ静かに町を歩いているだけなのに、ゆっくり買い物をしているだけなのに、そして、アイツと楽しく話をしているだけなのに。こっちは何もしてないのに、いちいちちょっかいをかけてくるのだ。

 しかも今は、頼りのアイツが隣にいないんだもん。こんなの大ピンチじゃない。身を挺して、アタシを守ってくれる人がいないのだ。

 そんなアタシの混乱などお構いなしに、不良はどんどんと近づいてくる。その大柄の体躯に鋭い目元、そして身に纏った荒くれ者な雰囲気は、こちらの身体をすくませるのには充分すぎた。

 アタシはまるで声の出し方を忘れてしまったのか、それでいて腰が抜けたみたいで、クッションに座ったまま、動けそうにない。

 一歩ずつ上ってくる姿に、いよいよもうダメだと身構えた。そして、


 「――別に、何もしねぇよ」


 溜息と一緒に聞こえてきたのは、そんな言葉だった。

 アタシの震える身体に気づいたのか、不良は呆れたように鼻を鳴らすと、


 「勘弁してくれよ。とくにアンタみたいなとびっきりの美人には優しいんだぜ、俺は」


 仲良くなりたいからな。なんて犬歯を見せながら、ガハハと豪快に笑った。

 困惑するアタシの顔をチラリとも見ようとせず、不良は、踊り場の隅に何やら可愛らしい巾着袋を置くと、その隣にある青色のクッションをひとつ持って、そそくさと踵を返した。


 「あ、その包みは気にしなくて良いからな」


 置き土産のように言葉を一つ吐き捨てると、そんな飄々とした態度のまま、不良は振り向きもせず行ってしまった。


 「……ふ、ふぇぇ」


 ――アタシは空気の抜けた風船のように、マヌケな声を上げながら踊り場の壁に身体を預けた。


 ほんの1、2分ほどだったが、その上級生の纏う空気感に当てられたようで、ものすごい疲労感だ。遅れてきた安堵感に、さらにどっと汗が滲む。

 それにしても何事もなくて良かった。こんな人通りの無い場所だもん。大声を出せばなんとかなる状況でも無い。たまたま誰かが通りかかるなんて、それこそ奇跡に等しいし、そもそも相手があんな凶悪な顔をした熊のような男なのだから、誰かが助けに入ったところでこの状況を打破できるかと聞かれると、難しいのではないかと言わざるを得ない。

 そして、なによりもこれが一番重要な所だけど、アイツに連絡しなくて良かったと心からそう思った。

 なぜかって、そんなの決まっている。アタシはあらためて胸をなで下ろしてしまう。


 ――だってきっと、アイツはめちゃくちゃ怒るだろうから。


 普段はアタシが何かしでかしても笑うか呆れるかの二択で、全然怒りの感情を見せないヤツなんだけどね。こういう場合に限り、話は変わる。

 アタシは身をもって経験したからね。アイツは、怒ると本気で怖いのだ。

 いつだったか、理由は覚えてないんだけど、たしか母親が不在だったから止める人が居なかったのよ。些細なことだろうけど、妹と取っ組み合いの大喧嘩をして、アタシは右目に大きな青痰を作ったことがあった。

 もちろん妹も負けないくらい酷い目にあわせてやったんだけど、姉妹のケンカなんてすぐに仲直りするもの。1時間もすればすっかり忘れて、何事もなかったようにその顔のままアイツの家へ遊びに行ったわけよ。

 まぁ、その時の彼の顔ったらね。アタシの顔を見るなり、目を見開いて、息を呑んだと思ったら途端に無表情になって一言。


 『誰にいじめられたの? 』


 当然、こっちは何言ってんのコイツと首をかしげるわけだけど、だってアタシは別にいじめられてないしね。それこそ、ただのケンカだから大丈夫よ。って説明しようとしたら、『家でね――』のところで、アイツってば、ものすごい勢いで走って行っちゃった。

 もちろん、アタシも後を追いかけて、……それからはお察しの通りで。

 彼曰く、隣の女の子が顔を腫らして来たもんだから、今思えば、笑っちゃうような子供の発想なんだけど、アタシが家で誰かに暴力を振るわれたと思ったらしい。でも、隣家の両親がそんなことするわけないし、ならば第三者の仕業かと激怒したらしい。

 手にはバットなんか持っちゃって、どんな相手を想定していたのかしらね。

 でも家から出てきたのは、鼻に真っ赤なティッシュを詰めた妹だけで、しかも、理由は兄弟ゲンカというバカみたいなもの。

 もう、それからはダメね。地獄を見たわ。

 顔の傷が残ったらどうの、ケガするほどケンカするなだのなんだの、それこそ烈火のごとく怒鳴られた。初めて見た彼の怒り顔と剣幕に、直接怒られてないくせにさ、あの妹まで泣いたもの。もちろんアタシはとっくの昔に大号泣よ。だって、アイツってば、あの子には何も言わないのよ。アタシだってケガしてるのに、優しくしてくれて良いじゃないの。それなのに、やいのやいのとお姉ちゃんなんだから我慢しろなんて口やかましく言うんだもん。あのね、お姉ちゃんだから我慢できないの。わかりなさいよバカ。

 しかも、帰ってきた両親に事細かに顛末を伝えるんだから酷いと思わない? 流石に頭にきたから、このチクリ魔! ってアイツに悪態ついたら、その日、初めてお父さんに叱られたのよね。


 『二人とも、いいと言うまで、おやつもジュースもマンガもアニメもゲームも全部禁止』


 最終的な両親の下した判決に、アタシは気が遠くなったわ。それに、その時初めて人の絶望する顔を見た。まぁ、妹のなんだけど。

 そんな、アタシがケガすることを異常に嫌う彼が、常日頃、言い聞かせてくることがある。


 『危ないことはするな、近づくな、気をつけろ』


 それ以外のことはこれっぽっちも干渉してきやしないのに、この三点だけは耳にタコができるほど聞かされた。

 でも、不思議と他人に絡まれやすいアタシだから、ほんと彼には助けられているし、同じくらい心配かけている。

 だから、これ以上迷惑かけたくないしさ、アタシも普段ワガママで困らせてばかりだけど、それでもこの三つだけは守ろうと努力してはいるの。


 『何かあってからじゃ遅いからな』


 これも彼の口癖のひとつ。アタシの事を考えてくれているなって、大切に思ってくれてるみたいねって、この言葉を聞くたびに、嬉しく思う。

 だからこそ、今日の事は口が裂けても言えない。

 こんな人っ子一人いないような場所に自ら進んで来てしまったのだから、絶対に怒られる。結果的に何もなかったのだけど、昨日、せっかくあんなに良いことがあったのだから、アタシはアイツとモメたくない。

 怒った彼の顔を思い出し、もうあんなのゴメンよ。アタシは過去の悪夢を振り払うように、コッペパンを口の中に押し込むと、――さすがに無茶だったか。喉に引っかかり、咳き込んでしまった。

 もう、いつもこう。テンパると何かしらのミスを起こすんだから我ながら呆れてしまう。


 ――北校舎の一番上、階段の踊り場で、パンを詰まらせて悶える、バカ丸出しの女子。それがアタシ。


 苦しくて胸を叩き、こんな無様な姿、知り合いに見られたら躊躇なく死ねるわね。せめて飲み物を持ってくるべきだった――なんて、どうにかこうにか必死に飲み込もうと努力していると、


 「――大丈夫? お茶で良ければありますよ」


 ……まさに神のご加護か。喉に詰まったパンと格闘している最中、いつのまにか目の前には一人の女生徒が立っていた。




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