Green Green スイートホーム~金曜日はレモネード~

市來 茉莉

①意地《十回目のプロポーズ》

 真っ白な海軍の制服、白く輝くその人に『結婚したい』と伝える。

 緑のプロポーズは、これで十回目だった。


「ごめん、その話はまた帰ってきたらね」


 カウンターで彼女が気怠そうにため息をついた。

 これもいつもの彼女の態度だった。


「それよりさ。出かける前にせっかく、りょく君のところに来たんだから、いつものくださいな」

「答えないやつには出さない」

「じゃあ、要りません。さようなら。行ってきます」


 いつもは、緑がつくるレモネードを飲んでから仕事へと向かう彼女が、あっさりとなにも飲まず食わずで旅立とうとしている。


「いいんですか。マスター」


 地元でやとっているアルバイトの女の子が、心配そうに緑を見る。

 緑が意地を張っている間に、彼女が店のドアを開けて出て行ってしまった。


 スーツケースを片手に引きながら、レモンの樹で茂る丘の小路を下っていく。

 その白い制服の背中を何度見送ったことか。



 この島で高校の同級生だった。

 卒業後、彼女は軍人の道へ進み、緑は一時都市部の飲食業界で料理人修行をしたが、地元の島に帰ってきて実家の蜜柑農家を手伝っていた。

 密柑山は兄が跡取りとなり、いまは蜜柑以外にレモンなどの柑橘も育てている。

 緑も農業を手伝いながら、その密柑山の丘の上、レモン実る小路の脇にカフェを経営するようになった。

 海が見えるレモンの丘のカフェとして、それなりに客が入ってくる。


 そこでいつも彼女の帰還を待っている。


 ふつう、男が軍人で、女が地元で待っているものなのだろう。

 いまの世の中、男だからこの仕事、女だからこの仕事もなくなった。


 彼女はひとり生きて食べていくために、この仕事を選んだと言っている。

 そんな彼女には、もう両親もいない、兄弟もいない。

 親戚はいるが、彼女が頼るほどには親しくもなく、近くに住まう人々でもなかった。


 彼女は帰る家がない。

 でも島には帰ってくる。


 小さな一部屋を借りっぱなしにして、休暇はそこで過ごしている。

 その時は毎日のように緑のカフェにやってきて食事をする。島にいる間、彼女は料理をしない。すべて緑任せだった。


 そんな彼女が休暇で島にいる間、金曜日はレモネードと決まっていた。

 カレーは仕事でさんざん食べているから、島にいる間は違うものがいい。そう言われて緑が彼女に出したのが、レモネードだっただけだ。


 金曜日以外に彼女が飲むのは、着任し海へ出航へと向かう日。島を出て基地に戻る日だった。


 一年のうちに数えるほどしか会えない。

 でも、緑は待っている。

 そこまで待たされる女なら、他の女をさがせばいい。人はそう言う。

 でも。緑の心が揺れることはなかった。

 還ってきた彼女が、緑の胸元にひっついて離れてくれなくて、ぐっすりと眠っている『あどけない顏』を愛しているからだ。


 緊張をといて、素の顔でくつろいで、微笑んで。『俺の料理』をどれもおいしそうに頬張って幸せそうな顔をしてくれる女は、彼女しかいなかったからだ。身体もそう、彼女は『緑くん』とでないとダメだと言って、海で抑え込んでいる感情をぶつけるように激しく昂ぶり、肌を熱くして求めてくる。

 それを受け入れる緑もまた、煽られて翻弄されて、でも彼女と一緒に奈落の底に墜ちていくように性愛を貪る。


 ほんのひとときでも、緑には極上の甘美と官能なのだ。


 そんな彼女は男に囲まれて仕事をしているもんだから、毎回無事に帰還するまでヤキモキしている。

 二ヶ月以上も海上で艦に隔離されるうえに、男に囲まれるなんて、なにかがあったら逃げ場がないじゃないか!! そんな緑の焦りだった。もう、誰にも手を出させない、手を出したとしても徹底的に夫の立場という強権にて、こてんぱんにやっつけて、密柑山の肥やしにするか瀬戸内のサメに喰わせる――という状況をどうしても手に入れたい。『夫』という彼女の『守護』になりたいのだ。


 だからお願いだ。俺の、俺だけのものになってくれよ~。

 プロポーズはキリッと男らしく、少し押しを強くして真顔で『結婚してくれ。おまえの還る家になるよ』と告げるのだが『いまは要らない』と言われ玉砕すること十年――。緑の内心は毎回ぐずぐず泣いている。


「追いかけなくていいんですか、マスター」


 アルバイトの彼女の声で我に返る。


「……いつものことだよ」


 さすがに十回目になると、なにがいけないのか問いただすべき機会ではないかと思いたくなってくる。


 若い彼女がじっとりとした目つきで、緑を睨んでいた。


「マスター。私がこの島にお嫁に来て、働くところがなくて、やっとここでやとってくれたでしょ。その時の理由を覚えています?」


 まだ二十代の若い彼女に問われ、緑も彼女と面接した時を思い浮かべる。

『え、マジ? 広島の実家のお父さん、岩国基地の軍人だったんだ』

『ええ、はい。そうですけれど……』

『採用! 俺も岩国基地大好き!』

 採用されたのに不信感を抱いたような彼女の顔を思い出している。


「お父さんが岩国の軍人だったから。定年で退官したんだろ」

「変な理由で雇ってくれたなあと思っていたけれど、乃々夏ののかさんが会いに来ることを知ってから、やっとわかりましたよ。カノジョさんも岩国の軍人さんだったからなんだって。履歴書なんていらなかったじゃないですか。つまり、愛しい彼女さんとおなじ基地で働いていた父親がいただけという、ものすごく私的な単純な理由。まあ、感謝していますよ。にしても、寝ても覚めてもカノジョさん一筋。もう、この二年ですーーごくわかりました!」


 単純なのは緑も自分でもわかっている、つもり、だった。

 だがこのアルバイトの彼女『千草』に、ぐっと背中を厨房の勝手口へと押される。


「父も言っていました。任務に出る時は還ることを誓っても、今生の別れかもしれないから――。思い残しはないように――。いいんですか、思い残して見送ったりして。また還ってこられる気持ちにしてあげて送り出す、これは母が言っていたことです」


 さすが元軍人の娘。その背に押され、ぐずぐずといじけていた心を追い払うように、緑はやっとレモンの丘の路を走り出していた。


 季節は十一月、青いレモンが瀬戸内の陽射しに輝く季節。

 レモンの丘を下ったが、乃々夏の姿はもうどこにもなかった。

 追いつけるはずの時間と距離なのに。ほんとうにどこにもいない。


 つまり。もしいま緑の姿は見えていたとしても、彼女が隠れているかもしれないということだった。


「くそ。もう……無事に還ってくればそれでいいからな!!」


 隠れているなら、このひとことだけでも聞いていてほしい。

 丘を降りた海辺の道路、タンカーやフェリーが行き交う瀬戸内の海へと大声を張り上げていた。


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