7 ー妻に嫌いと言われたー
「だからって離縁するのか。会ってみたら長年抱えていた恋慕も冷めたのか?」
ウォレットの声にオリビアは手を止めた。
冷めてなんていない。
オリビアは首を横に振った。
「離婚すれば旦那様は不本意な婚姻から自由になれる。私も、心苦しい思いから解放されるわ。それに……役不足だと思うもの」
自分が妻としての責務を果たせていないとリカルドが訴えれば、離婚出来るのではなかろうか。
何せ自分は貴族女性らしくない。……リカルドだってきっともう、うんざりしている。
「お前は逃げてしかいないじゃないか」
言われてオリビアは唇を噛み締めた。
「ウォレットに何が分かるの。旦那様は婚姻の日、誓ってくださらなかったわ……」
リカルドは書類にサインしただけだ。オリビアと向き合う事をせず、結婚に了承した。貴族の結婚はこういうものだとあの時理解したのだ。
「それなら尚更お前が逃げたら歩み寄れないじゃないか。努力もせず結果だけ欲しがるなんて、らしくないな」
仕事と恋は一緒なのだろうか。
「頑張れよオリビア。それであの男がお前の気持ちを蔑ろにするようなクズだったら、俺がぶん殴ってやる」
「ウォレット、あなたもう平民なんだから貴族に手を上げてはダメでしょう」
思わず苦笑するオリビアにウォレットは、そういえばそうだったと、
「……楽しそうだな」
低くよく響く声にオリビアははっと振り返った。
◇ ◇ ◇
妻の執務室にはドアが無い。
男女で研究を共にしている配慮だろうか。
だから歩いていると部屋での会話が廊下に響き、聞こえてきた。
離婚 恋 逃げる 努力 俺が殴ってやる……
誰が誰を殴るというのか。
じろりと睨めば男は何かを飲み損ねたような顔をした。
恐らくこいつがウォレット・ウィリスなのだろう。
「君が私との婚姻を拒もうとしたのはこいつの為か」
リカルドの言葉にオリビアは目を丸くした。
「今更嫌がったところで君は既に私の妻だ。離縁などしない。だが君が伯爵夫人として自覚も持たず、男女共同の研究室で別の男と寝食を共にするのは認められない。今すぐ魔術院を辞めて貰う」
リカルドはいらいらと告げた。間違った事は言っていない筈なのに、言いたい事はこれじゃないと冷静な自分が頭の中で首を振る。
オリビアは一瞬瞳を瞬かせたが、次第に苦いものを口に含むような顔つきになった。
「私は不貞など働きません」
「私だって働いていない。なのに君はなんだ。まるで私を責めるような目をして、それなのに踏み込ませずに逃げてしまう。それでも捕まえようとしない私が悪いのか? なら今言ったように魔術院を辞めるんだ。君の帰る場所がエルトナ家の屋敷になるまで、君は外に出るな!」
叫んだ途端オリビアは一瞬目を大きく見開いた後、口元を引き結んだ。涙が張る瞳からそれが溢れないように必死に耐えている。
ふと、涙を堪える彼女の顔にリカルドは既視感を覚えた。
リカルドが動揺を隠せずにいると、オリビアは俯きながらぽつりと呟いた。
「旦那様なんか嫌い」
その言葉が身体に与える衝撃に驚けば、オリビアはリカルドの横を通り過ぎて部屋を出て行った。
動揺に目を泳がせば何とも言えない顔をしたウォレットがこちらを見つめていた。
「オリビアもそうだと思ってたけど、あんたも大概ズレてるなあ」
気安く妻の名前を口にする男を睨みつける。
「そんな目で見るな。あいつは俺の親友なんだ。心配くらいするさ。あんただってそうだろう。親友だから怒ったんじゃ無いのか? 性別は関係ないだろう」
誰の話をし出したのか気づき、リカルドは周囲を見渡した。
「こんなところにお貴族様が張り込んでいる訳無いだろう。そもそもあの馬鹿皇子はそこまで周到な人間じゃない。出来るのだってせいぜい嫌がらせくらいだ」
公然と皇族を批判すれば打首だって否応無い……が、平民の言葉にそこまでムキになれば逆に皇族の威信は
「オリビアはあんたと同じだよ。いいか、オリビアは妬いているんだ。ディアナ姫を心配しているあんたの心は、お姫様のものだと思っている」
リカルドは瞠目した。自分が妬いていると言われた事。そして彼女もまた自分に妬いていていると言われた事に。
リカルドはディアナとはそれ程気安い間柄では無い。
彼女は高嶺の花で近寄りがたいところがあり、遠巻きにされている人だった。リカルドもまた人から敬遠される存在であった。彼女はそこに寂しさを感じているようだったから、他者と変わらぬ距離感で接していただけに過ぎない。
そしてそれが周囲を誤解させていた一因であったと今なら分かる。第二皇子たちにつけいる隙とさせてしまった事も……
尊敬しているし、幸せになって欲しい人だった。それだけなのだが────
目の前のウォレット・ウィリスがオリビアに同じ気持ち────友愛や親愛の情を持っていると言われると面白くないのは何故か。
矛盾に理由を見出せない。
「……オリビアが離婚しようとしているのは、それが理由か?」
ずっと胸の奥で
ウォレットは片眉を上げてみせた。
「それ以上は夫婦の問題だろう。全く、他所の家に口出ししている余裕はなんて無いんだよ。こっちは」
その言葉にリカルドははっと顔を上げた。それは有名な話だった。彼が妻の為に名家である実家と縁を切り、平民落ちした事。
「……すまない……」
「いーから、オリビアに会って来いよ。あいつなら多分塔のてっぺんで風に吹かれてるよ。馬鹿だから高いところが好きなんだ」
「……わかった」
何となくお礼を言う気になれなくて、言葉をごまかし退室した。
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