第6話:白井先生の過去

「ご両親でお間違いないですか?」

硬質な声に姉がはいと頷く。

「…………」

青白い照明が寒々しい無機質な部屋。

目の前には並んで眠っている父と母。

だけど、姉の涙声がそうではないのだとおれに知らしめる。

「葬儀はどうなさいますか?」

そう。両親は二人で出掛けた先で車の巻き込み事故に遭い、命を落としたのだった。

おれが十三歳の時のことだった。

葬儀は密やかに親族だけで行った。

鯨幕が目に痛かったのを覚えている。

それからおれは姉と二人暮らしになった。

毎朝二人で小さな仏壇に向かって「おはよう」の挨拶。それから「行ってきます」。

姉はもう社会人だったから、おれの保護者としては何の問題もなかった。

おれは中高一貫の公立学校に通っていて。

学費はそんなに高くないのが幸いだった。

朝晩の飯を作るのは必然的におれの役目になっていた。

料理自体は嫌いじゃなかったから、特に不満もない。

働いて生活費を稼いできてくれている姉に出来ることなんて、おれには家事しかないのだから。

家事をしていない時間はほぼほぼ本を読んで過ごしていた。

学校の図書室にある純文学は六年間で読み尽くしたくらいに、本は好きだった。

中学三年の時に進路希望の紙を渡された。

それをテーブルに広げてボールペンをくるくる回す。

(進路、か……別に夢とかないし……高校出たら働くかな……)

就職、と書いたのと同時に姉が帰って来た。

「たっだいまー」

「お帰り姉さん」

「ただいまただいま。ん? 何書いてるの?」

「進路希望」

「お、どーすんの?」

「就職かな、って」

そう云った瞬間姉の顔が歪んだ。

「大学行きな」

「でも……」

「夢とかないの?」

「別に……」

逆に姉さんはあったのか、と訊けば、姉はそりゃもちろんと胸を張った。

「わたし幼稚園の先生になりたかった」

しかし今の姉の職業は幼稚園の先生ではない。

「何で夢と違う会社に勤めてるの」

「そりゃーあれだ。ピアノが致命的に出来なかったから」

苦笑する姉はちらりと小さな仏壇に視線を遣った。

「お父さんみたいに学校の先生になれば?」

「おれが先生? 向いてないよ」

「そんなことないと思うけど。ほらあんた本の虫だし。国語の先生とか良いんじゃない?」

「国語の先生……どうせなら化学が良いな」

「あんた数学だけ致命的に出来ないじゃん」

それを云わないで欲しい。

文系脳なのは判っている。だけど理科の中で化学だけが妙に好きなのだ。

「あんたが先生になったらお姉ちゃんは誇らしいなぁ」

「……そう、なの?」

「そりゃあそうだよ。弟が学校の先生なんです、って何かカッコイイじゃん」

カッコイイ……? たまに姉の価値観が判らなくなる。

だけど、そうか……と『就職』と書いたばかりの進路希望の紙を見下ろす。

「あんたには学校の先生にならなくても大学には行って欲しい」

「何で?」

「世の中四大出てないと苦労もするからね」

そういうものなのか。

「だから就職はダメ」

鼻を摘まれて、判ったよ、と姉の手を払う。

筆箱から修正テープを出して『就職』の文字を消す。その上に『学校の先生』と書いて、おれはその紙を学校に提出した。

高二の進路希望は明確な進学先を記入しなければならなかった。

選んだのは国公立の大学。それなら学費の負担も少ないからだ。

学力は幾らか上乗せしなければならないが、そこは努力するしかない。

だけど本当は別に行きたい大学もあった。

文系でも化学を学べる学校があったのだ。

しかしそちらは私立。学費は国公立の何倍か。

「大学、決めたの?」

「うん」

「どこ?」

「国公立」

夕飯を食べながらそんな会話。

「本当にそこで良いの?」

「え……」

「大学は勉強楽しんだもん勝ちだよ? 本当に好きなこと学べない学校に行っても意味ないからね?」

「…………」

押し黙ってしまったのは失敗。

「ほら、他に行きたいとこあるんじゃん」

「でも、」

「学費のこと気にしてんの? そんなの子どもは気にしない!」

「けど……」

「わたしだって貯金はそこそこあるし、これからだってお金は入ってくるし」

ね、あんたが本当に学びたいこと学んでくれるのが姉孝行ってやつだよ。

行儀悪く箸を突き付けられて、おれは俯いた。

結局進学先は私立にした。

姉にあれだけ云われて本心を偽るのは失礼だと思ったから。

予備校には通わず独学で受験はパス。

無事合格して姉と二人でささやかな祝賀会を開いた。おれの手料理と、姉さんが買ってきたケーキで、だったけど。

それでもおれにとっては充分だった。


大学のオリエンテーションの日、奨学金制度の話が出たからその話を詳しく聞きに行った。

在学中の学費を免除する代わりに卒業後給料から天引きされるというもの。

自分の尻は自分で拭う。そんな遣り方が気に入って、書類をもらって家に帰った。

必要事項を記載して、あとは保証人の欄に姉のサインと捺印を貰えば良いだけの状態で姉の帰りを待った。

まずは夕飯を終えて、これ、と差し出した書類。

「何? これ?」

「奨学金の書類。これなら姉さんに迷惑かけずに済む」

サインと捺印して、って云ったら姉さんは眉間に皺を寄せたかと思ったら書類をぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放った。

「ちょ、姉さん!」

「あんたを大学に行かせるだけのお金はあるって云ったでしょ。勤続十年弱の社会人ナメんなよ」

パンパン、とわざとらしく手を叩いて姉さんは缶ビールを呷った。

実際入学金も学費もキャッシュ払い。

姉さんには頭が上がらない。

おれが大学二年の時、姉さんは会社の上層部に食い込んだ。

出勤時間は早くなって、帰宅時間は遅くなった。

「ねぇ、今の上層部ってブラックじゃないの」

遅い夕飯を食べながらぽつりと呟く。

「給料は良いからブラックではないかなーあ」

「でも、最近痩せたでしょ」

「元が痩せてた訳じゃないしねー」

からからと笑う。姉さんはいつだってそうだ。

何にも苦労してないみたいな顔して笑って。

「それよりあんた明日予定ある?」

「え、あ、日曜だから何にもないけど」

「じゃー久し振りにお姉ちゃんとデートしよ!」

「は? デートって……」

「お姉ちゃんを労わる気があるならこんくらいのワガママ聞いてくれたって良いでしょ」

ね、良いでしょ。約束。子どものように小指を立てられて、おれは肩を竦めて小指を絡めた。

翌朝。休日でも九時には起きてくる姉が十時を回っても起きてこなかった。

「姉さん? 出掛けるんじゃなかったの?」

コンコンと部屋をノックして部屋に忍び込む。

遮光カーテンの引かれた部屋は薄暗い。

「姉さん、昼になるよ。朝から買い物行くって云ってたじゃないか」

カーテンを開けて、まだベッドに横になっている姉の肩を叩く。

「ねぇ……姉さん?」

手を置いた肩がピクリともしない。

胸元が上下していない。睫毛も震えない。

鼻先に手を翳して、空気が揺れないことに動揺する。

上掛けの中に手を差し込んで手首に指を当てる。指に触れない脈。それ以前に、手首はびっくりするほど冷ややかだった。

「………………っ、」

息を飲んで携帯を取りに自分の部屋へ飛び込む。

震える手で119番を繋ぐ。

「姉が……眠ったまま、起きないんです……」

掠れた声は、ちゃんと拾ってもらえたのだろうか。

直に救急車が来て姉を搬送して行った。無論おれも付き添った。

病院に着く前に、救急隊の人の暗い顔を見て目の前が真っ暗になりかけた。

一応検査を行うからと半日程待たされて呼ばれた病室。

医者はおれを真っ直ぐに見てゆっくりと口を開いた。

「お姉さんは亡くなられました」

ガン、と頭を強く打ち付けられた気がした。

「死因は脳梗塞です。恐らく過労からくるものかと……」

その後の説明は右から左だった。

気付いたら葬儀を済ませていて、二度目に相対した鯨幕はやっぱり目に痛かったのだけはよく覚えている。


ひとりぼっちの部屋で蹲る。

「だから、奨学金取れば良かったのに」

社会人ナメるなよ、と云った時の姉の笑顔を思い出す。

「おれの為に無理する必要なんてなかったのに」

何だか人を殺してしまったような気になった。

否、事実殺してしまったようなものだ。

だって、姉はおれの所為で亡くなったのだから。

「自分の幸せ、全部投げ出してさ……」

おれの世話ばっか焼いてさ。

彼氏とかいなかったのかな。

結婚の話とかなかったのかな。

バカな姉さんだよ、本当に。

何だかもう涙は出なかった。


姉が死んで二日後。

ふと百円ショップへ足を伸ばした。

買ったのは剃刀。

指先で切れ味を試して、ふっと息を吐く。

風呂場に水を溜めて手首に剃刀を当てた。

「……っ、」

ぐっ、と押し当てて、勢いよく引く。

噴き出すほどではなかったけれど、だらだらととめどなく滴る赤。

それを浴槽の中に浸けて額を浴槽の縁に乗せる。

さぁあ、と引いていく血の気。

くらくらし始めて、眠気が押し寄せてきた。

このまんま……。

そう、思ったのに。

「……ん、ぅん……」

重たい瞼を持ち上げたら、真っ赤になった水がおれの服を汚していた。

浴槽の中を見れば、手首から漂う赤はもうない。

「…………っ」

何でおれだけ死ねないの。

何でおれだけ置いてきぼりなの。

何でおれだけ生きてるの?

それは絶望にも近かった。

死ねないなら意味がない。

浴槽の水を抜いて深い傷をハンカチと輪ゴムで覆った。

ぐう、と鳴った腹。

そう云えば姉さんがいなくなってから何も食べていない。

よろりと立ち上がって仕方なくあり物で炒飯を作ってみたけど、三分の一食べただけで気持ち悪くなって吐いた。

姉を亡くしたおれはもう食事を作る必要がなくなった。

おれの作る飯を「美味しい美味しい」と云って食べてくれるから、食卓を共にしたくて料理をしていただけなのだ。

その必要がなくなった。

そこからおれの食生活は崩れに崩れた。

朝昼はゼリー飲料。せめて夜だけは栄養失調にならないくらいの食事を心掛ける。

そんな食生活は今も尚続いたまま。

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