2 伊吹は関をまーくんと呼ぶ

「改めて自己紹介するわね。私は桐原伊吹。

 よろしくね、まーくん」


 伊吹が柔らかい声を投げると、関の肩が微かに揺れた。

 振り返ろうとして、中断したようだ。


 まーくんは、イレーヌが関を呼ぶときに使っていた渾名だ。


 次の発言を気にしているらしい気配を見てとり、

 伊吹は主導権を握るチャンスが到来したと確信する。


 伊吹はお尻の位置を直し、ゆったりとくつろぐ。


 自分が堂々としていれば、友人も少しは気が軽くなるだろう。


 伊吹は勿体ぶるように三拍ほど置いてから続ける。


「まーくん」


「は?」


 ようやく関は上半身を大きく捻って振り向いた。


 車内ではゴーグルを外していたらしい。

 間近で見れば意外と顔立ちは整っている。


 髪型を整えれば、

 発行部数の少ないファッション誌の隅くらいには載れるかもしれない。


 三年前と比べれば、目つきと鼻筋の鋭さが際だってきている。


「さっきから何を言っているんだ」


「この車ね。世界に百台しかないんですって。

 五千万円以上するそうよ」


「おい、質問に答えろ」


「成人式から帰ってきた絵理子さんが、

 初めてお酒を飲んだ後に悪酔いして

 『何が、私の彼氏はポーシェのオーナよ』と

 愚痴をこぼしたのよ」


「そんな話は聞いてない」


 関の指がシートに深く食い込んでいる。


 後部座席に乗り込みかねない程に身を乗りだしたため、

 柚美が小さく「ひっ」と漏らした。


 伊吹はやはり、関に凄まれても恐怖心は湧かなかった。


 むしろ内心では、あの大人しかった青年が、

 何を調子に乗って悪ぶっているのかしらと、不思議に思っているくらいだ。


「絵理子さんは彼氏を自慢されたことに腹を立てていたのよ。

 なのに勘違いをしたお爺さまが『成人祝いだ』と、

 この車をプレゼントしちゃったのよ。

 笑えるわよね。

 それ以来、絵理子さんはお酒を飲まなくなったわ」


 伊吹にとってこれは、場を和ますための、とっておきの笑える話題だ。


 だが、車内の誰も笑っていない。


ちょっとだけばつの悪さを感じた伊吹は作戦を変え、

 冗談で場を和ませるのではなく、真面目に、

 関と向かい合うことにした。


 息を吸い、肺を酸素で満たす。


 関の炯々爛々とする眼差しに、伊吹は真っ向から己の眼差しを重ねる。


「関雅紀」


「何で俺の名前を知っているんだ」

 

 乾ききっていない関の髪から滴が一条、こめかみを経て垂れる。


「関、私に従いなさい」


「はあ?」


「貴方がイレーヌに恩義を感じて、アイーシャを護ると誓ったのなら。

 その誓いは私が引き継ぐ。

 貴方は代わりに、私たちを護りなさい。

 イレーヌを亡くして行き場をなくした貴方の思いを私が受け止める」


「お前が何を言っているのか、

 意味が分からない」


「腹芸は不要よ。

 誓いを果たす機会を貴方に与えると言っているのです」


 関の困惑をよそに、伊吹は一言一言しっかりと口にする。


「イレーヌはここにいる」


 伊吹は掌で覆うように、自らの胸を指し示す。


 車内中の視線が集まり、真っ先に柚美が反応した。


「透けてる。透けてる!」


 柚美の両手が伊吹の胸を覆う。


 伊吹は自分の格好を改めて眺めると、確かにブラウスが透けていた。


 悲しいかな、伊吹は国内でも極めて稀な手術を受けているため、

 医者に裸を見られるのは当然として、医学誌に写真を掲載されたり、

 ドキュメンタリー番組で映像が使用されたりしている。


 そのため、今更異性に服が透けているのを見られたからといって、

 頬を赤くして悲鳴をあげるような羞恥心はない。


「……見た?」


「知るか」


 関は悪態をつくと、

 慌てた様子もなく座席に腰を落ち着け、前を向いた。


「耳が赤いわよ関。

 イレーヌがアイさんにおっぱいをあげるところ、

 見たことあるくせに。

 私なんかの胸を見て赤くなるなんて、情けないわよ」


「待て、待て、待て。

 お前、いったい、何を知っているんだ」


 狼狽える関の様子に、

 伊吹は勝利を確信したから、鼻にかけるような声をだす。


「言ったでしょ。

 私の胸で脈打つのは、イレーヌの心臓だって。

 イレーヌの記憶は私の中にあるわ」


「はあっ?!」


「言ってないよ、伊吹ちゃん……」


「そうだったかしら。

 どちらにしろ、間違いのない事実だわ。

 私は確信している。

 ニュースで聞いたことくらいあるでしょ。

 臓器移植よ。

 私にはイレーヌの心臓が移植されているの」


「……何だと」


 関は言葉を失ったようだ。

 車内に沈黙が訪れる。


 それでも、空気の質は変わり、

 重苦しかった雰囲気はなくなっている。


 関が人間らしい素振りを見せたし、

 伊吹が精神的に優位に立っているのは明らかなので、

 柚美も警戒心を薄めたのだろう。


 沈黙を破ったのは絵理子だった。


 エコバッグ片手に戻ってきた。


「はい。先ずは温かい飲み物。

 次にタオル。消毒液にガーゼ、包帯。

 腕、出して。

 えっと、誰さん?」


「彼は関雅紀。

 絵理子さんより三つ下だから、

 まーくんでいいわよ」


 伊吹は絵理子から受け取ったビニール袋から、

 缶コーヒーを関と絵理子に、はちみつ飲料を柚美に渡す。


 汁粉とココアが伊吹とアイのようだ。


「はい。まーくん、腕を出して」


「まーくんって呼ぶな」


 関が怒鳴りながら腕を引っ込める。


 が、絵理子はあっさり関の腕を掴んで引き寄せる。


「男の子って、元気よねえ」


 関は抵抗して腕を引き戻そうとするが、びくともしない。


 絵理子は合気道の師範なので、

 手首を取った時点で、もう関に抵抗は不可能だ。


「お前ら、いったいなんなんだよ」という関の言葉は、

 伊吹や絵理子から武道経験を感じ取っての疑問だったのだろう。


 伊吹は腕を大蛇に変身させるようなお前が言うなと返したかったが、

 黙っておいた。


 治療は手際よく終わった。

 関は黒尽くめなので包帯の白が眩しい。


 絵理子は桐原道場で合気道を教えているため、

 怪我人への処置は手慣れている。


「はい終了。次は伊吹ね」


 絵理子はいったん運転席から降り、

 後部座席の伊吹側へと移動した。


「足の裏、見せて。

 あ、着替えも買ってきたから。

 Tシャツとショーツと靴下。

 コンビニってなでもあるのねえ。

 あ。まーくん、

 外、出てて」


「別にいてもいいわよ。

 裸を見せた仲だもんね。

 まーくん」


「見てない!」


 期待通りの反応を返し、関は車を降り、

 ドアを乱暴に閉めた。


 伊吹は治療を受けている間、絵理子と柚美に、

 イレーヌの記憶が蘇ってきていることを伝えた。


 ふたりとも半信半疑で受け止めたようだ。


 足の裏の怪我は大したことなかった。


 伊吹は赤く染まった足の裏を見た気がするが、

 どうやら雨に濡れて血が派手に流れていただけらしい。


 ガーゼで血と泥を拭き取ったら、

 傷口か何処か分からないくらいだったし、

 いつの間にか痛みもなくなっていた。


 治療を終え、着替える頃には伊吹の関心事は足の裏ではなく、

 友人に向けられる。


「すごくエロくていいと思います」


「また額を割るわよ」


「絵理子さーん。伊吹ちゃんが酷いこと言ってるよー」


 伊吹は服についていたタグを指で弾いて柚美にぶつける。


「痛ッ! 目に入ったらどうするの?!」


「花瓶よりはダメージが少ないでしょ。

 貴方が人の着替えをじろじろと観察するのがいけないのよ」


 伊吹は過去にも何度か、

 柚美の視線に友情以外の感情が紛れているような気がしてならいときがあった。


 実際にその感覚は正しいのだが、余り深く考えたことはない。


 追求すると、また大喧嘩になる。


 伊吹は未だに自分の中で折り合いがついていない。

 心臓の手術を受けた後、麻酔が効いて寝ている間に柚美に口づけをされたから、手近にあった花瓶を投げつけて額を切り裂いた。


 怪我をさせたことは申し訳ないとは思っているが、

 友情を裏切るような真似をした柚美が悪いのはあきらかだ。


 流血沙汰になったのは確かにやり過ぎだったかもしれないが、

 原因は柚美にある。


(親友同士のスキンシップと言うけれど、

 絶対に嘘だわ……)


 伊吹は無地の白いショーツとシャツだけという、

 ラフすぎる格好になっている。


 男性用の大きいサイズのシャツだったので、裾を押さえれば下着を隠せた。

 残念なことに、たちよったコンビニでは女性用のシャツは売っていなかったのだ。


 伊吹は視線がいやらしい柚美のことは意識から追いだし、

 アイに微笑みかける。


「おそろいね、アイさん」


「ウイ! ママとおそろい」


 アイも全く同じ格好をしている。


 華奢な伊吹は病院から抜け出た患者のようだが、

 アイはアルプスの山を駆け回りそうなほど元気があふれていた。

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