2 伊吹は赤子が泣き止む理由を知る
伊吹がおたおたと見守る中、
アイの小さな身体や手がぷるぷると震えている。
陸の魚みたいに、口をぱくぱくし、ひゅー、ひゅーと息を吸っている。
明らかに泣き出す前兆であった。
伊吹は直前のを上回る爆発を予感し、声を柔らかくする。
「落ち着いて。アイさん。
落ち着いて聞いて。私が悪かったわ。ね。
今、黙りなさいって言ったのはアイさんのことじゃないの。
後ろで無遠慮に笑っていた柚美さんに言ったの」
アイが息を大きく吸い、ほんの一瞬、室内に静寂が訪れる。
直後。
「うわあああああああああああああああああああああああああああんっ!」
泣き狂った。
アイは伊吹の膝から転がり落ち、手足をぶんぶんと振り回し続ける。
盛大なるひとり裸祭りだ。
伊吹は思わず「ひっ」と両耳を覆った。
どうしたら良いのか分からない。
とりあえず裸のままは良くないだろうと、恐る恐る布団を被せてみた。
あとはただオロオロとしているしかない。
まるで腫れ物でも触るかのような手つきでアイの頭を撫でてみる。
が、泣く勢いは全く衰えない。
かけた布団が跳ね飛ばされた。
「アイさん、落ちついて。ね」
羽毛の掛け布団では、泣き暴れる子のパワーを押さえきれないようだ。
伊吹は部屋にある唯一の人形テディベアを、
アイの眼前にかざして興味を引くように揺らしてみた。
「ほ、ほら熊さんよ。泣き止まないと、ガオーよ」
だが、効果は無かった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああんっ!」
アイの裏拳が直撃し、テディベアは部屋の隅っこへ勢いよく飛んでいく。
それを見た柚美が悲鳴をあげる。
「ああっ、柚美が!」
柚美が自分の名前を付けてプレゼントしてくれた熊は、
頭を本棚の最下段に突っ込み、胴体をだらりと垂らした。
「お願い。泣き止んでよ。
そうだ。居間に羊羹があるわ。欲しいでしょ。
ほら、柚美さん、取ってきて」
「羊羹は小さい子にあげるには渋すぎるよ」
さすがに柚美も事態を重く見始めたらしく、笑うのをやめ、
伊吹の隣で一緒にオタオタし始める。
「じゃあどうすればいいのよ?
最中? きな粉餅? あんころ餅?」
「だから、チョイスが渋すぎるよ。
和菓子から離れて。
いまクッキー焼いているから、クッキー」
「いつ出来るのよ」
「今、絵理子さんが焼いてるから、もうすぐ」
伊吹と柚美が何もできずにいると、廊下からペタペタと、
スリッパが床を叩く音が近づいてきた。
「泣き声が台所まで聞こえているわよ。どうしたの?」
のほほんと笑いながら現れたのは、高城絵理子。
伊吹の親戚にあたる二十五歳の女性で、
伊吹が物心ついた頃から同居している。
母を早くに亡くしている伊吹にとっては、姉兼母親のような存在だ。
絵理子は料理をしていたため、大きめのエプロンをふわりと着ていた。
アイが誘拐されそうになったことや
大蛇が襲ってきたことは昼食時に全て話してある。
その際は、うふふと笑いながら聞いていたので、
何処まで信じているのかは不明だ。
伊吹は保護者のような存在に現状を知られてしまい、
自身の失態を恥じ入るあまり、声を小さくする。
「どうしたのと聞かれても、こうなっているとしか……」
「いったい何事かと思ったんだから」
絵理子は軽く溜め息をつきながら部屋に入る。
絵理子は前屈みになり「めっ」と言いながら、
伊吹の額をこちんと叩く。
「おねしょしたからって、アイちゃんを虐めたら駄目でしょ」
「べ、別に虐めてなんか……虐めたかも」
伊吹は反論しようとしたが、
絵理子が「むっ」と頬を膨らませたので、
言い訳が出来なかった。
絵理子は伊吹の隣に座ると、
暴れ続けているアイを慣れた手つきで抱き起こす。
「小さい子は、こうやってあやすの。ほら、抱いて」
絵理子がアイのお尻を持ち上げて伊吹の膝の上に乗せる。
アイの頭が伊吹の胸に来る形になり、アイの泣き声が少し小さくなった。
「伊吹、頭抱えて。ほら、手はこっち」
「う、うん」
絵理子の指示に従うと、
伊吹は赤ちゃんを抱っこするような姿勢になった。
ただ、小柄とはいえアイは三歳児なので、
赤ちゃんにしてはちょっと大きい。
「ねえ伊吹。
なんで母親が抱くと赤ちゃんが泣き止むか知っている?」
「……落ち着くから?」
「そうよ。
生まれる前も、おっぱいを飲む時も、
赤ちゃんは母親の心臓の音を聞くの。
一番安心できる音なのよ。
だから泣いた赤ちゃんをあやすときは胸に抱くの」
絵理子の言葉を証明するように、アイがすっと泣き止んでいく。
アイは暫くひぐひぐとしゃっくりをすると、
腕や脚を小さく折りたたみ、丸まるようにして眠ってしまった。
「胎児みたいでしょ。
お腹の中にいた時のことを思い出しているの。
人間って、こうやって丸まっていると安心するのよ」
騒がしかった室内に、ようやく穏やかな空気が流れ始める。
しかし、空気の読めない柚美がすぐに雰囲気をぶち壊すことを口にする。
「ねえ、何で絵理子さん、そんなこと知っているの?
恋人すらいないのに」
「……柚美ちゃんは、クッキー無しね」
絵理子はほわほわした口調だが、
同居人の伊吹にしか分からない程度に、声のトーンが落ちている。
伊吹は視線で柚美に「黙れ」と訴えるが、
絵理子に顔を向けている柚美は気付かない。
「えっ、クッキー作るの手伝ったのに?
私、変なこと言った?
もしかして絵理子さんって赤ちゃん産んだことあるの?」
「ないわよ。
ただ私も、世話のかかる大きな赤ちゃんを育てたことがあるだけよ。
ね、伊吹」
「そ、そうね」
伊吹は、絵理子から逃げ、視線を畳みに落とす。
絵理子が言う大きな赤ちゃんに十分以上に心当たりがあった。
なにせ、伊吹自身のことなのだから。
伊吹はこの話題を広げたくないから、口を閉ざして、
うやむやにしたかった。
しかし、やはり空気を読めない柚美が食い下がる。
「大きな赤ちゃんってどういうこと?」
「柚美さん。アイさんが眠ったから静かにして」
伊吹はにべもない対応する。
断固阻止しなければならない話題がある。
大きな赤ちゃんが何歳頃までおねしょをしていたのか、
いつまで一緒の布団で寝ていたのか。
絵理子は伊吹自身よりも詳しく覚えているはずだから、
話題がそちらへ向かうのは避けねばならない。
特に、今でもたまに一緒にお風呂に入っているなんて知られたら、
どれだけからかわれるか分からない。
仕方がないことなのだ。
伊吹は入院中や退院直後は自分で満足に身体が動かせなかったため、
万が一の事故がありうるため、ひとりでお風呂に入るのは危険なのだ。
柚美は面白い話題の気配を感じたのか
「ねえねえ」
と伊吹の肩を揺さぶって食い下がる。
伊吹は
「はいはい」
と適当にはぐらかす。
ふたりがじゃれあっていると、
絵理子が手を柔らかくポンと鳴らす。
「柚美ちゃん。そろそろ焼けるから行くわよ。
いつまでもオーブンに入れたままだと余熱で焦げちゃうわ」
絵理子は右手できつねの形を作り、ぷいぷいと振る。
料理の本がよく、クッキーの焼き加減をきつね色に例えるから関連を持たせたのだろうが、料理に疎い伊吹と柚美には何も伝わらなかった。
柚美は首を傾げながら立ち上がる。
「うん。
伊吹ちゃん、美味しいクッキー待っててね。
うさぎの形にしたのがあるから」
柚美が出て行き、次に絵理子退出の間際に、脚を止める。
「あ、そうだ。アイちゃんにおっぱいあげてね」
「な」
授乳している場面を想像して伊吹の頭が輝き始めるのと、
襖が閉まるのは同時だった。
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