吸血鬼の娘はヤマタノオロチと出会う
うーぱー
プロローグ
心臓の見せる夢
豪雨。
夜の底に穴があいたと錯覚するほどの水量が街を呑みこもうとしていた。
イレーヌは幼子を抱きかかえ、空からの圧力に抗い一心不乱に走る。
雨の轟音に包まれた街で、赤子のか細い鳴き声はイレーヌにだけ届く。
「もう少しだけ我慢してね。
すぐに温かいお風呂にいれてあげるから」
イレーヌが走り過ぎた後のアスファルトに、赤い染みが点々と落ちては雨に溶けていく。
イレーヌは腕に負った裂傷の痛みに耐えながら、赤子をあやすために微笑む。
「逃げ切れ……た?
駄目。もっと遠くへ逃げないと……」
同じような見た目のビルが左右にそそり立ち、
イレーヌは少しも先に進めていないような錯覚さえ抱く。
イレーヌは疑念を振り払うため、何度も視線を左右に振った。
緊急避難警報が発令される程に雨脚が強く、
人通りはなくタクシーすら走っていない。
三叉路の先に高架があったので、イレーヌは雨宿りをすることにした。
「この雨が私の足音と匂いを消してくれている間に、もっと遠くへ……」
ぜえぜえという吐息は、地鳴りのような雨音にかき消されていく。
「あんな得体の知れない組織に頼ろうとした私が間違っていたわ。
貴方は私が護る。命に代えても」
母親の声音に不穏な気配を感じたのか、赤子が一際強く泣き始めた。
イレーヌははっとして、強張っていた表情を崩す。
「弱気になったら駄目ね。
私に何かあったら、貴方におっぱいをあげる人がいなくなっちゃうよね。
頑張るわ」
イレーヌは赤子に頬を重ね、体温を交換しあう。
しかし、無粋な足音が親子の時間に終わりを告げる。
「追いついたぞ」
高架下に硬質な男の声が侵入した。
イレーヌは相手の姿を確認せずに走りだす。
「待て!」
「うあっ」
男の手がイレーヌの長い髪を掴み、強引に引き寄せる。
イレーヌは崩しかけた体勢を立て直す際に、男と眼があい、背筋に冷たいものを感じた。
20台後半くらいの、白衣の男が眼をぎらつかせながら、顔をイレーヌに近づける。
雨と汗で濡れた表情は、冷徹に染まっていた。
「逃げたければひとりで行け。追いかけはしない。
だが、貴様の娘は置いていけ」
「ふざけ――。くっ……!」
イレーヌは罵声を浴びせようとしたが、怪我した左腕を掴まれたため、声は呻きに変わる。
赤子を片腕で支えるイレーヌは思うように抵抗できない。
「貴様の傷は治っていないな。やはり、吸血鬼は娘だけか」
「津久井! その呼び方はやめてと言ったはずよ」
津久井と呼ばれた男は額に手を当て、大仰に高架の底を見上げる。
「ふふっ!」
掴まれていた髪と腕を離され、イレーヌはよろめいた。
高架下の薄暗い照明が点滅し、津久井の歪んだ口元を浮かび上がらせる。
「身体にメスを入れても、ものの数分で完治してしまうそれが、
吸血鬼でないというのなら、いったいなんだというのだ。
常人を遥かに凌ぐ造血幹細胞の多能性をどう説明する」
イレーヌは赤子を抱く右腕に力を込め、身を盾にして庇うように身体を捻る。
「私は娘の異常体質の原因を知りたかっただけなのよ。
娘を実験に使うなんて話は聞いていなかったわ」
イレーヌは眉をつり上げて睨みつけるが、
津久井は気にするでもなく、額に張り付いていた髪を掻き上げる。
「考え直せ、イレーヌ。悪い話じゃないだろう。
俺は、お前の娘を殺そうなんて思っていない。
その子の成長を誰よりも望んでいるんだ」
「ふざけないで。貴方は約束を破って私の娘を傷つけたのよ」
「私の書いたV型稀血の論文は読んだのだろう。
お前の娘は吸血鬼と呼ぶしかあるまい。傷は治るのだから問題無い」
「私は、この子には普通の生活を送らせたいのよ。
揺りかごもガラガラも無いような部屋に閉じこめられるのは、
もう耐えられない!」
「なんだ。揺りかごが有ればいいのか。直ぐにでも用意しよう」
「そういう問題じゃない。
貴方の下らない実験と妄想にこの子を使わせないと言っているのよ。
貴方だって人の親でしょ。どうして、こんなことが出来るの!」
「ふん。私の実験の意義はお前には分からん。
もう、お前の許可などいらない。
こうして会話している間にも観察していたが、
やはりお前の傷は治る気配がない。
それとも、もっと深い傷を与えれば、お前も治癒が始まるのか?
喜べ。お前が代わりになれるか、今、試してやろう」
津久井が無造作に手を振った瞬間、イレーヌの脚に裂傷が生まれ大量の血が噴きだした。
「きっ――」
絶叫を堪えながら桐原伊吹は目を覚ました。
見慣れた天井が視界に入り、夢を見ていたことに気付くと伊吹は肺に詰まっていた息をゆっくり吐きだす。
「また同じ夢か……」
汗でじっとりとした背中に空気をあてたくて上半身を起こす。
「おはよう。今日も一日、よろしくね」
障子越しの柔らかい日差しの中、伊吹が胸に手を当て呟くと、黒髪が背中でサラサラと鳴った。
死の恐怖すら感じる夢を見たのに、心臓は穏やかに脈打っている。
伊吹の心臓は臓器移植されたものだから神経が繋がっていないため、悪夢の影響で動悸が激しくなることはない。
春の夜明けに部屋が暖かくなるのと同じくらい、ゆっくりと心臓は鼓動している。
伊吹は胸に手を当てたままじっとし、室内をぼうっと眺めた。
来月から高校の最上級生になる女の部屋にしては、殺風景な和室だった。
らしい物といえば、枕元にある友人から貰ったテディベアくらい。
家具は勉強机と本棚があるだけ。
本棚には歴史小説の他に、壁から外した額装の表彰状が押し込んである。
いずれも剣道の全国大会で優勝した、華々しい成績の証明だ。
しかし、伊吹は事故で心臓を失って以来、剣道は辞めた。
伊吹は時計を見て、一年前だったらジョギングと素振りを終える時間であることを知る。
「今頃みなさん、今日の試合に備えてウォーミングアップでもしているのかしら」
今日は伊吹の友人が剣道の大会に出場する日だ。
「ん……」
伊吹は軽く息を吐いてから、ぽてんと寝転がり、布団を頭から被って丸まる。
(遅く起きるのが当たり前になってるわね……)
布団の中から腕だけ出してテディベアを引きずり込み目を閉じた。
別の夢が良いなあと思いながら、うとうとと微睡む。
やがて眠りにつくと、ささやかな希望は叶い、
先ほどとはうってかわって優しい夢が始まる。
「あっ、んっ……。おっぱい……噛んじゃ、駄目……」
家族が聞いたら家族会議が開かれかねない寝言だった。
臓器移植を受けてから見るようになった夢の内容を、伊吹は家族にも友人にも教えていない。
悪夢の方は心配させるのが分かり切っている。
子育ての夢も、やはり別の理由で心配させてしまうだろう。
まさか、自分が外国人の女性になり、赤ちゃんに授乳したりお風呂に入れたりして子育てしているなんて、恥ずかしくて人には言えない。
桐原伊吹17歳。
布団の中で見る夢は一児の母であった。
熊の縫いぐるみを我が子のように抱く頬は、柔らかく弛んでいる。
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