Episode12:日常との訣別

 ヴァンゲルフの剛腕が唸りを上げて振るわれる。文字通り丸太のような容積が、風圧を伴う速度で振るわれるのだ。普通の人間ならその迫力だけで硬直してしまうだろうし、喰らったら勿論一溜まりも無い。


 だがユリシーズはそれ以上の速度を以って、薙ぎ払われる腕を軽々と躱していく。彼の動きは明らかに人間の範疇を超えている。


「どうした、デカブツ? 腕振り回すだけならゴリラでも出来るぞ?」


『オノレ、コノ鼠メガ……!』


 業を煮やしたのかヴァンゲルフが一際大きく吠えると今度は両手を突き出してきた。片腕で当たらないなら両腕で、と単純な攻撃と思われたが、そこで奇怪な現象が起こった。


 何とヴァンゲルフの両腕が肘関節を支点に倍以上・・・の長さに伸びたのだ。普通戦いにおいて相手の腕が倍以上いきなり伸びるなどという事はあり得ないので、意表を突かれた敵は間違いなく対処が遅れる。


「……!」


 案の定回避が間に合わなかったユリシーズは、ヴァンゲルフの巨大な拳をまともに喰らって吹き飛んだ。


 人間なら間違いなく全身の内臓が破裂して、骨が砕けて即死。そうでなくとも吹っ飛ばされた勢いで転落防止用のネットを突き破って、遥か下の地面に真っ逆さまだ。


 だがそのどちらも起きなかった。


「ふっ!」


 ユリシーズは鋭い呼気を吐き出すと、何と吹っ飛ばされたまま空中で身体を旋回させて、ネットの柱部分に両足を「着地」させる。その際に膝を大きく曲げて吹き飛ばしの勢いを完全に殺したらしく、ネットは殆ど揺れもしなかった。


 恐ろしい……というよりも物理法則を無視したような現実離れした体術であった。ネットの柱から足を離して、ストッと床に降り立つユリシーズ。その姿はヴァンゲルフの攻撃を受けてダメージを負っているようには見えない。



『ヌゥ……キ、貴様……!?』


「はっ……喧嘩を売る相手を間違えた事にようやく気付いたか? もう手遅れだがな」


 初めて動揺したように唸るヴァンゲルフ。ユリシーズは対照的に獰猛な笑みを浮かべる。攻撃を受けて吹き飛ばされた衝撃で、彼のサングラスが外れ飛んでいた。その金色に輝く瞳で相手を睨みつけて威嚇する。


『ソノ眼……貴様ハ、マサカ……?』


「生憎こっちには余計なお喋りしてる時間はないんだ。もたもたしてるとお前らのお仲間が集まって来ちまうんでな。とっととケリ付けさせてもらうぜ」


 ユリシーズの瞳を見たヴァンゲルフが何かを言い掛けるが、それを遮るようにユリシーズが圧力と……そして殺気を高める。



『ヌ……ホザケ、半端者・・・ガァッ!!』


 ヴァンゲルフがその不揃いな牙の生え並んだ口を大きく開く。するとそこからあの蒸気のような吐息が大量に吐き出された。それは本当に蒸気……それも相当に高熱な蒸気であったらしく、戦いの余波で散乱した多くの飛散物がその蒸気に巻かれて、煙を上げて焼け焦げていく。


 あの灼熱の蒸気に包まれたら、全身が焼け爛れて一瞬で焼死してしまうだろう。如何に驚異的な耐久力を誇るらしいユリシーズも、表皮を焼き焦がす地獄の蒸気に耐えられるはずがない。しかも蒸気はヴァンゲルフの口から放射状に広がっている為、跳んで躱せるような攻撃範囲ではない。


 果たしてユリシーズは一切に防御や回避行動を取らずに、代わりに両手を前に突き出した。


『הְיוׄאוּרָן』



 その口から再びあの異質な言語による呟きが漏れ出る。するとユリシーズの両手の先から……強烈な冷気・・が噴き出し、大量の霜を伴った局地的な吹雪・・が発生した!



 ヴァンゲルフの吐き出した蒸気と、ユリシーズの作り出した吹雪が接触し……高熱のはずの蒸気が凄まじい勢いで凍り付いていく。


『ナァッ!?』


 ヴァンゲルフが口を開けたまま驚愕する。だが逃げる暇もあればこそ超低温の吹雪は蒸気を恐ろしい勢いで凍り付かせながら、それを伝ってヴァンゲルフに迫る。


『馬鹿、ナ……!!』


 まさに蒸気を吐き付けている最中のヴァンゲルフは能動的な防御が取れない状態であり、そのまま蒸気もろとも一瞬にして凍り付いてしまった。巨大な人型の氷像が出来上がった。


「ふっ!」


 ユリシーズは跳び上がると、その氷像目掛けて飛び蹴りを叩き込んだ。ヴァンゲルフの氷像が派手な破砕音とともに粉々に砕け散る。


「さて……」


 あの恐ろしい巨人を事も無げに倒してしまったそれ以上の怪物は、床に落ちて更に粉々に砕けて塵に還っていく氷の破片を背景に、唖然として超常の戦いを眺めていたビアンカ達の方に振り返った。





「馬鹿な……ヴァンゲルフが……。お、お前、一体何者だ……?」


 拘束したビアンカを引っ立てたまま、ヴィクターが驚愕に声を震わせる。ビアンカもまた後ろ手に縛られたまま呆然とその戦いを眺めていた。


 ただ人間離れした身体能力を持っているというだけではない。その魔法のような力も含めて、彼が極めて強い・・という事がビアンカには解った。いつしか彼女は熱の籠もった目で、ユリシーズの戦いぶりを追っていた。彼の戦いに魅せられていた・・・・・・・と言ってもいい。



「寄るな! この女を殺すぞっ! 下がれ!」


「……っ」


 だがヴィクターが乱暴に彼女を引っ立てて後ろから抱きすくめるようにして喉を鷲掴みにしてきたので、ビアンカは苦しさから呻いてしまう。反射的に逃れようとするが、やはりヴィクターの力には敵わず尚且つ後ろ手に縛られている状態ではそれも不可能だった。


 ヴィクターの牽制にユリシーズが足を止める。だがその強烈な闘気と殺気はそのままだ。


「お前にその女が殺せるのか?」


「何だと?」


「そいつはカバールの構成員達が欲しがっている女だ。お前が独断で殺したりしたら只じゃ済まないだろうな」


「……!!」


 ヴィクターの顔が歪んで、彼女の喉を掴む手が僅かに緩む。


「それに万が一殺したりしたら……その時はお前も確実にこの世とおさらばする事になる。その覚悟があるんならいいぜ。殺してみろよ」


「……っ」


 ヴィクターの手が彼の動揺を表わすように更に緩む。それを見て取ったユリシーズが若干口の端を吊り上げる。


「だがお前は運がいい。俺達も余りここに長居は出来ない身なんでな。今すぐその女を離して、その時計も返してやれ。そうしたら俺もお前を見逃してやる」


「……その言葉を信じられる根拠は?」


 それを聞く時点でヴィクターの心が大分傾いている証拠だ。ユリシーズの笑みが深くなる。


「根拠? そんな物はないな。だがお前に選択肢は無い。違うか?」


「……!」


 ユリシーズの強さからすると或いは強引にビアンカを取り戻す事も可能かも知れない。分の悪い賭けになる。どのみちこのままではヴィクターの命は風前の灯火だ。


「……くそ!」


「……っぅ!!」


 ヴィクターは毒づいてから、ビアンカを乱暴にユリシーズに向かって突き飛ばした。ユリシーズは反射的な動きで彼女を抱き留める。それを意識した彼女の胸も反射的に鼓動が速くなる。



 ヴィクターはその間に転落防止用ネットの側まで駆け寄った。そしてこちらを振り向いた。その手にはまた彼女の腕時計が握られていた。


「……ビアンカ。君とはまたいつか会う事になるだろう。必ずね。俺はその時にはもっと強くなってるだろう。君はどうかな?」


「……っ!」


 彼女は先程の屈辱を思い出して唇を噛み締め、後ろ手の両手を拳に握った。


 ヴィクターが時計を投げて寄こす。ユリシーズがそれを正確にキャッチした。その隙にヴィクターはネットを軽々と飛び越えて屋上から身を躍らせていった。人間なら自殺行為だが、彼は最早人間ではない。そのまま遥か下の地面に着地すると、夜の街の暗闇に消えていった。



「……意外だな。どうやらあのガキはカバールの構成員と同じく、悪魔と契約していたらしい。尤も契約して日が浅いせいか、まだその力を殆ど使いこなせてはいないようだが」


「……!」


 それはつまり彼が言った、また会う事になるという言葉も、もっと強くなるという言葉も本当であるという事だ。


「…………」


 エイミーを直接殺したという彼の言葉と顔を思い出し、ビアンカは再び強く拳を握り締めた。


(今のままじゃ、駄目だ……。私、もっと強くならないと……)


 ヴィクターと再び相対する日を想像し、彼女は内心でそう強く決意するのだった。



「ほら、お目当てのものだ。失くすんじゃ……って、また縛られてるのか、お前は? そういう趣味でもあるのか?」


 腕時計をビアンカに渡そうとして彼女が後ろ手に縛られている事に気づいたユリシーズは、呆れたように眉を上げた。ビアンカは今の自分の状態を思い出して顔を赤らめた。


「う、うるさいわね! そんな訳ないでしょ! 早く解いてよ!」


「おいおい、それが人に物を頼む態度か? ……ったく、ほら、向こう向け」


 ユリシーズはボヤきながらもビアンカに背中を向けさせて、彼女の両手首を拘束している紐に触れる。


「ふん、初歩的な魔術だな」


 ユリシーズは鼻を鳴らすと、紐に触れた手に何らかの力を込めた。するとあれだけもがいても緩む事さえなかった紐が、嘘のようにあっさりと外れた。


「あ、ありがと……」


 自由になった手首を擦りながらモゴモゴと口の中で礼を言うビアンカ。何故か分からないが、なんとなく彼には素直に礼を言う気になれないのだ。自分でも不思議であった。


「どういたしましてってか? ほら、もう失くすんじゃないぞ」


 だがユリシーズは一向に構わないようで、皮肉げに肩をすくめながら改めて時計を手渡してきた。


「……!」


 再び自分の手に戻った両親の形見の品。ビアンカはしばしそれを両手で捧げ持って、亡き養父母の顔を思い浮かべた。そして腕時計を自分の左腕に装着する。もう二度と手放したりしない。



「……さあ、これで用事は済んだな? それじゃさっさと出発するぞ。あれだけ魔力を発散すれば、もう俺達がここにいる事は奴等に嗅ぎつけられてるだろうからな」


「ええ、勿論よ。行きましょう」


 ビアンカは頷いてから最後にもう一度だけ、自分が暮らしていた寮の建物を見下ろした。今まで日常を過ごしてきた場所。だがもう二度と帰る事の出来ない場所でもある。


(いつか……いつになるか分からないけど、私は必ずここに、この街に戻ってくる。この悪夢を終わらせて自分の日常を取り戻したら、必ず……!)


 改めてそう決意する。エイミーの髪留めと両親の腕時計に触れる。今はこれだけあれば充分だ。彼女の大切な3人が見守っていてくれる。


 そしてビアンカはユリシーズに連れられて、住み慣れた日常から遠ざかっていった……


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